信頼と絆の物語
そこで、ヒンバスの言葉は終わった。
枯れ木の奥に隠れて、その姿をうかがうことはできない。
けれども幸せな顔をしていないことは、言葉を理解できないヒナタにもわかった。
――ポン、
何を思ったのか、シンジがエレキブルを繰り出した。
シンジがエレキブルに向かってうなずくと、エレキブルが水槽の中に両手を差し入れた。
そのことに驚き、ヒナタが目を見開く。
「ちょ、ちょっと!?」
「――ヒナタさん」
エレキブルを止めようと走り出そうとしたヒナタを、サトシが止めた。
制止の声にヒナタが振りむけば、サトシは真剣な表情でシンジたちを見つめていた。
サトシの表情を見て、ヒナタが足を止めた。
悔しいけれど、こういった事例への対処は、サトシたちの方が的確だ。
そうしているうちに、エレキブルがヒンバスが中に入ったままの枯れ木を持ち上げた。
枯れ木を縦にすると、中からヒンバスが落ちてくる。エレキブルの腕の中に落ちてきたヒンバスは、驚きのあまり目を白黒させていた。
エレキブルがシンジにヒンバスを渡す。
自分が濡れるのもいとわずにヒンバスを抱き上げたシンジは、じっとヒンバスを見つめていた。
ヒンバスは自分の状況を理解したのか、嫌だ、見るなと、シンジの腕から抜け出そうともがいている。
けれどもシンジはそんなヒンバスには気にも留めず、まじまじとヒンバスを観察していた。
やがて、子供を喜ばせるように高くヒンバスを持ち上げ、腕に抱いていたときでは見えなかったヒンバスの容姿の全容を見た。
全容を見て、シンジは首をかしげた。
「なんだ、普通じゃないか。
――普通に、可愛いじゃないか」
不思議そうな顔で、シンジは眼を瞬かせた。
見るな見るなと暴れていたヒンバスの体が硬直した。ヒンバスは、みるみる目を見開いた。
「お前はどう思う?」
シンジがサトシを振り返る。サトシは年相応の満面の笑みを浮かべた。
「おう! 俺も可愛いと思うぜ!」
「愛嬌があっていいよな」
「な!」
シンジの横に駆け寄ったサトシが、シンジの抱くヒンバスをなでる。
サトシがピカチュウやエレキブルに同意を求めると、2人も深くうなずいた。
未だに硬直するヒンバスに、サトシが笑いかけた。
シンジが言葉を、心の声を聞いたなら、今度は言葉を、心を伝えなければ。
それはサトシの役目。ここからはサトシの番だ。
「なぁ、ヒンバス。人もポケモンも、1人1人にいいところもあれば、悪いところもある。いいところしか持ってないなんて、そんな奴はいないんだ」
シルクのようなすべすべの鱗を、サトシが優しくなでる。
衰弱していたときに失った栄養が、今でも足りていないのだろう。少し艶が失われているのが惜しい。
「俺はヒンバスを可愛いと思うし、シンジもそう言ってる。ピカチュウやエレキブルだって、お前のことを醜いとかみすぼらしいとか、そんな風に思ってなんかいないよ」
本当?
