歴史修正主義者になりたくない






 五条家の庭は恐ろしく広い。住宅がいくつ建ち並ぶかと言うくらいだ。
 それだけ広いというのに、隅々まで手入れがされているのだから流石としか言いようがない。
 美しい庭を、美しく保つ努力が日々なされているのだ。
 今日は椿がその努力を引き継ぐ番で、箒を持って地面に落ちた葉を掃き清めていく。
 そうやって落ち葉を集めていると、のし、と肩に重さが掛かる。ちらりと目を動かすと、不満そうにむくれた悟がのし掛かっていた。


「おい、椿。なんで口紅塗ってねぇんだよ」


 そう言って、悟が椿の頬をつねる。つねると言っても力は入っておらず、むにむにと揉まれているような感じだ。


「仕事中に付けるには少し派手なので付けていないんです」
「そんなに派手か? あれで派手ならうちに来る女共はどうなるんだよ?」


 悟の言う“うちに来る女共”というのは、お客様のことだろう。お客様として五条家に来る少女達は、みんな悟に見初められたい者達だ。そのため誰もが綺麗に着飾っている。中には年齢に見合わないような化粧や服装をしている少女もいるのだ。そんな少女ばかり見てきたのであれば、悟が首をかしげるのも頷ける。


「お客様とは立場が違います。私達は華美に着飾る必要がありません。お休みの日にきちんと使わせていただいていますので、今日はご容赦ください」
「…………」


 落ち葉をかき集めて、袋に詰めていく。次の区画に向かおうとすると、悟が椿を引き留めた。


「口紅、持って来い」
「…………業務時間中です」
「いいから持って来い」


 じわり、と悟の顔に怒りが滲む。随分と短気だな、と呆れつつ、その怒りに気付かない振りをした。
 まだまだ仕事が残っている。悟の我儘ばかりに構ってはいられない。さっさと次の場所に向かおうとしたとき、近くにいた年配の使用人が慌てて駆け寄ってきた。


「こ、コラ! 清庭のとこの! 何をしている!」
「園田さん……」
「申し訳ありません、悟坊ちゃん。清庭のとこの娘は少々無愛想で……。何か気に障ることをしてしまいましたか?」


 年配の使用人―――――園田はぺこぺこと頭を下げながら、椿の頭を下げさせる。
 少し痛いな、と思いながら、椿はされるがままに頭を下げた。


「おい」


 ゾッとするような声が降ってくる。そろ、と視線をあげると、先程とは比べものにならない程の怒気が悟から溢れていた。
 先程まで椿に向けられていた癇癪は、酷くかわいいものであったらしい。怒りの矛先を向けられた園田が「ヒッ」と短い悲鳴を上げた。


「そいつから手ぇ離せ」
「ひ、ひぃっ! も、申し訳ありません!」
「失せろ」
「は、はひぃっ!」


 抑え付けられていた頭上の重みが消える。園田は弾かれたようにその場から逃げ出した。転がるように走り去る背中を呆然と見送って、椿がそろりと悟に視線を向けた。彼はすでに怒りを収め、ばつが悪そうに唇を尖らせている。


「…………坊ちゃん」
「…………何だよ」


 色々と言いたいことはあった。
 下が上を正し、上が下を律する。椿はそういう考えを持っている。それが全てではないと分かっているが、高圧的な態度は頂けない。
 けれど、相手はまだ子供だ。それを理解するのは、もう少し先だろう。そもそも、この家にはこの家の方針がある。椿が口を出すことではないだろう。


「……いえ、少し業務を抜けさせて頂く許可を貰ってきます。少々お待ちになって頂けますか?」
「……俺が行く。俺が言えばすぐに許可貰えるだろ。それ片付けて、口紅用意しとけ」


 そう言って、悟が縁側に上がり、室内に入っていく。それを見送って、椿は悟に言われたとおりに動き出した。
 ゴミを捨てて、道具を片付けて、足早に部屋に向かう。
 五条家には住まいとは別に、女中達の休憩室が用意されている。その部屋は奥まった場所にあり、来客達が通る縁側沿いの庭からは少し遠い。荷物を漁り、口紅を取り出して来た道を急いで戻る。先程別れた庭に戻る頃には、すっかり息が上がっていた。


「おっせぇよ。いつまで待たせんだよ」
「も、申し訳、ありません……っ」
「……まぁ、いいけど」


 胸に手を当てて、息を整える。
 縁側に座るよう促され、椿は悟と共に縁側に座った。ぽんぽんと背中を撫でられているうちに、呼吸が整った。


「ありがとうございます」
「別に。それより、さっさと口紅出せよ」


 お礼を言われて照れてしまったのか、ほんのりと頬を染めた悟がぶっきらぼうに手を差し出した。言われたとおりに持ってきた口紅を差し出す。それを受け取って、悟が椿の頬に手を添える。唇に口紅が当てられ、色が乗せられる。上手く行ったのか、悟が得意げに笑った。


「さっすが俺、前より上手く塗れたんじゃね?」
「そうですね。前回も、とてもお上手だったかと。初めてではないのでしょうか?」
「いんや、前にお前に塗ってやったのが初めて。俺天才だから、何でも出来ちゃうんだよね~」
「それは……。坊ちゃんは器用でいらっしゃるのですね」


 初めてでこんなに綺麗に塗れるなんてすごいなぁ、と感心する。椿は特に器用な質ではないので、練習しないと出来ないことも多い。一度で出来たことの方が少ないのだ。化粧もその類いである。
 素直に褒めると、悟は何とも言いがたい顔で椿を見つめていた。思っていた反応と違う、と言うような表情だった。椿が不思議そうに首をかしげると、悟はがっくりと肩を落とした。


「…………お前、結構鈍いんだな」


 その一言で、椿はなるほど、と理解した。


(確かに恋人でもない女性の唇に色を付けるなんて、そういう職業にでも就いていないと早々ないよな)


 今までは単純に、異性との距離感が把握できていないのだろうと思っていた。彼はその首に賞金が掛けられ、命を狙われていたのだ。そのため学校に通うことは出来ず、五条家という狭い箱庭の中で過ごしている。
 この箱庭は悟を中心に回っているのだ。彼の間違いを指摘できる人間はごく一部で、普通の子供とは違う価値観の中で生きている。
 悟はおそらく、自分に気があるのだろう。口紅を買ってくれたのも、その口紅を塗るのも、彼のアプローチだったのだろう。
 何を持って彼が椿を好いたのかは分からない。人に好かれることに悪い気はしないけれど、相手が悟で、自分を女性として好いているとなると話は違ってくる。
 だから、椿はにこりと笑って、何も気付かない振りをした。



***



 後日、使用人頭からお触れが出された。それは“いかなる業務中であっても五条悟のご機嫌取りを最優先せよ”というものだった。
 それを聞いた椿は頭を抱えたい気分に陥った。


(これ、多分私のせいだよな………)


 おそらく、悟の怒りを向けられた園田が進言したのだろう。もしくは機嫌を損ねた悟自身が、そのように命じたかである。どちらにせよ、椿が関わっているのは明らかだった。無関係というには、タイミングが合いすぎている。
 そうまでして自分に関わりたいのだろうか、と椿が首をかしげた。

 恋とは、いかんともしがたいものである。




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