初恋フィルター
初夏の日差しが眩しい季節。冬の厳しい寒さや鬱屈とした空気から解放され、世間は明るい雰囲気に包まれている。
しかし、今までの溜まりに溜まった陰気が呪いとなって現れるのがこの時期だ。所謂、呪術師達の繁忙期である。
「あ゛ー、だっっっる……」
「コラ、悟。気持ちは分かるが態度が悪いよ。せめて高専に帰ってからにしな」
今年、呪術師達の学び舎である呪術高専に入学した五条悟は、気怠げな様子を隠すことなく悪態をついた。そんな様子を見かねて注意を促したのは同級生の夏油傑である。
高専に入学して間もないとは言え、二人はすでに優秀な呪術師として認知されていた。そのため学生の身分であるものの、いくつもの任務が詰め込まれているのだ。
そんな彼等は複数の任務を終えて、ようやく学び舎に帰還するところであった。
「つってもさぁ、俺らまだ入学して間もない学生よ? もうちょい考慮してくれても良くない?」
「まぁね。でも、一番忙しい時期なんだから仕方ないだろう?」
「うげぇ、真面目くんかよ」
べぇ、と舌を出し、うんざりとした様子を隠しもしない。それに苛立ちを覚えるも、ここは街中である。暴れ回るわけにはいかない。青筋が立ちそうになるのを必死で抑え、傑はなるべく笑みを浮かべた。
「ねぇ、見て! あの人達かっこよくない?」
「本当だ、どこの学校かな?」
「やば、二人ともモデルみたい」
きゃあきゃあと黄色い声が聞こえる。ちらりとそちらを見れば、同い年くらいの少女達が傑達を見て顔を赤らめていた。
自分の顔の良さを知っている傑はにこ、と笑みを浮かべ、少女達から更なる悲鳴が上がる。そんな様子を悟は煩わしそうに見つめていた。
「お前、よくやるよなぁ」
「悪い印象を持たれるより、良い印象を持たれたいだろう?」
「どうでもいい奴に悪い印象持たれてもどうでもよくねぇ?」
面倒くさそうに顔を顰める悟に、傑は苦笑する。
悟は綺麗な顔をしている。この彫刻のような美しい顔で微笑めば、悪印象を持たれることは殆どないだろう。そうすれば、無用な敵を生むこともあるまいに。
いつものように嗜めようとすると、悟が驚いたように目を見開いた。サングラスを取り払い、一点を凝視している。
「悟?」
不思議に思って声をかけるも、悟は無反応だった。スタスタと早足に傑を追い抜かし、女子高生の集団の方へと歩いていく。
少女達が「うそ、やだぁ」と嬉しそうな高い声を上げる。
しかし、悟はそんな少女達には見向きもしないで、その人垣の向こうを目指した。そこには、濡羽色の髪が美しい少女がいた。
「え、あの子? 趣味悪」という囁きが聞こえる。その囁きを耳にした傑は「性格は好みじゃないな」と見切りを付けて悟の後を追った。
信号待ちをしていた少女は、ごく普通のありふれた少女だった。綺麗な顔立ちをしているが、一瞬目で追いかけてしまう程度だ。集団の中にいれば、埋もれてしまうだろう。
目を引く点を挙げるとするならば、背筋の美しさだろうか。あとは長身の部類に入る悟や傑にも引けを取らない背の高さだろう。
(悟の趣味とは違う気がするな)
二人は健全な青少年である。猥談で盛り上がることもままあった。夜のオカズを持ち寄ったこともある。
しかし、そのときに知った悟の好みは、小柄で淡い髪色をした豊満な胸を持つ女性であった。目の前の少女とは真逆である。
少女は悟がすぐそばに立ち止まったことに気付き、彼を見上げる。きょとんとした顔はいとけない愛らしさがあった。
「あ、あのっ」
緊張とは無縁の男から、ガッチガチに緊張した裏返った声が上がった。
「え、今の声、本当に悟か?」と傑が目を見開く。
「おっ……れのこと、お、ぼえてる………?」
自信の感じられない、か細い声だった。そのことに、傑は雷が直撃したような衝撃を覚えた。
短い付き合いであるが、彼は自己肯定感が強く、自信に満ち溢れていて、世界は自分を中心に回っていると本気で考えていそうな人間だということが分かっている。
そんな不遜を絵に描いたような五条悟の、こんなにも弱々しい声を聞くのは初めてのことだった。
殊勝な態度を取る悟は、普段の小学生に混じっても違和感のない悪童のような姿とは似ても似つかない。今日の悟は小学生を通り越して、最早お母さんの後ろに隠れてモジモジしている幼児である。もしくは借りてきた猫。
―――――今夜あたり、特級呪霊が百鬼夜行を行うかもしれない。傑は本気でそう思い、冷や汗をかきながら息を呑んだ。
そんな失礼千万なことを考えている傑を他所に、悟は今までに感じたことのない緊張で死んでしまいそうになっていた。
ずっと忘れられなかった相手が、目の前にいる。名前を、その全てを知りたいと思った女の子が、悟を見ている。それは、夢にまで見た光景だった。
「ああ、もちろん覚えているとも。久しぶりだな。元気そうで何よりだ」
ふわりと、あの日の淡い笑みが溢れる。惜しげもなく、美しい笑みが自分に向けられている。
叫び出したいような、走り出してしまいたいような、そんな衝動を必死に押し殺し、あの日言えなかった言葉を紡ぐ。
「あっ、あのっ! あの、ときは……た、助けてくれて、あり、ありが、とう………」
だんだんと尻すぼみになっていく声は掠れていて、最後は蚊の鳴くような声だった。けれど彼女はきちんと受け止めてくれて、あの日のような花の笑みを浮かべた。
