初恋フィルター
高専一年生は三人だけの学級だ。五条悟、夏油傑、そして紅一点の家入硝子。
硝子は食堂のテーブルにつき、料理にも手をつけずに微動だにしない悟を見て片眉を上げた。
ザッと視線を走らせるも、体調不良の様子は見られなかった。しかし、何も無いというには様子がおかし過ぎて、硝子は眉を寄せる。
「ねぇ、夏油。五条の奴、なんかあった?」
明らかに様子のおかしい悟を視界の端に入れつつ、彼と共に任務に赴いていた傑に声を掛ける。彼は困ったように眉を下げ、ちらりと悟を見やった。
「実はね、悟が初恋の相手に再会したみたいなんだ」
「……………は? マジ?」
「悟は自覚してないみたいだけど、多分あの子が初恋だね。しかも拗らせてる」
「五条が、初恋を拗らせてる???」
うん、と深く頷く傑の顔は真剣だった。嘘では無いのだろう。
関わりたくねぇという感情と、面白そうという好奇心の二律背反。しばらくシーソーゲームが行われて、勝ったのは後者であった。
「えっ、どんな子? 五条にはこれっぽっちも興味ないけど、あの傍若無人を落とした相手には興味あるな」
「私も少し話したけど、普通に良い子だったよ。でも、悟が惚れるような要素は見つけられなかったかな」
「へぇ? 見た目は?」
「そうだな……。背が高くて、姿勢の良い子だったな。黒髪が綺麗で、スレンダーなタイプだったよ」
「え、五条ってそういう子が好みだったの? なんか意外だな」
「私も真逆の子がタイプなんだと思ってた……」
傑の苦笑混じりの言葉に、硝子は「拗らせている」という言葉の意味を察した。彼は初恋の君の面影を探すのではなく、初恋の君を綺麗にラッピングして大切に仕舞い込むタイプだったのだ。
「出会いとかって聞いてるの?」
「詳しくは聞いてないけど、体調を崩した悟に声を掛けたのが出会いらしいよ」
「少女漫画の出会い方じゃん」
「しかも相手は非術師」
「"身分違いの恋"的なあれじゃん、ウケる」
「今日で会うのは二回目らしいけど、"あの子がすごく綺麗だったから覚えてた"んだって」
「ごふっ」
たまらず硝子が吹き出した。
何だろう、この少女漫画の王道展開。使い古され過ぎてて、逆に新しく思えてくる。
けれど残念かな。登場人物の片方が五条悟というだけで、硝子の中では少女漫画ではなく、ギャグ漫画として連載が開始されてしまった。
「その子と再会した五条の反応が見たかった」
「きゃあきゃあ言ってる女の子達を無視してその子に一直線」
「待って」
「そして第一声が"俺のこと覚えてる?"」
「ちょっと、」
「そこから始まる自己紹介。そして"こっちで進学したの?"までやってた」
「うっそでしょ」
典型も典型であった。
体調不良の自分を助けてくれた女の子。名前も知らない初恋の君。探しても見つからなかったあの子。上京し、高校に入学して再会するという美しいまでの流れが出来上がっていた。これが漫画であるならば、ここから物語が動き出すパターンである。
「エンタメ感覚で続きが気になってきたんだけど」
「私も。というか、彼女の前での悟が、どう見てもお母さんの後ろに隠れてモジモジしてる幼児そのものだったんだよね。あるいは借りてきた猫」
「ぶっは!」
耐えられなくなって、硝子が声を上げて笑い出す。
あの天下の五条悟が、初恋の女の子の前では形無しだというのか。暴君と呼んでも過言ではない男が、世界でたった一人のか弱い乙女に敵わないらしい。
「やばいな、その子。私も会いたくなっちゃった」
「私ももう少し話してみたいな。悟があの子に入れ込んだ理由が気になる。顔も綺麗めで悪くなかったけど、目立つような子ではなかったし」
「お前は顔ばっか見てんじゃねぇよ、クズ」
こんなクズでもモテるのだから世も末である。硝子は蔑んだ目を傑に向けた。
硝子にとって、悟も傑も等しくクズである。いくら見目が良かろうが、中身が伴っていないのならば、その外見に価値はない。よって彼女にとって二人は観賞用にすらなりはしないのだ。
