信頼と絆の物語
サトシとシンジはハクタイの森にいた。
シンオウ地方にあるその森は、木々が生い茂り、昼間にもかかわらず、影を落としている。
そんなハクタイの森の中でも、それなりに日の差す木漏れ日の美しい大木の下に、サトシたちは腰かけていた。
ミミロルに囲まれたサトシは、眠っているシンジに肩を貸していた。
すうすうと規則正しく呼吸を繰り返すシンジに柔らかい笑みを漏らし、膝に乗るミミロルをなでた。
ミミロルたちは安心を求めるかのようにサトシたちに擦り寄っている。そんなミミロルたちの様子に、サトシは悲しげな笑みを浮かべた。
サトシたちがハクタイの森のいるのにはわけがあった。オーキドにナナカマドへのお使いを頼まれ、2人はシンオウに来ていた。
何でも、重要書類をナナカマドに届けて欲しいというのだが、最近、ネット上でも問題が多発し、最高機密の情報漏えいが起きる事態にまで発展したというのだ。研究資料が奪われる事態になりかねないと、ナナカマドに直接渡すように言われ、2人はナナカマド研究所に足を運んだのだ。
今はその帰りで、せっかくシンオウに来たのだから、少し歩いてから別の地方に行こうということで、2人は道なりにシンオウを進んでいたのである。
そして、ハクタイの森に差し掛かった時、ミミロルたちの悲鳴が聞こえたのだ。
ミミロルはハクタイの森でしか生息を確認されていない珍しいポケモンである。その愛らしい見た目から女性トレーナーに人気のポケモンで、ミミロルの需要はとても高い。
人懐っこい性格もあって、ミミロルはポケモンバイヤーやブローカーに狙われやすいポケモンだ。
ハクタイの森からは年々ミミロルが減少している。ハクタイの森を自然保護区に認定しようという動きが起こるほどには深刻な問題と化していた。
今、サトシたちの周りにいるミミロルたちも、サトシたちが駆けつけなければ密猟の被害に遭っていたことだろう。
密猟者を捕獲し、泣きじゃくるミミロルたちをサトシがなだめている間に、ジュンサーに連絡を取り、レンジャー協会に報告したりと、そのほかのすべてのことを1人で対処したシンジは、疲れで眠ってしまっていた。
ミミロルたちも、2人のぬくもりに安心したのか、だんだんとまぶたが落ちて行き、1匹、また1匹と眠りの世界へと落ちて行った。
「ぴかちゅ、」
「寝ちゃったな」
「ぴーかちゅう……」
「そうだな……」
寝ちゃったね、泣きつかれたんだね、そう言って、ピカチュウがシンジの膝の上からサトシを見上げた。
ピカチュウはシンジがサトシの肩にもたれて眠ってしまい、上着すらかけられずにいたため、シンジの体が冷えないようにと膝に乗っていた。
ピカチュウが暖かいのか、シンジの両手はピカチュウのお腹の前で組まれている。
凪いだ瞳でミミロルを見つめるピカチュウの頭をなでて、サトシは空を見上げた。
木々の間から見える空は快晴だ。
「ムック?」
「スッボー……?」
ハクタイの森のポケモンたちが心配そうな顔でサトシたちの周りに集まってくる。
密猟者から逃げ惑うミミロルたちを見ていたのだろう。その目は気遣わしげにミミロルたちを見つめている。
「大丈夫だよ。誰1人欠けちゃいないし、怪我もしてないから」
怖い思いをしたから、泣いていたんだよ。サトシが小さく告げると、ムックルたちは眼を伏せた。
怖い思いをして、小さな体で必死に逃げて。疲れて泣いて、眠ってる。
「俺も、寝ちゃおうかなぁ……」
疲れた時は眠るのが一番だ。体を休めるためにも、心を休めるためにも。
――寝ていいよ。仲間のために頑張ってくれたんでしょ?
――疲れてるんならしっかり休んで?
