初恋フィルター






 五条悟は生まれながらに特別だった。数百年ぶりに現れた『六眼』の保有者であり、五条家の相伝術式である『無下限呪術』を併せ持った奇跡の子供。
 五条悟の出現により、年々呪霊は力を増していた。ある選手の輩出をきっかけに世界記録が突然更新されだすように。彼は世界のバランスさえも変えてしまったのだ。
 その強大な存在を畏れる者は多く、まだ幼い悟の首には多額の懸賞金が掛けられるほどだった。
 五条悟という存在は、天災の類に相当するものだった。彼はそれだけの存在だったのだ。

 そんな悟には、忘れられない人がいる。
 相手は何処にでもいるような、特別でも何でもない、ただの少女だった。

 それは12歳の夏。五条家から言い渡された呪霊の討伐に赴いた土地で、悟が体調不良に見舞われたときのことだ。
 悟の持つ六眼は、呪力を精細に読み取る。相手の術式すらも読み取れてしまうくらいに。
 しかし、その反面情報量が多過ぎて、すぐに疲労が溜まるのだ。加えて、その日は記録的な猛暑だったこともあり、悟はいつ倒れてもおかしくはないほど重症だった。
 実家からそう遠くない場所だったから、その日は送迎を断っていたのだ。家の人間に見張られている煩わしさよりも、太陽に照り付けられる方が何倍もマシだったから。

 そんなとき、声を掛けてきたのが件の少女だった。
 白いカッターシャツ。黒いスカートに黒いリボン。濡羽色の髪。白い頬が、暑さでほんのりと上気していたのを鮮明に覚えている。

 声を掛けてきた少女は、具合の悪い悟を日陰に連れて行くところから始めた。照り付ける日差しに焼かれ、熱中症になったのだろうと当たりをつけたようだった。
 少女は近くの自販機で買ったスポーツ飲料を悟に飲ませた。
 普段は他人から渡されたものを口にしないが、悟を見つめる目があまりにも不安気に揺れていたので、渋々口を付けたのだ。
 水分が摂れることにホッとした少女は、同じ自販機で買った水で持っていたタオルやハンカチを濡らし、首を冷やしたり汗を拭ったり、甲斐甲斐しく世話を焼いた。

 少女に、これといった特筆性は見出せなかった。呪力が多い訳でもない。術式がある訳でもない。おそらく、暗闇で生きる呪術師達とは無縁の、日の当たる場所で生きていた人間だ。
 きっと、呪霊なんて悍ましいものは知らなくて。御三家なんて汚いものは知らなくて。五条悟がどれほど特別な生き物なのかなんて知らなくて。だからこれは、彼女にとってなんの利益も生まない無益な行動だ。


「…………なんで、」
「ん? どうした?」
「なんで、世話焼くの」


 見ず知らずの人間を相手に、どうしてここまで尽くせるのだろう。タオルを絞った水滴で制服を濡らして、未使用だったタオルを汚して。初めて出会った、名前も知らないどこかの誰かのために、自分の時間を潰して。何の理由があって、ここまで献身的になれるのだろう。
 少女は、悟の問いかけにきょとりと目を瞬かせた。


「君が苦しそうにしていたから」
「は、」
「人を助けるのに、理由なんてない。でも、あえて理由を付けるなら、それだろうな」


 地球は青いというように、それが真理だと言わんばかりに、何でもない事のように言ってのけた。
 目眩がした。あまりにも、その心根が眩しくて。
 彼女のそれは、何の打算もない、ただ自分の善性に従っての行動だった。

 偽善だと唾棄するのは簡単だった。けれど、出来なかった。その清廉な在り方を、嘘だと思いたくなかったのだ。そうやって切り捨てられるようなものだと、思いたくなかったのだ。

 その心は、呪術界という汚濁に塗れた世界に生きてきた悟には綺麗過ぎた。弱った身体には、毒にすら思えるほどに。


「無理に話さない方がいい。横になろう」


 美しさに、視界がぐわんと揺れる。血の気が引いたのに気付いたのか、少女が安心させるように、冷えた手で頬を撫でた。そのまま、隣に座った少女の膝に頭を乗せられる。
 後頭部に感じる柔らかな感触に、一瞬脳が沸騰しかけた。けれど、見上げた少女の顔が酷く美しくて、そちらの方に全てを持っていかれた。
 少女の顔の造形が、絶世の美貌というわけではない。少女の顔は整っている方ではあったけれど、それも集団の中では埋もれてしまう程度のものでしかない。悟が見惚れたのは、その顔が自分のためだけに作られたものだったからだ。
 何の思惑もなく、ひたすらに悟のことを想って生み出されたもの。胸が苦しくなるほどの、ありったけの情を傾けられているのが伝わってくる。


