歴史修正主義者になりたくない
物を食べ始めると同時に毒の味を知った。算数を習うより先に呪術の勉強を始めた。性を知る前に子の成し方を学んだ。そんな世界で、五条悟という子供は生きてきた。
「坊ちゃん」
勉強が嫌になって、家庭教師を置いて部屋を飛び出した悟は広大な庭の片隅にいた。
屋敷内では悟の捜索が行われている。けれど、見つかりたくない悟はどんなに大声を張り上げられても出て行くつもりはない。
大きな庭木に登り、右往左往する住人達を下ろして、悟はご満悦と言った表で笑う。
さて、これからどうしようかと思案に耽っていたとき、木の下から声が掛かった。
耳に馴染む、澄んだ声だった。
「あん?」
下を見ると、そこには荷物を抱えた中性的な子供がいた。歳の頃は悟と同じくらいだろう。服装を見るに、召使いの立場の者だと分かる。
見かけた事があるような、ないような。おそらく、話したのはこれが初めてだ。
連れ戻しに来たのだろうか。上から下まで大騒ぎしている様子からして、他の仕事を置いてでも探すように言われているのかもしれない。悟の眉間に皺が寄る。
「…………戻らねぇからな」
悟が低い声でそう呟くと、子供はきょとんとした顔で首を傾げた。
「何のことでしょう。私は坊ちゃんをお見掛けしたから、お声掛けしただけです」
「…………あんだけ大騒ぎしてる連中を見て、それ言ってる?」
「何があったんでしょうね。大きな蜂でも迷い込んだんでしょうか」
しれっとした態度でそう言ってのけ、悟が腰掛けている庭木に手を掛ける。するすると身軽な動きで木を登り、悟の座る枝の一本下に座った。
「どうぞ」
抱えていた包みから湯気のたつ饅頭を差し出される。
毒でも入っているのだろうか、と思案して受け取るのを躊躇った。すると子供は手を引っ込めて、饅頭を半分に千切った。
片方を差し出しつつ、残りを口に入れる。あたたかい饅頭はほんのりと甘い香りがして、ひどく美味しそうだった。
ごくりと喉が鳴り、思わず饅頭を受け取る。
「熱いので、火傷に注意して下さいね」
「分かってるっつーの!」
子供がふぅ、と息を吹き掛けるのを真似して、熱い湯気を追い払うように息を吹く。少し冷めただろうかと、小さく齧り付くと、まだ少し熱かった。けれど、熱さなんて忘れるくらいに美味しかった。
悟は出来立ての料理を食べる機会がほとんど無かった。いつも毒見が終わってから運ばれるから、出来立てだった料理も、その頃にはすっかり冷め切っているのだ。
甘くて、あたたかくて、胸がじんわりと熱くなる。なんて美味しいんだろう、と悟は感動で目を輝かせた。
「ふふ、」
一本下の木に座る子供が微かに笑う。ムッとして見下ろすと、先程までの澄ました顔から一変、子供は無邪気な笑みを浮かべていた。
「美味しい?」
楽しげに笑う顔に、どきりと胸が高鳴る。それが何だかひどく恥ずかしくて、そっぽを向いて、ぶっきらぼうに呟く。
「ま、まぁまぁかな」
「そうですか。悪くないなら良かったです」
もう一個ありますよ、と次は丸ごと一つ差し出され、今度は迷わず受け取った。
けれど、全部食べてしまうのは違う気がして、半分に千切る。残りを子供に差し出すと、子供はきょとんと目を瞬かせた。
けれど、すぐに意図を察した子供は笑顔になって、差し出された饅頭を受け取った。
「ありがとう」
美味しいと笑う顔に、自分の判断は間違いではなかったと、悟はほっとした。
それは悟がした初めて他人を気遣う行動であったが、それは誰にも知られることはなかった。
悟も自分の饅頭を食べながら、斜め下の子供を見下ろす。そんな悟は「次は隣に座って食べたいな」と年相応の願いを抱いていた。
***
あの日の子供が清庭椿という名前の少女であることは、案外すぐに分かった。悟の乳母や女中達の覚えめでたい子供だったからだ。
曰く、物静かな少女でどんな仕事も愚痴一つ溢さずこなすのだとか。曰く、謙虚で気配りが出来る子供だとか。曰く、大人びた印象を受けるが笑顔がかわいらしいだとか。
(ふぅん……。まぁ確かに、配慮とか上手かったよな)
戻りたくないという悟の心中を慮って、見て見ぬ振りをしてくれたり。饅頭を受け取るのを渋った理由をすぐに察して、危険がない事を証明したり。何にせよ、自分の興味関心を引いた少女の評価が良いのは鼻が高い。
けれど、彼女の笑顔が自分以外に向けられるのは、何となくだが面白くないのもまた事実だった。もやもやするな、と胸の辺りを撫でながら首を傾げる。すると、椿の情報をくれた女中が不安げな表情を浮かべた。
「坊ちゃん」
「なに?」
「あの子と何かありましたの? あの子が何か粗相でも?」
「別に。いい仕事してたから、褒めてやろうと思って」
「まぁ」
悟の素っ気ない言葉に、初老の女中は嬉しそうな笑みを浮かべた。
「あの子は控えめな子ですから、努力が見えにくいのです。そんなあの子の頑張りに気付かれるなんて、坊ちゃんは素晴らしい慧眼を持っておられますのね」
この家の人間は悟を大袈裟なくらいに褒めそやす。少しならば良いけれど、女中連中はいっそ鬱陶しいくらいに言葉を並べる。五条家が待ち望んでいた術式を持って生まれた悟は、過剰なくらいの期待が寄せられているのだ。そしてそれに応える事ができるだけの才能と実力が彼にはあった。
慧眼から始まって、このあとは術式や呪術師としての才能、最後は存在そのものまで讃え始めるのだ。それがいつもの流れである。
長くなる事が分かり切っている悟は、所用があることを告げ、さっさとその場から逃げ出したのだった。