――おやすみ、
――おやすみ、
ムックルとスボミーの優しい声に、サトシもだんだん睡魔に襲われる。
疲れた、疲れた、頑張った。頑張ったのなら、眠ればいい。
――おやすみ、サトシ、
ピカチュウが柔らかい声をかける。
その声を最後に、サトシの記憶はぷつりと切れた。
サトシが眠ったのを見届けて、ピカチュウはほっと息をつく。
波導の力に目覚めて、彼らはポケモンの言葉を理解できるようになった。
波導と波導がつながり、心がダイレクトに伝わる時もある。
特に相手の波導を受け止めることに優れてしまったシンジは、それが顕著に表れ、疲れをためやすくなった。
それも当然である。辛い記憶をたくさんたくさん受け止めなければならなくなったのだから。
眠りはとても大切なものだけれど、今の彼らにとっては、今までよりもずっと、大切なものとなった。
だから彼らの眠りを妨げるものを、ピカチュウは絶対に許さない。
『ねぇ、お願いがあるんだけど』
『お願い?』
『うん。この2人が疲れているのは見ればわかるでしょう?』
『うん、お疲れだね』
『お疲れ様だね』
まだ幼いだろうムックルとスボミーが声をひそめる。眠る2人を起こさないように声を押し殺す。
優しい子たちだな、とピカチュウが目を細めた。
『だから他の子たちにも、この近くでは静かにしててくれるよう頼んでくれる?』
『うん、わかったよ!』
『みんなにお願いしてくれるね!』
2匹はお兄さんポケモンであるピカチュウにお願いされ、嬉しそうに散り散りに森の中へと駆けていく。
2匹が去り、静かになったハクタイの森では、サトシたちの寝息と、ムックルたちのさえずりしか聞こえない。そのさえずりも、子守歌のように優しい。
これならば、サトシたちの安眠は約束されるだろう。
後は、どれだけこの森の住民が頑張ってくれるかである。
『(まぁ、それについては心配していないんだけどね)』
あの幼いムックルとスボミーは気付いていなかったが、現在この場にはたくさんのポケモンたちが2人のあどけない寝顔を見守っている。
森の仲間たちを身を呈して守った2人を、今度は自分たちが守る番だというように、ぐるりと周りを囲っている。
あの2匹との会話はきっちりと彼らの耳に入っているようで、時折何かを思い出したかのように顔をあげ、ひらりとどこかへ飛んでいく。
おそらく、この森に入った人間たちの誘導に向かったのだろう。
――ありがとう
囁くピカチュウの声に、ばさり、と、一つの羽音が返事を返した。
「うわぁ、綺麗な森だなぁ……」
「本当にな」
17歳か18歳か、サトシたちより少し年上だと思われる少年らがハクタイの森の中を歩いていた。
ハクタイの森は、相次ぐ密猟問題に、自然保護区に認定するか否かの議論が繰り広げられている。そのため観光客や、この森でしか見られないポケモンたちを一目見ようとたくさんのトレーナーたちがハクタイの森を訪れるようになったのだ。
この少年らも、そのうちの一組だろう。
「いい場所だな~」
「また来たいけど、自然保護区に認定されるかもしれないんだよな……」
「何か寂しいよな~」
ここ数年、自然保護区の数は増加の一途をたどっている。ハクタイの森や、ホウエンのファウンス、はじまりの樹なども近々保護区認定を受けようとしている。旅のトレーナーが寂しさを感じるのも無理はない。
「よっし! 自然保護区になる前に思い出作ろうぜ!」
「思い出?」
「ポケモンゲットして、バトルして、ここでこんなことしたよって話せるようにさ!」
「そうだな!」
「よーし、早速バトルしようぜ!」
「おおお! ……お、お……?」
「っ!? おい!!」
2人のトレーナーが楽しそうに声を上げる。
いざバトルを始めんとすると、ふらりと1人の少年が地面を倒れる。驚いて駆け寄ると、少年は眠っていた。
「はぁー、びっくりした……。脅かすな、よ、な……」
もう1人の少年も、先に倒れた少年のそばにうつぶせに倒れた。
『眠ったかな?』
『眠ったかな?』
近くの茂みから、ムックルとスボミーが顔を出す。そろりそろりと足音をたてないように、そっと2人の少年に近寄った。
小さな寝息を立てる2人に、くすくす、くすり。スボミーとムックルが声を殺して笑った。
『今ね、優しい人たちがね、お休み中なんだよ』
『だからね、しー、ね?』