こんな男に顔を評価されるなんて、と顔も知らない悟の初恋の君に深く同情した。
「…………でも、五条の評価が気になるな。初恋フィルター通すと人ってどう見えるんだろ」
「私、硝子も大概だと思うよ」
胡乱な目を向ける傑に無視を決め込んで、硝子はスタスタと悟のもとに向かう。空いている彼の正面に座り、考え事をしている悟に声を掛けた。
「ねぇ」
「…………あ?」
「私にも聞かせてよ」
「…………なに、」
「あんたの初恋の女の子の話」
ドンガラガッシャン。ギャグ漫画もびっくりな勢いで悟が椅子から転げ落ちる。
床に座り込んだ悟は白い肌を真っ赤に染め上げて、餌を求める鯉のように口をパクパクと開閉させた。そのあまりの間抜けぶりに、硝子は遠慮なく噴出した。
「やば、ちょーウケる。マジで初恋なんだ?」
「傑、何勝手に話して……! って言うか、あの子はそんなんじゃねぇって!!!」
「え、あいつとかじゃなくてあの子呼びなんだ」
これまた意外な一面を見た。
悟は自分以外は男も女も等しくみんな下に位置すると考えている。驚くことに、これが過言ではないのだ。例外に当たるのが傑と硝子であろう。彼は意外にも、自分に出来ないことを出来る人間に対して、正当に評価する事ができる。傑は自分に並ぶ実力者、硝子は自分には出来ない反転術式のエキスパートとして評価されているのだ。
そんな傲慢の化身のような男であるから、二人称に『あの子』という表現があることにすら驚いた。
「ねぇ、どんな子なの? 夏油の話を聞く限り、あんまり印象に残らないタイプってイメージなんだけど」
硝子の言葉に、よたよたと立ち上がって椅子に座り直した悟は「見る目が無いな」と親友を見やった。傑も硝子の後を追って近くまで来ており、悟の視線に首を傾げている。目をやった意図には気付かなかったらしい。
まぁでも、無理もない。おそらく悟も、あの出会いがなければ、彼女に見向きもしなかっただろうから。
「……………すげぇ、綺麗な子。顔とか、そう言うんじゃなくて、いい奴って意味で」
いまいちピンと来なかったのか、硝子は納得のいかない表情を浮かべている。夏油と顔を見合わせて、二人して首を傾げた。
「…………多分、話しても分かんねぇよ」
あの清らかさを言葉にすることなど、悟には不可能だった。
それでも悟の所感が気になるのか、二人は視線で続きを促した。
ここで黙していても面倒な事になるのは目に見えていたので、渋々言葉を続ける。
「…………あの子は多分、善人って奴なんだと思う。崇高な理念を持ってるとか、そんなんじゃなくて。どこにでもあるような、誰もが持ってるような、平凡な感じの善性」
彼女は、悟が脳裏に思い描く少女は、どこにでもいるような存在だった。救済者の素質を持っているような特別な人間などではなくて。どこにでもあるような、誰もが持っているような。それこそ道端にでも落ちていそうな、凡庸な善性を持つ一般人。
けれど悟は彼女の中に、きらりと輝く星を見つけてしまったのだ。
ただ具合が悪そうだと言う理由だけで、何の下心もなく悟を助けた。何の裏もなく、彼のことを心配した。見返りなんて無いのに。放っておけば良かったのに。普通の善人だって、関わりたく無いだとか、面倒くさいと考えて放置するだろうに。
けれどあの子は、そんな一般人よりもほんの少しお人好しだったから、悟はあの子と出会ったのだ。あの子の中に存在する、あたたかいものに触れられたのだ。
「具合が悪いところに声を掛けてくれた。そんだけ聞くと、相手が誰でも同じだろうってお前らは考えると思う。けど、俺はあの子じゃなかったら、きっと覚えてなんていなかった」
胸が苦しくなる程の献身。泣きたくなる程に傾けられた、あたたかな情。それを向けられたときの心情を、形にする事は出来ない。そんなにあっさりと、表現出来るものではないのだ。
