歴史修正主義者になりたくない
椿は溜息をついた。最近、平穏が脅かされている気がしてならないのだ。
まず、五条悟。何故だか椿に懐いてしまった彼は、暇さえあれば椿を構おうとしてくるのだ。しかも、いつの間にか自分のことを調べていたようで、名乗ってもいないのに名前を呼ばれたときは大層驚いた。
事前に自分が関わる相手の情報を探っておく危機意識の高さに感心すればいいのか、親しくなろうとしている相手の情報を勝手に暴く倫理観の無さを嘆けばいいのか。悟の立場を考えれば前者だろうが、情報を握られる側の椿としては堪ったものではない。
今のところ、周囲は悟の動向を大して気にしていない。気付いていないものもいるくらいだ。気付いているものにも、いつもの気まぐれで済まされている。しかし、その認識も長くは続かないだろう。周囲に気付かれる前に、悟に飽きてほしいものである。
(私だけならいいが、父さん達に被害が出ることだけは避けたい)
両親も、呪いが見えるだけの非術師である。何かあったときに出来る対処は、一般人と変わらない。何もなければいいけれど、ともう一度嘆息して、もう一つの厄介ごとに意識を向けた。
椿の日常を脅かすのは、悟だけではない。長井秀香。少し前に椿に接触を図ってきた少女も、何かと椿に関わろうとしてくるのだ。
彼女は“転生者”を自称する、椿より少し年上の少女だ。彼女はこの世界に訪れる悲惨な未来を回避するために、他の転生者達と協力して過去改変を目論んでいる。その一端を椿にも担わせようとしていて、事あるごとに勧誘してくるのだ。何度断っても、手を変え品を変え、椿に話を持ちかけてくるのである。
(長井さん、少し苦手なんだよなぁ……)
長井は、少しばかり思い込みが激しい人物なのだ。
当たり前の善性を持っていて、決して悪い人間ではない。けれど、どこか自分を信じすぎるきらいがあって、自分がこうだと信じると、相手がいくら訂正したとしても、そうであると信じ込む。椿が過去改変に否定的なことも、椿が非術師で、自分では役に立てないと思っているからだと信じ込んでしまっている。そういうところが、対話を持って相互理解を図ろうとする椿とは、致命的に相性が悪いのだ。
こちらを理解しようとする意志がない相手にいくら言葉を重ねても、その行為は無意味に終わる。こちらが一方的に消耗して、平行線のまま進むだけ。決して交わらないと分かっているのに、時間ばかりが奪われるのだ。椿が苦手意識を持つのも無理のないことだった。
今日は早めに休もう、と決意して、休憩室に向かう。終業時刻を迎え、あとは荷物を持って自室に帰るだけだ。
同じ方に向かう少年少女達と合流し、同じ目的地に向かって歩を進める。
更に途中で加わった少女が、不安そうな顔で椿に声を掛けてきた。
「ねぇ、椿ちゃん。最近椿ちゃんの悪い噂をよく聞くんだけど、大丈夫?」
少し年上の少女が、椿の顔を覗き込む。
青天の霹靂だった。悪い噂なのだから、本人に聞こえないように言うのは当然だ。逆にわざと聞かせるものもいるけれど、そういったことはなかったので、そのようなことになっているとは気付きもしなかった。
「悪い噂、ですか?」
「そう。誰それの悪口言ってた~とか。椿ちゃんがそんなことする訳ないのにねぇ?」
「ねぇ? 椿ちゃんが誰かを悪く言ってるの、聞いたことないもん」
「むしろ、いいところ見つける達人なのにね」
少女達は椿の味方であるようだった。自分達より低い位置にある椿の頭を撫で、安心させるように笑いかけてくる。その笑顔にほっとして、椿は心の底から感謝を延べた。
「影でこそこそと噂を流すなんてむかつくなぁ。清庭、何かあったらすぐに相談しろよ?」
「ま、清庭を知ってる奴は誰も信じないだろうし、すぐに消えるさ」
少年達が、励ますように肩を叩き、男性用に用意された休憩室に入っていく。彼らにもお礼を告げて、椿は別に話題に移った少女達の背中を追い掛けた。
(悪いことは重なるなぁ……)
本意ではない接触。煩わしい勧誘。己に関する嫌な噂。
せめてこれ以上嫌なことが重ならないことを祈りながら、椿は重い身体を引きずるように足を動かした。