「水分は摂れるようだから、そこまで深刻な熱中症ではなさそうだけど、自力では歩けそうにないよな。保護者に連絡はつくだろうか?」
「………家にかければ、誰かはいる」
「自分で掛けられるか? 声を出すのも辛いなら、私が代わりに掛けるけど」
「………いい」


 泣きたくなるような気持ちを抑えて、電話を取り出す。本当はそれすらも億劫だったが、自分の番号で掛かってきた電話口から別の人間の声が聞こえれば、五条家の人間がどのように邪推するかは想像に容易い。この綺麗な人間に、狸達の穢らわしい口から漏れる罵倒を聞かせたくはなかった。


「迎え。場所は××近く。詮索しない奴で」


 端的な言葉を並べて、一方的に電話を切った。それだけでどっと疲れたような気がした。
 ため息を付くと、そっと目元が覆われる。少女の掌が、悟の瞼に帳を下ろしたのだ。


「しばらく目を閉じて休んでいるといい。涼しいところで安静にしているのが一番だから」


 微睡へと誘うような、柔らかな声だった。澄んだ声はよく耳に馴染んで、気を落ち着けてくれる。それだけで、呼吸が楽になった気がした。
 柔らかな膝。目元を覆う慈しみに溢れる掌。甘やかすような、心地良い声。このまま眠りについてしまいたい。
 今まで、誰かのそばで眠りたいだなんて、考えたこともなかった。人の体温を心地良いと思ったことなんて一度もなかった。なのに、どうしたことだろう。ずっと、こうしていたいだなんて。


「あ、迎えが来たみたいだぞ」


 キッ、と不快な音を立てて、近くに車が停車したのが分かった。
 そっと、掌が外された。せっかく心地良かったのにな、と残念な気持ちになる。けれど、明るくなった視界の真ん中で、少女が淡く微笑んでいる。それを見れば、先程とは違ったもので胸が満たされた。
 急いで車から降りてきた五条家の運転手は、少女を見て困惑と警戒の色を浮かべている。運転手の男が口を開く前に鋭い視線を送ると、男は身を固くして口をつぐんだ。


「身体を起こせるか?」
「大丈夫」
「少しは楽になっただろうか?」
「うん」
「なら良かった」


 目眩はもう無かった。目の疲労も、僅かながらに落ち着いていた。
 悟が笑みを浮かべると、少女もホッとしたような安堵の笑みを見せた。
 どこまでも、誰かのために心を砕ける善人の顔だった。


「お大事に」


 車に乗り込む悟に向けて、少女が控えめに手を振った。少女の顔には、その日一番の、綻ぶような笑みが浮かんでいた。
 不意打ちで大輪の花を見せられた悟は、顔から火が出るのではないかと心配になるくらいに顔を火照らせた。



***



 運転手の男がミラー越しに悟を見やった。いつもならうんざりする程の愚痴をこぼす口が、今日は一言も漏らすことなく閉ざされたままなのだ。
 先程の少女と何かあったのだろうかと、男が控えめに問いかける。


「………ぼっちゃま。先程の少女は一体、」
「詮索すんなっつったろ。術式も何もねぇ非術師だ。いちいちめんどくせぇな」


 少女のことを訊ねると、悟は射殺さんばかりの視線でミラー越しに男を睨んだ。その殺意に濡れた瞳を見せつけられ、男は短い悲鳴を上げて口を閉ざした。

 先程の少女が何者なのか知りたいのは、悟の方だった。
 術式も何もない非術師。きっと、幸せな家庭で育ったごく普通の女の子。
 本当は何から何まで調べ上げて、知らないことなど何もないと言えるくらいに知りたかった。けれど、悟は自分の価値を正しく知っている。自分が興味を示したというだけで、どれだけの人間が彼女を毒牙にかけようとするだろう。それは、あってはならないことだ。


(何で、嫌なんだろ……。名前も知らないような女なのに………)


 弱い者に合わせるのは酷く疲れる。先程の少女も庇護される側の人間で、いつもならどうでもいいと切り捨てる相手だった。
 居心地が良かったからだろうか。あまりにも穢れを知らなかったからだろうか。何故かは分からないけれど、あの微笑みが失われるのは、どうしようもなく耐え難いことのように思われた。彼女を害されるのが、この上なく許しがたいのだ。


(でも、名前くらい知りてぇよなぁ………)


 そう言えばお礼も言ってないじゃん! と気付いた悟は、実家に知られないようにどうにかして調べられないものか、と嘆息する。
 けれど、どうしようもないままに、数年が経過してしまうのである。




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