あまりにも抽象的な話だった。きっと言葉を尽くしても、彼等は理解してくれない。あれは、彼女の心を直接注がれた者にしか分からない類のものなのだ。
鮮烈なまでに脳裏に焼き付いた善性。誰かのために浮かべる花の微笑み。
あの清廉な在り方は、実際に見て、感じる事でしか理解出来ないのだ。
「どんだけ俺が言葉を尽くしても、お前らは納得出来ないと思う。だから、分かんなくていいよ」
突き放すような言葉だった。けれど、それは冷たいものではなくて。むしろ今まで聞いた中で一番優しくて、角を削ぎ落としたような柔らかい声をしていた。
そんな声を落とした悟は、焦土に咲いた一輪の花を見つめるような、尊いものを眩しく思うような顔をしていた。
傑と硝子は目を瞠って、二人で顔を見合わせる。
この男はそんな声を出せたのか。そんな顔が出来たのか。
衝撃を受けた二人は、口を開けたまま呆気に取られて言葉を失った。
「………………なんか言えよ」
「………あ、ああ、うん。確かに、ちょっと難しかったかな」
「………まぁ、私は会ったこともないしね」
言葉が見つからなくて、二人はお茶を濁す。だから言ったろ、と言わんばかりの憮然とした表情を浮かべる悟に、二人揃って苦笑した。
「でも、それだけ入れ込んでいるなら、何で会いに行かなかったんだ? 調べようと思えば、いくらでも調べられただろ?」
「…………そんな事したら、うちの連中があの子に何かあるって勘繰って、何を仕出かすか分からなかったんだよ」
「え、興味持っただけで? マジかよ、五条家」
「ご学友ってだけで、お前らの事も調べ上げられてんぞ」
「「うっわ………」」
「キショい奴らなんだよ。そんな連中が、今まで非術師に関心の無かった俺が非術師に興味持ったって知ったら、何を隠してるんだって、下手すりゃ拉致監禁してもおかしくない」
「本当にキショいな……」
「五条家ヤバいな……」
ちょっとした興味本位の質問で、とんでもない事実が発覚してしまった。
一般家庭出身の傑と硝子は呪術界の有様に、心の底からドン引きした。
「じゃあ、もう会いに行かないんだ? せっかく近くにいるのに」
「は?」
「あんたのことだから、実家を脅してでも会いに行くもんだと思ってたよ」
悟がポカンと口を開ける。そんな彼には目もくれず、硝子は椅子から立ち上がった。
「ま、危険に晒したくないなら現状維持が最適だよね。五条家って思ったよりヤバい家みたいだし」
聞きたいことが聞けて満足した彼女は、ひらりと後ろ手に手を振って食堂を後にした。なんとも自分勝手な女である。彼女は悟に天啓のようなものを与えて、あとは知らないとばかりにさっさと立ち去ってしまったのだ。
入れ替わるように、傑が硝子の座っていた席に腰掛ける。
「まったく、硝子は……。それで、悟はどうしたいんだい?」
「どう、したいって………」
「君の家が由緒ある家柄だと言うのは分かっているけど、学生時代の交友関係まで干渉してくるのはやり過ぎだと思うね」
「………………俺、は……」
どうしたいかなんて、決まっている。
ずっと。それこそ、あの日からずっと、あの子の名前が知りたくて。もっと色んな事が知りたくて。ずっと我慢していたのだ。
その名前が美しい事を知って、いかに舞い上がってしまったか。あの日の笑顔が変わらずに存在すると知れて、どれほどの歓喜に見舞われたか。
けれど本当は、そんなものでは全然足りないのだ。
「…………会いたい。あの子に会って、もっと、色んな話がしたい」
ぽつりと溢れた本音は、存外弱々しく響いた。ほんの少し、声が震えていたかもしれない。
この言葉を聞いた傑は、「よし」と手を打った。
「なら決まりだ。あの子に会いに行こう」
「はっ?」
「いざという時は私達が守ればいいんだ。それがどんな事態でも、私達二人なら問題ないだろ?」
そう言って笑う親友の言葉に、悟は光が見えた気がした。