信頼と絆の物語






 シンオウの針葉樹林の奥深くに建てられた古い城。そこはポケモンレンジャー協会、シンオウ第3支部として使われている。
 トップレンジャーのヒナタに仕事を依頼されたサトシとシンジは、心を閉ざしたヒンバスの心を溶かす仕事を完遂させた。
 しかし旅の中で自然に慣れさせながらヒンバスを野生に返そうと思っていたところに、ロケット団の襲撃に見舞われたのだ。
 その上、シンジの危機を助けたシゲルからの仕事の依頼もあって、サトシ達は古城に宿泊することとなった。
 もっとも、シゲルからの依頼は夜も更けてきたということで翌日、つまり今日の予定に組み込まれたのだが。

 そして朝、次の仕事で旅立つヒナタを見送りに古城の前にサトシ達はいた。


「ヒンバスのこと、本当にありがとね。ロケット団の襲撃にまで対応してくれたみたいで……」


 本当は私たちが対処しなきゃいけないのに、とヒナタは本当に申し訳なさそうに眉を下げた。


「構いませんよ。ロケット団については、もう慣れっこですし」


 ロケット団に関しては、サトシが誰よりも対応に慣れているだろう。もう5年の付き合いだ。友愛のようなものも芽生えている。ロケット団について話すときは、いつだって親愛が込められていた。
 レンジャーとして言わせてもらえば、それはよくない傾向だ。けれどもヒナタもサトシを通してロケット団とはかかわりを持っている。彼らがただの悪人とは違うことを知っているため、ヒナタは笑って気付かないふりをした。


「ヒンバスについてはもう少し様子を見て野生に返します」


 すっかりシンジを気に入ってしまったヒンバスは、シンジの腕の中でご満悦だ。
 けれど、野生に返す、と言われて、ヒンバスは表情を一変させた。
 不安げをあらわにしてシンジを見上げている。
 そんな彼女の感情が伝わったのか、サトシとシンジが一斉にヒンバスに目を向けた。


「ヒンバス?」
「どうした?」


 迷子の子供のような瞳で見つめられ、サトシとシンジは困ったように顔を見合わせた。
 2人の反応に、ヒナタもヒンバスを見つめた。
 ヒンバスは唇を震わせ、パクパクと口を動かした。


『私、野生に帰らないと駄目、なの?』
「え……?」


 サトシとシンジは、お互いに高めあって強まった波導の力によってポケモンの言葉を聞くことが出来る。
 特にサトシは自分の心を波導に乗せて伝えることに、シンジは相手の波導を受け止めることに優れていた。
 ヒナタにはポケモンの言葉がわからないが、2人の反応から、衝撃的な言葉を言われたのはわかる。
 2人は零れそうなくらいに目を見張ってヒンバスを見つめていた。


『私、あなたたちと一緒にいたい』


 泣きたいのを我慢するような顔で、ヒンバスがシンジに擦り寄る。
 その様子にサトシとシンジは驚いていたが、ヒナタはそんなサトシ達に苦笑した。
 ヒナタはこの光景を何度も見たことがある。主にサトシとシンジと仕事を終えた後などに。
 けれど本人たちの方がこういう場面に遭遇しているはずなのに、当人たちはいつまでたってもこの光景に慣れないのだ。


(あなたたちなら、可笑しいことでも何でもないのに)


 これだけポケモンのために心を砕ける人間を、ヒナタは知らない。
 戸惑ったような表情を浮かべるサトシ達に、ヒナタは優しく声をかけた。


「もしかして、懐かれちゃった?」
「え、っと……」


 言葉を濁らせるシンジに、ヒナタは更に笑う。


「ゲットしてあげて?」
「え?」
「トレーナーにゲットされていたポケモンが、野生に戻るのはとても難しいことだって、知っているでしょう?」
「はい……」


 トレーナーの手持ちだったポケモンは、野生に戻るのが難しい。
 長く野生から離れ、野生を忘れてしまったり、人間のにおいを嫌うポケモンたちに迫害され、野生に受け入れてもらえなかったりするためだ。そうなった場合、ポケモン専用のカウンセラーに助力を願って野生復帰の意欲を復活させたり、トレーナーに引き取ってもらうことになる。
 けれどもトレーナーに引き取ってもらう場合、そのあとのことはトレーナーに任せきりになってしまうので、そのポケモンがどうなるかまでは分からない。
 悲しいことに、引き取ったトレーナーがさらにポケモンを捨てて、心を死なせてしまう場合もあるのだ。


