初恋フィルター
あの日と同じ曜日。あの日と同じ時間帯。あの子と再会した交差点付近にて、五条悟ら高専一年生達は屯していた。
「あつ……」と無表情で家入硝子は襟を揺らして風を送る。涼しくなるのはほんの一瞬だった。
その隣には夏油傑が居り、ソワソワと落ち着かない悟を保護者のような態度で宥めている。
「五条の初恋の子、名前なんだっけ」
「さにわつばきさんだよ」
「さにわ……。どう書くの、それ」
「さぁ……。悟は分かるかい?」
「………多分、清い庭って書いてさにわ。つばきは、そのまま花の椿だと思う」
清庭という言葉には意味がある。斎み清めた場所。神霊を降ろして託宣を聞く場所のことを指す。審神者という神託を受け、神意を伝える者という言葉の元になったとされている。つまり清庭とは、清浄な意味を持つ名前なのだ。
椿という名前も彼女にとても似合っている。
椿全体の花言葉は「控えめな優しさ」、「誇り」である。鮮やかな見た目に反して、香りを持たないことが由来となっているらしい。
また、椿の花は色によって花言葉が異なる。赤は「謙虚な美徳」。白は「申し分ない魅力」。ピンクは「控えめな美」。そのどれもこれもが彼女を示しているようで、名は体を表すという言葉が真実味を帯びていた。
「名前まで、綺麗なんだよなぁ……」
噛み締めるように呟く悟に、傑達はチベットスナギツネのような顔をした。恋は盲目というけれど、それがまさかこの男にも当て嵌まるとは。
普段なら藪蛇はごめんだと避ける事態であるが、ここまでくると好奇心の方に天秤が傾く。どんな子だろう、と硝子が想像を膨らませていると、悟が突然頭を抱えた。
「なに、どうしたの」
「……………なまえ、どう呼べばいい?」
―――――くっだらねぇ。好きに呼べよ。
思わず口から飛び出しそうになった言葉を慌てて飲み込む。普段なら遠慮なく吐き出すところだが、それをしなかったのは悟が可哀想なくらいに真っ赤になっていたからだ。流石の硝子にも、なけなしの理性と良心があった。
「いきなり呼び捨てにするのは人によっては不快に感じるだろうし、無難に清庭さんでいいんじゃないかな。仲良くなったら名前で呼ばせて貰えばいいと思うよ」
「五条がさん付けってウケるね。でも、それが妥当なんじゃない? いきなり呼び捨てするって、軽い印象を持たれたり、馴れ馴れしく感じる相手もいるだろうし」
「お、おう………」
幸いにも傑と硝子はそれをそこまで気にするタイプではなかった。けれど、それを不快に思う人間が居ることを彼等は知っている。中学までは二人も一般の学校に通っていたので、人には人の考えがあることをきちんと理解している。
その点、悟はそれを勉強中の身だ。幼い頃は暗殺などの危険から身を守るために、あまり外に出ることが出来なかったのだ。そのため外部との交流関係は薄く、非術師の考えというものに触れたこともほとんどない。
五条悟という絶対の存在は常に肯定されるものであり、畏怖はあれど拒絶される事はなかったのである。故に相手に嫌われない努力というものを、彼はこれから学んでいかなければならないのだ。
「あ………」
ぱっと顔を上げた悟が、目を輝かせる。漫画なら薔薇を背負っていそうな輝き方だった。
硝子が悟の視線を追い掛けると、グレーのプリーツスカートを靡かせて歩く少女が視界に入った。染めたことのなさそうな黒髪を一つに束ね、高すぎない位置で結っている。
悟は風に乗って揺れる濡羽色に見惚れているようだった。
「声掛けないの?」
「あ゛っっっ」
呆れたような硝子の言葉に、悟が我に返る。ワタワタと酷く慌てた様子だった。
そんな悟を見て硝子は「ずっとこんな調子?」と傑に耳打ちし、傑はその通りと言うように苦笑して頷いた。
「あ、う………。さっ、さに、さにわ、さん………」
悟の口から漏れたのは、蚊の鳴くようなか細い声だった。あまりの体たらくに硝子は渋い顔を晒し、傑は顔を覆った。
「清庭さん!」
仕方ない、と悟の代わりに傑が声を上げる。信号待ちをしていた椿が声を追いかけて振り返り、傑達を見とめて笑みを浮かべた。
「こんにちは。夏油くん、五条くん」
「や、こんにちは。今日も暑いね」
「そうだな。五条くんは暑いのが苦手そうだけど、体調はどうだろう?」
「あっ、えっと、だ、大丈夫……」
「そうか、それなら良かった。ところで、そちらの彼女は?」
和やかに会話をしていた椿が、柔らかい視線を硝子に向ける。悟達と共に居る時に少女達から向けられる、不快な感情は一切読み取れなかった。それだけで、椿に対する硝子の印象はかなり好意的なものとなった。
