初恋フィルター 番外編
「たっだいま〜! 椿〜、帰ったよー! ハグさせて!」
「おかえり、悟。お疲れ様」
上機嫌で帰宅した悟を出迎えて、望み通りに広げられた腕の中に飛び込んだ。大きな背中に手を回し、労わるようにポンポンと優しく撫でる。
悟は嬉しそうにくふくふと笑い、猫がするように擦り寄ってくる。大きな猫だなぁ、と椿も笑ったとき、ふと漂ってきた香りに動きを止めた。女性ものの、香水の匂いだ。
それは知っている香りだった。あまり嗅ぎ慣れないけれど、そこそこ身近な人間が纏っているものだ。
誰だっただろうか。首筋に顔を寄せると、悟はますますご機嫌になって背中に回った手に力が篭る。
しばらくそのままの状態で、思考を巡らせる。思い付く限りの女性の顔を思い浮かべ、やがて一人に辿り着く。
「冥さんの香りだな」
思ったより、低い声がこぼれ落ちた。
純粋に、嫌だなと思った。香りが移るほど他の女性と一緒に居たのだと思うと、吐き気がするような感情が芽生えるのだ。
疑っているつもりはないけれど、嫉妬を覚えると言うことは、無意識下では疑ってしまっているということなのだろう。そんな風に、大切な人を疑ってしまう自分が、何だかとても嫌な人間に思えてしまう。
―――――今、凄く意地悪な人間になっているな。そう思った椿が謝罪の言葉を述べようとした瞬間、悟が物凄い勢いで上着を放り出して叫んだ。
「誤解です!!!」
そう言って椿の顔を見つめる悟は、血の気が引いて真っ白な顔をしていた。
「車での移動だったから匂いが移っただけで、伊地知も一緒に居たから!! 僕が好きなのは椿だけだから!!!」
悟はガクガクと膝を震わせ、今にも崩れ落ちてしまいそうな様子だ。特級呪霊を前にしても決して見ることの出来ない悟の姿に、椿は思わず苦笑した。
悟は、椿を心の底から愛している。多忙を極めていようと、少しでも椿と過ごす時間を捻出しようと尽力してくれている。自分の方が忙しいくせに椿への労いを忘れず、大切なのだと伝える言葉も欠かさない。そんな相手から疑うような言葉を掛けられたら、傷付くのは当然だった。
「すまない。今のは意地悪だった」
「へっ?」
「ちょっとモヤッとしたから、私が一番だって言って欲しかっただけなんだ」
八つ当たりだった、と頭を下げる。
もう一度しっかりと謝罪して、再度悟の背中に手を回す。ぎゅっと抱きしめると、悟がへなへなと座り込んだ。
一緒になって床に座ると、悟からも抱きしめられる。
「…………椿って、ちゃんとヤキモチ妬いてくれるんだ……」
「あれ、君は知らなかったっけ? 私が結構嫉妬深いんだってこと」
「…………そうなんだ」
ずっと、そうだった。ずっとずっと昔から。
椿は人よりほんの少しだけ、許容範囲が広いのだと言われてきた。けれど、それは相手が自分の許せる範囲でしか、事を起こさなかったからに過ぎない。本当の椿は、周囲が考えるよりもずっと苛烈で、残酷になれる人間で、醜い感情だって持っているのだ。嫉妬だってするし、嫉妬する自分に嫌悪感を感じる矛盾だって抱いてしまう。悟を筆頭に、彼の周囲の呪術師達は、椿を美化し過ぎているのだ。
「私は自分のそういうところ、あんまり好きではないんだけどな。何だか、大切な人を信じられない人間みたいで」
「僕は好きぃ……。椿限定で……」
「そうか。でも、あんまり妬かせないでくれ。妬いているこちらとしては、結構辛いんだから」
「そうだよね。ヤキモチ妬かせちゃうってことは、そんだけ疑われるようなことしてるってことだもんね。次からは気を付けるよ。っていうかもうそんなこと無いようにする」
「ありがとう。私も気を付けるよ」
悟の愛は「重い」と言われる事も多いけど。「よく耐えられる」と呆れられる事もあるけれど。椿には、このくらいが丁度いい。
椿も同じくらい、五条悟という男を愛しているのだから。
「愛してるよ、悟」
「僕も世界で一番愛してる!!!」