恋は戦争
セレナは困ったような、不安げな表情でサトシを見つめていた。
しかしサトシは覚えがないのか、きょとんとした表情でセレナを見上げていた。
自分のことを全く覚えていないのだと悟ったセレナは一歩前に出た。
「ほら、前にも会ってるでしょ?マサラタウンのキャンプで!」
キャンプというのは、オーキドが主催したポケモンサマーキャンプのことだという。
ああ、と思いだしたらしいサトシが笑みを浮かべる。
サトシの笑みに、セレナが不安げな表情を消した。
けれどもサトシはキャンプに参加したことは思い出したものの、セレナがいたかどうかは覚えていないらしい。
セレナが残念そうにうなだれた。
落ち込んでいるセレナには悪いと思うが、シンジは心の底から安堵した。
ピカチュウたちを拭いてやろうとハンカチを取り出した。
「ごめん」
「ううん、いいの、いいの!今は特訓に集中して!・・・思い出すのは後でいいわ」
セレナがサトシの謝罪に笑みを向ける。
思い出してもらうのをあきらめたわけではないらしいのが気にかかるが、自分に甘えてくるピカチュウたちを待たせるのも忍びないと、軽く頭をなでて顔をぬぐってやろうと手を伸ばした。
「それにしても、ポケモンバトルってすごいのね」
「見ててくれたんだろー?さっきはみっともないとこ見せちゃったなー・・・」
「そんなことないよ。凄い、かっこよかった!」
ピカチュウの顔をぬぐってやろうと頬にハンカチを当てた時、丁度聞こえてきた会話の内容に、シンジの動きがぴたりと止まった。
ミジィ・・・と布から出てはいけないような音がして、頬に布を当てられたピカチュウ、順番待ちをしていたヤヤコマが全身を硬直させた。
そのあともミシミシと断続的に発せられる音に、2匹が少しずつ後退る。
ある程度距離を取ったところで2匹はシトロンとユリーカに飛びついた。
急に自分たちに飛びついてきた2匹に、シトロンとユリーカが驚きながらもよしよしと頭をなでて、体をぬぐった。
シンジは2匹が逃げ出したことにも気づかず、ただハンカチを握りしめていた。
「サトシは前に会った時もそう。”最後まであきらめるな”って。変わってないよね。サトシらしいよね」
サトシとセレナは、シンジの様子に気づいていない。
サトシはセレナの言葉にぽかんと口をあけていた。
それから、口の端から「ふ、」と息を漏らし「そうだ、忘れてた」と満面の笑みで笑いだした。
「俺らしさか。何で忘れてたんだろう。ありがとう、セレナ。おかげで助かったぜ」
「う、うん」
すっきりとした表情で、サトシが立ち上がる。
セレナはよくわかっていなかったようだが、彼女はシンジのやろうとしていたことをやってのけたのだ。
サトシの、自分らしさを思い出させるということを。
サトシはセレナにハンカチを渡し、フィールドに入った。
「パンジーさん!もう一度お願いします!」
「おっけー!」
サトシの言葉に、パンジーがベンチからたちあがる。
元気になったサトシに、ピカチュウたちが嬉しそうに駆け寄った。
「考えすぎ何て俺らしくなかった。今までだって気合で乗り越えてきたんだ」
駆け足でこちらに戻ってきたセレナを視界の端でとらえながら、シンジはサトシを見つめた。
悩みの吹っ切れた、すっきりとした表情。
どこまでも前を見続ける強い瞳。
サトシらしい表情に、シンジがかっこいいな、と目を細めた。
その表情にしたのがセレナで、今目の前にいるのがパンジーであることには納得しかねるが、それでも高みを目指そうと上へ上へと手を伸ばすサトシはかっこいいのだ。
現金なやつだ、と自分自身に呆れながらも、シンジはサトシを見つめた。
「行くわよ、オンバーン、風起こし!」
「ピカチュウ!足場を固めろ!ヤヤコマはバランスを保つんだ!」
強烈な風起こしに負けじとピカチュウとヤヤコマが踏ん張りを見せる。
サトシの気合いに答えるように、ピカチュウがしっかりと地面にしがみつき、しっぽをつきたてた。
ヤヤコマは尾羽の角度を変えることによってバランスを保つことに成功した。
「ピカチュウ、10万ボルト!ヤヤコマ、かまいたち!」
「よけるのよ、オンバーン!」