「初めまして、私は家入硝子。この二人の同期。よろしく」
「初めまして、私は清庭椿。こちらこそよろしく、家入さん」
「うちの学校、女子少ないから、よかったら仲良くしてよ」
「もちろんだとも」
嬉しそうに淡く微笑む椿に、硝子もほんのりと笑みを浮かべる。
椿は大きく表情が動くタイプでは無いが、瞳が言葉よりも何よりも雄弁に感情を語っている。社交辞令でもなんでもなく、心から硝子と仲良くなる事を望んでいた。
なるほど、確かに綺麗な子だ、と硝子は悟の人を見る目に感心した。
「ねぇ、今から時間ある? 良かったら少し話そうよ」
「もちろん。どこか入る?」
「そだね。小腹も空いてるし」
硝子の提案でファミレスに入ることになり、4人掛けのテーブルに着く。4人で分けられそうな大皿料理を頼み、一段落付いたところで硝子が椿に声を掛けた。
「清庭さんってどこの高校通ってるの? ここの近く?」
「××高校だよ。君達は宗教系の学校なんだっけ」
「そう。○○ってとこ」
「○○」というのは高専の表向きの名前である。呪術師というものは一般人に秘匿されているため、呪術高専の名を口にすることは出来ない。そのため仮の名前が用意されているのだ。学校名を名乗らなければならないときは、この名前を使用するように言われている。
「寮制の学校なんだろう? 寮生活ってどんな感じなんだ?」
「うーん。普通? 強いて言えばアパートの一人暮らしって感じじゃない? 周りは顔知ってる奴しかいないから、気楽ではあるよ」
「なるほど、隣室は同級生だから、知らない人ではないもんな。そういう意味では確かに気楽かもしれない」
椿の目が硝子から傑達に向けられる。自分達にも意見を求められていると気付いた傑がにこりと笑った。
「親元を離れているから、自由ではあるね。その分自分でやらなければならないことも多いけど」
「親には頼れなくなるものな。でも、悪いことをしても怒られないのはいいな」
「へぇ? どんなこと?」
「夜中のつまみ食い。身体に良くないことは分かっているんだが、お腹が空いてしまって、ついつい食べてしまうんだよな」
真面目そうな椿でも悪いことをして怒られるなんてあるんだ、と食いつくと、この年頃ならば良くあることだった。
それが「悪いこと」に入るんだ、と硝子と傑は目を泳がせた。彼らはすでに飲酒も喫煙もしている。夜中のつまみ食いなんてかわいいものだ。
けれど椿はばつが悪そうにはにかんでいる。本当にこれを「良くないこと」に分類しているようだった。
「五条くんはどうだろう? 寮生活は楽しい?」
「えっ!? あ、う、うん。た、楽しいと思う………」
「ふふ、遊ぼうと思えばすぐ遊びに行ける距離だし、いいなぁ」
ごまかすように椿が悟に話題を振る。突然話しかけられた悟は飛び上がらんばかりに驚いたものの、何とか言葉を返す。
一瞬突いてみるのも有りかと考えていた硝子達だが、ここは椿の思惑通り、ごまかされることを選択した。
「でも良いことばっかでもないよ。親の目がないから、すぐ馬鹿騒ぎになる」
「友達だけだと、つい楽しくなってしまうんだな」
「こいつらなんて夜中に喧嘩しだして、先生に雷落とされてたんだよ」
「「硝子!!?」」
心優しい一般人である椿の前で猫を被っている男達は「今それをバラすのか!?」と驚いた声を上げる。
椿はほんの少し目を大きく開き、二人の顔を交互に見やる。
「あまりイメージが湧かないな。二人とも大騒ぎするような印象がないというか」
「そうなの?」
「五条くんは特に。初対面の印象が“溶けてしまいそう”だったから」
「そうなの!?」
ぶは、と硝子が思い切り吹き出す。腹を抱えて笑っているところで注文していた商品が届き、椿がお礼を言って受け取った。
「悟がそんな印象を持たれるなんて信じられないな」
「肌も髪も白いし、体調が悪そうだったのも相まって、そう見えたんだ」
「やば、清庭さん最高。普段の五条を見せてやりたいね」
「そんなに違うものなんだな」
傑が届いたフライドポテトを食べながら悟を見やる。硝子が何を言い出すかとヒヤヒヤしている悟は酷く大人しい。こうしていれば儚い印象を持つ人間もいるだろうが、彼の性格を知っている傑には“溶けてしまいそう”などという印象は持てない。
「そうだ、再会してみてどうだった? 印象変わった?」
「あまり変わっていないかな。でも、相変わらず綺麗だなぁとは思ったよ。ラムネのビー玉みたいで、キラキラしてて」
「目のこと? 例えがかわいすぎない?」