すがるように、ヒンバスがサトシたちを見上げる。
不安に揺れる瞳に、2人が優しく笑いかけた。
「もちろん、私もあなたをみすぼらしいだなんて思っていないわ」
ヒナタも、サトシの隣に並ぶ。
3人の優しい笑みと言葉に、ヒンバスが呆然と眼を見開く。
それから、その大きな眼に涙をためた。
「ヒンバス。ここにはお前をみすぼらしいだなんて思うやつはいないよ。そりゃあ……人にもポケモンにも好みがあるから、嫌なことも言われるかもしれないけど、ここにお前をけなす奴はいないから、安心しろよな!」
ヒンバスの目から、ぼろぼろと大粒の涙が雨のように流れ落ちていく。
こらえようとしているのか、唇を食いしばるが、優しい手つきで体をなでられて、ヒンバスは声をあげて泣いた。
シンジの胸に擦り寄り、子供のように大声を上げるヒンバスに、サトシとシンジは眼を細めた。
そんな2人を見て、ヒナタは肩をすくめた。
(あっという間に心を開いちゃったわね……)
安心したのか、それとも彼らの言葉に思うところがあったのか。泣きじゃくるヒンバスを見て、心を開いていないとは思えない。
(そう言えば、前に言ってたっけ……)
どうすれば心を通わせることができるのか。その問いに彼らは『心そのものを言葉にすれば、必ず伝わる』と、そう言っていた。
口で言うのは簡単だ。音にすればいいだけなのだから。
けれども心を音にするのは、決して簡単なことではない。
しかしそれを彼らは、当然のようにやってのけるのだ。
だからこそ、彼らはポケモンに心を開かせ、心を通じさせることが出来るのだ。
(私もまだまだね……)
ヒナタがそっと目を伏せた。
「ほら、そろそろ泣きやめ」
「可愛い顔が台無しだぞ~」
「ぴかっちゅう」
「レッキ」
サトシとシンジに、ピカチュウとエレキブルが加わる。
4人になでられ、ヒンバスが徐々に涙を止め始めた。
サトシが涙を拭けば、彼女はもう笑っていた。
(もう大丈夫そうね……)
自分には見せることのできなかった表情が、そこにはある。
人間に傷つけられたポケモンが、人間によって笑みがもたらされたら、もう大丈夫だ。
「サトシくん、シンジちゃん。ありがとう」
「ヒナタさん」
「気にしないでください。俺たちは自分にできることをやっただけですよ」
その出来ることが、他人にはできないことだと、はたして彼らは気付いているのだろうか。
気付いていないけれど、無意識下で感じ取っているのかもしれない。だから彼らは疲れを押して、ここにいるのだろう。
「私はタケシくんに報告してくるから、後は任せていいかしら?」
「はい」
「じゃあ、俺たちは外の湖で遊ぶか。ヒンバスも広い場所で泳ぎたいだろ?」
「バスッ!」
「ならタオルの用意もしておくわね」
「「ありがとうございます」」
外に向かって駆けていく2人の背中を見ながら、ヒナタは胸に手を当てた。
これを当たり前だと思うな。これは奇跡だ。そして、その奇跡を、彼らは代価を払うことによって引き起こしている。
自分たちを犠牲にして、起こしているのだ。
そのことを、忘れるなかれ。
ヒナタはそのことを胸に刻みつけ、くるりと2人に背を向けた。
その背中は、どことなく寂しげだった。
「…………?」
ヒナタの寂しげな心の揺れを敏感に感じ取ったシンジが、レンガの続く灰色の廊下で後ろを振り返った。
廊下を歩いているとき、誰もいなかったのだから、当然ながら、振り返ったその先には、人一人の影もなかった。
先程別れたヒナタは自分たちとは反対の方向に歩いて行ったのだから、お互いの距離は、かなり遠くなっているはずで、その背中を見つけることは出来なかった。
それでも、シンジは空気に溶けてしまいそうな、小さな声で、そっと囁いた。
「……ヒナタさん、」
――あなたが気に病むことは、何もないんですよ?
――これは、私たちが望んだことだから、
「シンジ?」
「いや、何でもない」
「そっか、」
少し先で、歩みを止めた自分を待っていたサトシに追いつくために、シンジはサトシの方に向き直り、ゆっくりと歩き出したのだった。
きっと気付いていただろう。心を伝えることに優れているとはいえ、彼も心を感じることが出来ないわけではない。よく知る者の心の揺れくらいなら、彼にも感じることはできる。
きっと、自分の心の揺れなど、簡単に見て取ってしまっただろうに、何も聞かずに笑顔で待っていてくれた彼に感謝しながら、シンジは彼の隣に並んだ。
その心を、彼の波導に、心に伝えながら。