吹き飛ばされず、体制を保っていた2匹に攻撃の指示を出す。
避けられてしまったものの、風起こしの中でも攻撃に転じることが出来た。
これは大きな進歩だ。
「少しコツをつかんだようね。まだまだ行くわよ!オンバーン、風起こし!」
そして特訓は夕方まで続いた。
特訓を終えたころにはピカチュウもヤヤコマもすっかり息が上がっていたが、得られるものはあったようで、どこかすっきりとした表情をしていた。
夕食が終わってからも、特訓は続いた。
調子を取り戻してからは、その自由なひらめきにも拍車がかかったのだろう。
氷のフィールドについては秘策を見出したようだった。
氷のフィールドなら自分も協力できたのだが、とシンジが人知れず落ち込んでいたが、ポーカーフェイスがあだとなり、サトシにすら気付いてもらえなかった。
別に気にしてなんかいない。気にしてなんか・・・。
そんなこんなで残すところの課題はあとひとつ。ねばねばネットだ。
これに関してはシトロンが協力を申し出たがお約束の展開として、マシンが壊れたのは御愛嬌。
一体どんな局面を想定したのかははなはだ疑問であるが、この際置いておくとしよう。
いつものように爆発したのだが、シンジのみ回避していた。
今のところ、シトロンの発明の爆発に巻き込めれていない。
その危機察知能力と回避率の高さは神がかっている。
ピカチュウもなかなかに危機回避能力は高いのだが、なぜかこれだけはよけられないのである。
閑話休題。
壊れたマシンを見て嘆くシトロンには苦笑を禁じ得ない。
「よーし、こうなったら出てこい、ケロマツ!君に決めた!」
「ケッロ!」
「ねばねばネットの代わりにお前のムースを飛ばしてくれ!」
ケロマツがムースをちぎり、ピカチュウたちに向かって投げる。
シトロンのマシンで経験値を積んだのか、避ける動きに無駄はない。
ケロマツはひたすらムースを投げ続けるが、ピカチュウたちには当たらない。
「その動きなら大丈夫だ。よーし、終わりにしよう」
「ぴかっちゅー!」
特訓が終わるころには、すっかり夜も更けていた。
この時間まで起きているのは幼いユリーカにはつらかったのだろう。半分寝掛かっているユリーカを、シトロンが先に連れて帰る。
それを微笑ましく見守って、サトシがピカチュウたちに声をかけた。
「俺たち、できる限りのことはやったぜ。後は全力でビオラさんにぶつかるだけだ。気合入れていくぞ!」
「ぴっかー!」
「ヤッコー!」
「ケェロ」
気合を入れるサトシたちに、シンジがゆっくりと歩み寄る。
シンジが近づいてくるのに気付いて、サトシたちがシンジを見上げた。
「お疲れ」
「サンキュ」
タオルを差し出し、ねぎらいの言葉をかける。声音も酷く優しい。
シンオウにいたころではありえなかった光景だよな、とサトシがくすりと笑みを漏らした。
「・・・明日は勝てよ」
がらりと変わった声が耳を打つ。
命令するような強い口調。
あのころに戻ったみたいだな、とサトシは一人ごちた。
「もちろん、そのつもりだ」
ピリリとした獰猛な気配がシンジの肌をさす。
イッシュではお目にかかれなかったサトシがそこにいる。
勝利というえさを前に、腹をすかせた獣のような目で、シンジを射抜く。
ああ、明日は絶対に勝つだろうな、とシンジは眼を細めた。
ざり、という砂を踏みしめる足音に、サトシとシンジが振り返る。
セレナが近づいてくるのに気付いて、サトシが立ち上がった。
「トレーナーとポケモンって、こんなに頑張ってるんだね。ジムバッジをゲットするために、凄い努力するんだね!」
セレナが感動したというように、目を輝かせた。
「セレナもすぐにそうなるさ。これから旅をして、ポケモンゲットして、ジムでバトルするんだろ?」
「そう言えば、フォッコをもらったけど、この先どうするかは決めてなかった・・・」
困った、というふうに眉を下げる。
サトシは大丈夫だよ、というように笑った。
「そっか。ま、ゆっくり考えればいいよ。な?」
「ああ」
「ぴーかっちゅ!」
「うん!ありがとう!」
不安げな表情を払しょくさせ、セレナが笑う。
笑い合うサトシたちの頭上では、たくさんの星が瞬いていた。