「どこの誰とも知れないトレーナーの手に渡るより、あなたたちが引き取ってくれた方が、レンジャー協会としても安心だわ」


 もちろん私としてもね、とヒナタはお茶目に笑った。


『他のトレーナーは嫌! 私はあなたのポケモンになりたい!』


 ヒナタの言葉を受けて、ヒンバスはシンジの胸に擦り寄った。
 シンジはてっきりサトシの元を選ぶと思っていたから、ひどく驚いたような顔をした。


「私で、いいのか……?」
『貴女がいいの!』


 ヒンバスは離れまいとシンジにしがみついた。その手はひれであるため、うまくシンジに抱きついていられず、今にも泣きそうな顔をしていた。
 ――うまく抱きついていないと、引きはがされそうで怖いのだ。


「シンジ、」


 サトシが優しい笑みを浮かべた。


「ヒンバスはお前がいいって言ってるんだよ」


 そう言って笑いかけると、シンジは照れたようにそっぽを向いた。


(波導を使うのはずるいだろ……)


 シンジに波導を受け止めてもらえると、包まれているように感じる、とポケモンたちやサトシによく言われる。けれどもシンジは、本当に包まれていると感じるのは、サトシの波導を受け取った時だと思っている。
 冷たいと感じるはずの青い光は、サトシの波導は酷く温かい。心から自分を想ってくれている、優しい温かさ。
 そんな波導を受け取ると、抱きしめられているように感じるのだ。
 そんな波導を送るのはずるいだろ、とシンジは唇を尖らせた。


「シンジ、」


 サトシがシンジの髪をくしゃくしゃと撫でる。
 髪を乱されているのに決して不快ではない。兄に撫でられているときと似たような感覚に、シンジは更に照れた。


「わかった、もう十分伝わったから、」
「そうか?」


 結局、自分からやめろとは言えずにいた自分に気づいて、シンジはそっぽを向いてヒンバスを見やった。


「ヒンバス、私はお前が思っているほど、良い人間じゃないぞ?」
『そんなの知ってる。どんなにいい人にだって、必ず悪いところはあるの』


 私、知ってるんだから、と言って胸を張ったヒンバスに、シンジは苦笑した。


(前のトレーナーのこと、本当に好きだったんだな……)


 だからこそ傷ついた。けれども今はもう大丈夫。
 傷が完全に治ったわけではないけれど、悲しみは乗り越えることが出来たから。――新しいトレーナーを見つけたことによって。


「じゃあ、一緒に来い」
『! もちろん!』


 シンジが差し出したボールに自ら入っていくヒンバスを見て、ヒナタはやっぱり、と笑った。
 今目の前で行われているのは『懐きゲット』と呼ばれるものだ。
 人間がポケモンを、ポケモンが人間を信頼して初めてできるゲットのことで、とても高度なゲットの方法だった。
 人間がこのポケモンと旅をしたいと心から願って、ポケモンがこの人間とともにいたいと心から思ってようやく成立するのだ。簡単なことではない。
 それをヒナタは何度も目撃していた。今目の前にいるこの2人の子供たちのおかげで。

 ポン、とボールが再び開かれる。中からヒンバスが飛び出してきて、シンジは珍しく驚きをあらわにしてヒンバスを抱きとめた。


『大好き!』


 これはヒナタにもわかった。ヒンバスが心底うれしそうな顔をして笑っていたから。
 大好きだと叫ばれたシンジは、ふっ、と小さく噴き出した。


「お前、なんだか少し幼くなってないか?」


 温かい苦笑を浮かべたシンジに、ヒンバスがそう?と首をかしげた。
 かしげた、といっても、彼女に首はないから、体ごと傾ける形になるのだけれど。

 捨てられたポケモンが、もう一度信頼できる人間に出会うと、捨てられた悲しみと新しい出会いの喜びで幼児返りするポケモンもいる。
 やっと甘えられる、という反動なのだという。
 幼児返りは信頼の裏返しとも言われていて、シンジの言葉を聞いたヒナタは安堵の笑みを浮かべた。


「ヒンバスのこと、よろしくね?」
「はい」
「任せてください」


 しっかりと頷いた2人に、ヒナタは嬉しそうに笑った。
 ――次の仕事も、頑張れそうな気がする。
 軽くなった心と比例するように軽くなった体で、ヒナタは森を駆け抜けた。




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