「なら、夏の空とかだろうか。いや、晴れた日の水面だろうか。何でかな、日の光を集めたようなイメージがあるんだ」
硝子が六眼を見て持った印象は“氷”だった。綺麗なくせに冷たくて、酷く鋭かったのだ。最近は傑のおかげでその瞳に温度を灯しているが、硝子は初対面で悟にそんな印象を持てるような感性を持っていなかった。
どんなポジティブな受け取り方をすれば「日の光を集めた」なんてイメージを持てるのだろう。それとも、彼女が出会った当初の悟は、そういう人間だったのだろうか。
ちらりと横目で見やった悟は顔を真っ赤にさせて、普段の不遜な態度からは考えられないほどに小さくなっている。
―――――この少女の目に、この世界はどのように映っているのだろう。
いつの間にか、硝子の興味は「五条の初恋相手」ではなく「椿自身」に向けられていた。
***
注文していた商品を食べ終わり、いつまでも長居するわけにはいかないと席を立つ。
伝票を持って立ち上がった椿の手を、傑がそっと制した。
「奢るよ」
「え? 申し訳ないな……」
「気にしないで。格好つけたいだけだから」
眉を下げて困ったような顔をする椿に、傑が優しげな笑みを浮かべる。伝票を握った椿の手をそっと握り、優しく伝票を奪い取っていく。
硝子は「そういうとこだぞ」とげんなりと疲れたような表情を浮かべた。項垂れて、襟足のあたりをガリガリと掻く。
二人のやり取りを見ていた悟は顔色を悪くしてオロオロしている。この手口で何人もの女性の心を奪ってきた瞬間を目の当たりにしてきたせいだろう。椿もそうなってしまうのではないかと不安になっているようだった。
けれど、それは杞憂だろうと硝子は予想する。彼女の所感では、椿はそういうタイプではない。
「なら、今回はお願いするよ。でも、次の機会には私が払ってもいいか?」
「そのときも私は奢りを提案するよ?」
「おや、女性に負い目を感じさせないのも、男性の甲斐性だろう?」
「………うーん、参った。確かに負い目を感じさせるのは良くないな」
「ふふ、話が早くて助かるよ」
降参と言うように苦笑した傑に、椿が楽しげな笑みを見せる。その様子に硝子が顔を上げた。思った通りだ、とにんまりと笑みを浮かべる。してやられた様子で会計に向かう傑を思い切り笑ってやりたい気分だった。
「やるじゃん。あいつ誑しだから、その手口で何人も引っかけてるみたいなんだよね」
「ふふ、彼は愛されるのが上手いんだな」
「………あの誑しも、良いように捉えるとそうなるのか」
にこにこと、邪気のない様子で椿が笑う。特に何とも思っていない様子に、悟があからさまにホッとする。
天然なのか、鈍感なふりをしているのか。いまいち掴み所のない少女に、硝子は探るような視線を向ける。
すると椿はそれに気付いたのか、頬杖をつき、悟や傑から口元を隠した。自身の手を衝立代わりにした向こう側で、椿がにっと口角を上げる。その笑みを見て、硝子ははっと息を呑んだ。
それまでの椿の印象は、爽やかで綺麗な少女だった。常に明るい方に目を向けていて、悪いところではなく、人の良いところを見つけようとするような、善良な気性を持っていた。呪術界の荒波に揉まれている真っ最中である硝子には、少し眩しいくらいの白さだった。
けれど、その男勝りな笑みは15の少女が持つものではない。女傑と呼ばれる類の女性が持つような、そんな成熟した空気を纏っていたのだ。
「…………あんた、面白いね」
「ふふ、私と仲良くなれそうかな?」
「なれそう。番号教えて。今度二人で遊びに行こ」
「もちろん」
携帯を取り出し、電話番号とメールアドレスを交換する。
先程の老練な雰囲気はもうすっかり消え失せていて、新しく増えた電話帳を見て喜ぶ椿はごく普通の少女にしか見えない。
「あ、あのっ……! お、俺とも………」
「私ともいいかな?」
「いいよ」
勇気を出して声を上げた悟と、会計を終えて戻ってきた傑ともアドレスを交換して、椿は満足そうな顔をしていた。ここまで喜色を浮かべられると、何だか落ち着かない心地になってくる。
店を出ると、外はすでに日が傾き始めており、西日が目に眩しかった。
「すまない。買い物をして帰らないといけないから、そろそろ帰るよ」
「そっか。今日はいきなり引きとめて悪かったね。話せてよかったよ」
「こちらこそ、今日は楽しかった。誘ってくれてありがとう」
「まだ明るい時間帯だけど、気を付けて帰ってね」
「ありがとう。夏油くん達も気を付けて」
「ま、またな……!」
手を振って、笑顔で別れる。夕日に照らされた椿の顔は、その光に負けないくらいに明るく輝いていた。