『しー、だよ?』
スボミーの眠り粉をムックルの吹き飛ばしで彼らに振りかけ眠らせることに成功した2匹は嬉しそうにくふくふと笑いをかみ殺している。
お仕事したよって言いにいこっか、褒めてもらおっか。2匹は仲良くとてとてと走る。
そんな様子を森の大人たちが微笑ましげに見つめていた。
『さて、私たちも仕事をしようか』
『子供たちには負けてられねぇな』
『2人の人間に、我らの精一杯の感謝を、』
――バサリ、
ゆったりとした、けれどもどこか厳かな響きを持った羽音が、静かな森に溶けて行った。
仲間を守ってくれたサトシとシンジに感謝の意を込めて、妙な張り切りを見せたムクホークたちが森に入ってきた人間や、騒がしくするポケモンたちを片っ端から吹き飛ばし、奥に進めない怪奇の森として別の意味で有名になるのだが、それは別の話。
そんな大人たちのことなど露知らず、ムックルとスボミーはピカチュウの元へと駆けて行った。
『ピカチュウ! お仕事したよ!』
『お仕事してきたよ!』
『本当? ありがとう、ムックル、スボミー』
『『どういたしまして!』』
ピカチュウにお礼を言われた2匹は、はにかんだように笑った。
えへへ、と照れる2匹を微笑ましげに見つめ、ピカチュウはシンジに寄りかかった。
2人の寝顔は穏やかで、ピカチュウも嬉しくなる。
ムックルたちの優しいさえずりに、暖かな日差し。
耳のいいピカチュウには、時折この森を通ろうとしたであろうトレーナーたちの悲鳴が聞こえるが、眠っている2人には聞こえない。
この優しい森に、2人の眠りを邪魔するものはない。
居心地のいい森に、ピカチュウが目を細めた。
――pipipipipi
唐突に静かな森には似つかわしくない電子音が届く。音はシンジの上着のポケットから聞こえる。
ムックルとスボミーがあわあわと慌てた。
今の音で、ミミロルたちは眼を覚ましてしまった。
このままでは2人も起きてしまう。ムックルとスボミーがぎゅう、とシンジにひっつき、自分たちの体で音を抑えようとした。
けれどもそれは虚しく終わり、おそらくポケットを触ろうとして、けれども上から押さえつけていたムックルとスボミーにシンジの手が触れた。
布とは違う感触に、シンジがゆっくりと上体を起こし、服にへばりつくムックルたちを見た。
何をしているのだろうか、と首をかしげながらも2匹をなでる。そして、ゆるりと笑みを浮かべた。
「……ああ、私たちが起きないようにしていてくれたのか」
優しいシンジの笑みに、スボミーが笑った、と呟いた。
シンジは時折笑う。
いつもつらい記憶や人間への憎悪のこもった声ばかりが聞こえてくる。
けれどもこうやって、優しい声を、心を聞くと、シンジは穏やかに笑うのだ。
その瞬間が、サトシとピカチュウはたまらなく大好きだった。
サトシは見ることができただろうか。シンジの膝の上からピカチュウがサトシを見上げれば、サトシは穏やかな笑みを浮かべていた。
おそらくシンジが起きたことで、連鎖的に起きたのだろう。
『起きちゃった』
『2人とも起きちゃったね』
残念そうにしょんぼりする2匹を、サトシとシンジが抱き上げる。2匹はびっくりしたように目を白黒させていた。
「ありがとう」
「ありがとな、2人とも! でも、そろそろ起きようと思ってたんだ。あんまり寝過ぎると夜が眠れなくなっちゃうだろ?」
『どういたしまして!』
『どういたしまして!』
頭をなでられ、2匹が嬉しそうに笑う。
サトシたちとともに起きだしたミミロルたちがずるいずるいと抱っこをねだる。
サトシがミミロルたちを膝に乗せ、ピカチュウもミミロルのためにシンジの膝をあける。
シンジもミミロルたちを膝に乗せながら、いまだに鳴り続ける端末を耳にあてた。
「はい、」
『あ、やっと出た。出るのが遅かったから心配してたのよ?』
「すいません、ヒナタさん。寝てました」
通話の相手はポケモンレンジャーのヒナタだ。
シンジが今、手にしている端末は、レンジャー協会から支給されたもので、ほっそりとしたシンジの手には少々無骨な黒い端末だった。
『起しちゃったのね。疲れてるのにごめんさない』
「別にかまいません。それで、今日はどうしたんですか?」
『ええ。あなたたちに任せたいポケモンがいるの』
ヒナタの固い声が、端末を介して聞こえた。