初恋フィルター






 いつの間にか意識を失っていた椿が目を覚まして初めに見たのは、見知らぬ天井だった。
 寝起きでぼうっとする意識をかき集め、状況を整理する。意識を失う前、自分は何をしていただろうか。


(確か、硝子と出掛けた帰りで。その途中で、硝子が背後を気にしだして………)


 思い出して、椿ががばりと起き上がる。自分達は誰かに追い掛けられていて、それから逃げるために硝子の通う学校に逃げ込もうとしていたのだ。けれどその前に襲撃を受けて、暴行を受けたのだ。そのときに受けた衝撃で、椿は意識を失ったのだろう。
 自分が意識を失ったあと、硝子はどうなったのだろう。飛び起きて、硝子の姿を探す。


「椿!」
「清庭さん!」


 彼女は、すぐ傍に居た。悟や傑と共に。
 今にも泣いてしまいそうに顔を歪めた彼女は、どうやら無事であるようだった。


「硝子!!」


 寝かされていたベッドから飛び起きて、思い切り硝子を抱きしめた。彼女が無事だったことに安堵して、涙がこぼれ落ちてしまいそうだった。
 細い身体を抱きしめた腕はみっともなく震えている。「良かった」と呟いた声は笑えるくらいに掠れていた。


「よ、かったじゃないよ……。無茶しないでよ……。心配したんだから………」
「すまない。でも、硝子が無事でよかった……。本当に、本当に良かった………!」


 硝子が、椿の背中に手を回す。彼女の手も震えていた。
 しばらくお互いの体温を分け合って、落ち着いたところで身体を離す。


「そう言えば、私達を追い掛けていた犯人はどうなったんだ?」
「それは………。すまない、捕まえようと思って追い掛けたんだけど、逃げられてしまって……」


 答えをくれた傑の言葉は、酷く歯切れの悪いものだった。触れて欲しくないというのが伝わってくる。沈黙している悟や硝子も、ばつが悪そうな顔をしていた。
 椿は怪訝そうに首をかしげた。そんな顔をするようなことを訊ねただろうか、と。


(いや待て。そう言えば私は、相手の存在を認識していない)


 椿は前世の経験からか、観察眼はある方だと自負している。背後の不審人物を見つけるくらい訳は無い。けれど、そんな椿がその相手を見落としているのだ。硝子が自分を庇うような動きを見せなかったら、背後に迫り来る敵に気付かないほどに。
 それはあり得ないことだ。敵意や悪意には敏感に反応できるはずなのに。積みたくもない経験を積んで、対応できるようになってしまったはずなのに。それら全てを見落としてしまうなんて。これではまるで、見えざる何かに襲われたようではないか。


(おかしいのはこれだけじゃない)


 不可解だと思うことは、もう一つある。自分の身体のことだ。意識を失う前、椿はバッドか何かで殴られたはずだ。硝子を抱えた状態で、壁に打ち付けられるほどの攻撃を受けたはずだ。だというのに、殴られた身体に痛みは無く、血が流れたはずの後頭部が負傷しているような感覚は無い。


(あり得ないだろう、そんなことは。コンクリートに打ち付けられて、無傷なわけがない。私は確かに血を流していた)


 口の中が乾く。何が起こっているか分からないというのは、酷く恐ろしいのだ。
 答えて欲しい。教えて欲しい。分かっていること全て。
 けれどきっと、彼らは口を閉ざすだろう。そんな頑なな気配を、椿は感じ取った。


「………バッドか何かで、殴られたような気がしたんだが」
「ごめん。パニックになってて、何が起こったのかよく分かってなくて。でも、お医者さんに聞いたら、軽傷で済んだって。荷物がクッションになってくれたのかも」


 ああ、やはり。椿はほんの少しの寂しさと悲しさを覚えた。
 けれど、これは仕方ないことなのだろう。きっと、自分の身を案じてくれているのだ。彼らの行動は、審神者をしていた前世で、刀剣男士達が自分を危険から遠ざけようとしていた様子とそっくりだった。


(もしかしたら、この世界にも審神者のような、私の知覚していない力があるのかもしれない)


 審神者の存在は、隠匿されていた。秘匿事項として、厳重に扱われていたのだ。彼らが審神者のような存在であるならば、その存在は機密事項として扱われているのかもしれない。それはきっと、何の力も無い自分が知って良いことではないのだろう。
 それならばと、椿は何も知らない振りをした。何も気付かない振りを、騙された振りをした。


「そうか。私は運が良かったんだな」


 理解はしていても、納得はしていない。けれど、世界は不条理に溢れていて、隠さなければならないこともたくさんあって。自分だって、そういうことをたくさんしてきた。だから、椿は全てを飲み込んで笑みを浮かべた。
 きっと、それが正しいのだ。彼等のためにも、自分のためにも。


「…………本当に、運が良かったんだよ」


 硝子は、ほっとした様子を見せた。声は震えていたけれど、それは安心したからだろう。
 椿も、自分が間違っていなかったことを再確認して、真剣な顔をした。


「硝子、また同じような目に遭うといけないから、きちんと警察に相談するんだ。それから、五条くんと夏油くん。人に危害を加えるような相手を追い掛けるのは危険だ。そういうのはプロに任せた方がいい」
「分かった。先生と一緒に警察に相談してみる」
「うん、そうだね。軽率だったよ」
「俺も、次からは気を付けるから……。清庭さんも、無茶なこと、しないでほしい………」
「そうだな。次は軽傷では済まないかもしれないしな」


 きっと、傷を治したのは彼らの異能によるものだ。治せる傷にも、限界はあるのだろう。そのことを承知した椿は、淡く微笑んだ。
胸が、酷く痛んだ。




13/19ページ
スキ