「ふふ、気にしないでくれ。私は具合の悪そうな人間を放っておけるほど、薄情な人間ではいられなかっただけだから」
変わらない善良さに安堵した。あの日のあの子は、美しい心根のままで居てくれたのだ。
何という奇跡だろう。この醜いものが蔓延る世界で、美しい少女はどこまでも清らかだった。居るなんて思ってもいない神様に、悟は心からの感謝を述べた。
「そうだ、自己紹介がまだだったな。私は清庭椿。改めてよろしく」
名前まで綺麗だ、と悟は心底驚いた。美しい生き物は、美しいものだけで構成されているのか。いっそ感動すら覚えながら、震えそうになる身体を必死に抑え、自分の名を告げる。
「ごっ、五条、悟………」
「よろしく、五条くん」
「う、うん」
やっと名前を言い合えた。彼女との繋がりが出来た。それだけで天にも昇りそうなほどの喜びを噛み締める。
そんな悟の肩を、傑がポンと叩いた。
「悟、私のこと忘れてないかい?」
「おわっ!? お、脅かすなよ、傑!」
「ずっと居ただろ。えっと、悟の知り合いかな?」
「難しいな。会うのは二度目だから、どのような表現が適切か分からない」
「えっ、そうなのかい?」
椿に問いかけた傑は、心底驚いた顔を見せた。
守られるだけの人間に興味のない悟のことだから、五条家に関わりのある人間だろうと推測していたのだ。
「私は夏油傑。悟と同じ学校に通う同級生なんだ。私達は高一なんだけど、同い年かな?」
「私は清庭椿という。私も今年高校生になったから同い年だよ」
「綺麗な名前だね。ところで、二人はどうやって出会ったんだい?」
―――――こいつ、さらっと誉めやがった!!!
悟が衝撃を受けた顔で傑を見やる。
自分も同じことを思っていただとか、こういうのって褒めて良いんだとか、そう言った思考で埋め尽くされる。
「大したことじゃない。具合が悪そうにしていたのを見かけて声を掛けただけさ」
「そうなんだ。優しいんだね」
「ありがとう」
和やかに会話を交わす二人に、悟は酷く慌てていた。
傑はモテるのだ。「優しい」というカテゴリーに入る部類の人間で、女性に対しての気遣いが出来る男である。任務先でも女性をたらし込んでいるのを何度も目にしている。
このまま二人を会話させたままでいるのはまずいのではないか。椿がたらし込まれてしまうのではないか。そんな思考に行き着いた悟は、咄嗟に声を上げた。
「あ、あのっ!」
「うん、何だろう?」
「き、今日は、何でここに? ま、前に会った時、俺ん家の実家近くだった、よね……?」
出来るだけ語尾を柔らかくして、出来るだけ穏やかな声音を心掛ける。椿がそう言う声で話すから、同じように話したかったのだ。
「ああ、それか。あの後こちらに引っ越して、そのまま進学したんだ。君もこの近くの学校に?」
「そっ、そうなんだ……。お、俺もこっちに進学して………」
「君もなんだな。しかし、あまり見かけない制服だな」
「宗教系の特殊な学校でね。寮制の学校だし、人数も少ないんだ」
「なるほど。それなら見かけないのも納得だな」
悟の会話に、傑が助け舟を出す。二人だけで会話をさせるのは酷く不安だが、こういうとき、傑の話術はとても助かるのだ。特に今日は、いつもなら簡単に出てくる言葉も喉に詰まって、単語ひとつ発するのにも苦労している。どうしたことだろう、と思いながら、悟は喉をさすった。
「ん? どうした? 喉を痛めているのか?」
「えっ? いや、その……大丈夫、何ともない、から………」
「そうか? 喉をさすっていたから、痛いのかと」
そう言いながら、椿が鞄を漁る。すぐに探し物を見つけた手が、そっと悟に差し出された。掌には、飴が二つ乗っていた。
「のど飴じゃないが、少しはマシになるかもしれないから、よかったらどうぞ」
「えっ、あ、いっ、いいの?」
「もちろん。甘いものが嫌いでなければ」
「あ、甘いもの平気。あ、ありが、とう……」
手を差し出すと、掌に飴が乗せられる。女の子にしては大きいけれど、それでも悟より小さな手が触れ合って、悟の脳が沸騰した。
「夏油くんもどうぞ」
「私もいいのかい? ありがとう、大事に食べるよ」
「オススメなんだ。気に入って貰えると良いんだが」
これ好きなんだ、と手の中の飴を見やる。オレンジとレモンという柑橘系の飴。普段悟が好んで選ぶものとは違うけれど、甘酸っぱいものも嫌いではなかった。何より、椿の好きなものが知れたと言う事実が嬉しかったのだ。
宝石を手に入れたような心境になって、小さな飴をポケットに入れる。それから、先程触れ合った掌をこっそりと撫でた。何故だか、彼女の体温が残っている気がした。
「あ、そろそろ帰らないと」
「そうなんだ。引きとめて悪かったね」
「構わない。また見かけた時にでも声をかけてくれ。それから、体調に気を付けて。特に、五条くんはあまり暑さに強くないようだし」
「ありがとう。清庭さんもね」
「ああ。じゃあ、また」
「うん、またね」
ひら、と控えめに手を振って、椿が青色に変わった信号を渡る。
行ってしまう、と焦燥感に駆られた悟は、意を決して口を開いた。
「ま、またな!」
思ったよりも大きな声が出て、目を丸くした椿が悟を振り返る。
けれど、椿は咎めるでもなく、嫌そうにするでもなく、眩しい笑みを浮かべて、悟に向けて手を振ってくれたのだ。
(相変わらず、眩しいなぁ………)
日差しを浴びてほんのりと上気した頬が目に焼き付いて、しばらく消えそうになかった。