初恋フィルター
椿を見送った悟は、しばらくその残像を追いかけていた。
あの日とは違う白いカッターシャツに、グレーのスカート。
あの日から変わらない耳に馴染む澄んだ声。慈しみに溢れた淡い微笑み。
こちらを気遣う優しい言葉。惜しげもなく差し出される献身。
あの日から瞼の裏にこびり付いたままでいた、大輪の花を思わせる笑顔。
今日見たあの子は、それにも負けない目も眩むような笑みを見せていた。
あの子は、美しい思い出からそのまま飛び出してきたのだと言われても信じてしまうほど、清廉なままだった。
誰にも犯されてほしくないと思っていたもの全てが、穢れを知らないままで居てくれた。
何という僥倖だろう。世界の全てが寿ぐべき事実だった。
「……………………あ゛―――――………」
嬉しい、と素直に認めた。『美しい思い出』が『綺麗なままの現実』として目の前に差し出されたのだ。喜ばずにはいられなかった。
髪を掻きむしりながら、しゃがみ込んで頭を抱える。
脳が焼けて、顔が火照って、心臓が踊り狂っている。このまま溶けて焦げ付いて、道路のシミになってしまうのではないかと、茹った脳が馬鹿げた妄想を繰り広げた。
「おーい、悟。大丈夫か?」
「……………平気」
あの子を見つめるために外したサングラスを掛け直す。
気分は浮ついたままだったが、足はしっかりと地面についていたし、立ち上がっても飛んで行ったりはしなかった。
高専に帰還途中だったことを思い出し、二人は改めて帰路に着く。しばらく無言で歩いていたが、傑がふと口を開いた。
「そう言えば、彼女の言ってたことは本当なのか?」
「あ?」
「会うのは二度目だとか、具合を悪くした君に声をかけただとか」
「………本当だけど」
「そうなんだ? 悟のことだから、その程度の接触なら忘れてしまいそうなものなのに」
不思議そうにしながら、傑が首を傾げる。
確かに、傑の言う通りである。他の誰かならば、そうやって忘れ去っていく。
けれど、あの子だけは別なのだ。椿だけが、鮮烈なまでに焼き付いて消えてくれない。
「……………あの子は、なんか、すげぇ綺麗だったから、覚えてただけだし」
言ってから、物凄く恥ずかしいことを言った気がして、顔に熱が集中する。誤魔化すように「あちぃ」と日差しに向かって悪態をつく。
そんな悟を、傑はチベットスナギツネのような顔で見つめた。
「……………君のオカズに黒髪の女性が居なかった理由が分かった気がする。君、あの子が初恋だろ」
「ばっ!!?!? ばっっっっっか、お前!!! あの子はそう言うんじゃねぇよ!!!!!」
「あの子を穢すんじゃねぇ!」と悟が叫ぶ。
彼にとって清庭椿という少女は、聖域のようなものだったのだ。
天上天下唯我独尊を地で行く男も、初恋の相手には形無しなんだなぁと、傑は耳を塞ぎながら苦笑した。