審神者と呪いの世界
家入硝子はドスドスと不機嫌を示すような足音に眉を寄せた。
ガラリ、と無遠慮に開いた医務室のドアから覗く顔は予想と違わず、肩を竦めて溜息を付いた。
「硝子〜〜〜! この子治して〜〜〜!」
「…………あ゛?」
いつもの愚痴だと思っていた硝子は、同期の男―――――五条悟の腕の中にいる小さな存在に、手に持っていたマグカップを落としかけた。
ここを経つ前に、実家に行かなければならないことを愚痴愚痴と溢していたから、帰って来てからもきっと、ありったけの罵倒を聞かされることになるだろうと考えていたのだ。
しかし、これは想定外だった。まさか、まだ年端もいかない子供を連れ帰ってくるとは。
「………………どこから攫ってきた?」
「五条家」
「………………クソだな」
さっと診ただけでも打撲、擦り傷、切り傷、刺し傷がある。枝のような腕は紫色に変色しており、骨が折れているのが見て取れた。顔も腫れ上がっており、元の顔が分からない。
ベッドに寝かせるように言って、硝子はすぐに反転術式を施した。治していくと、目に見える傷だけではない事がありありと分かり、胸糞が悪くなる。特に、口から胃にかけてが酷い損傷を訴えている。
「……………こりゃ毒かなんか飲まされてるな……」
硝子の呟きに、治療の様子を見守っていた悟が拳を握り締まる。前々から腐っていると思っていたが、ここまで堕ちているとは。見せしめに何人か殺しておくべきだったかな、と不穏な考えが脳裏を過ぎる。
「………ぅ、…………?」
幼子が、意識を浮上させる。綺麗になった顔が、夢現つのぼうっとした表情で硝子を見上げた。そして、意識が覚醒すると、ザッと顔色が変わる。咄嗟に頭を両手で隠して、身体を精一杯小さく丸めた。
その行動に硝子は額を抑えて天を仰ぎ、悟は鋭く舌打ちした。二人の口から五条家への罵倒が溢れそうになって、咄嗟に耐える。その行動の意味が分からない二人ではない。防御姿勢に入った子供の前で罵詈雑言を溢したら、子供により深い傷が付く。
「…………ぁ、え……?」
幼子が、恐る恐る顔を上げた。自分の腕を見て、怪我が無くなっている事に驚いているようだった。
そろそろと、幼女が伺うように硝子を見上げる。硝子が一歩後ろに下がったことで、敵意が無いと思って貰えたのか、幼女が硝子達を向き直った。
「痛いところはない?」
硝子の問いに、幼子はふるりと首を振った。
怪我が完全に治った事にほっとしつつ、出来るだけ身体を小さく見せようと屈み込んだ。
「初めまして、私は家入硝子。君の名前、教えてくれるかな?」
「………椿、です」
警戒心の混じった、硬い声だった。視線も落ち着きなく、すぐに対処出来る様に観察しているのがよく分かる。
「はいはーい! 僕は五条悟! 君のパパだよ」
硝子と椿の瞳が、同時に見開かれる。
「引き取るつもりなのか?」
「うん。だって僕の子だし」
「……………………は?」
「多分、どっかで採取されたんだろうね。僕の知らない奴が、勝手に産んだみたい。はぁ〜〜〜、きっしょ」
「…………やっぱ終わってんな、呪術界」
「一応、鑑定してよ。まぁ、六眼は僕の子だって言ってるけど」
なら必要ないだろ、とは思ったものの、事実として分かりやすく残した方がいいだろう。六眼のない人間には、その目がどのように世界を映しているのか理解出来ないのだから。
「……………………お、とう、さん………?」
困惑し切った、震えた声が耳朶を打つ。見れば、椿が訳が分からないと言う顔で悟を見つめていた。
悟が椿のそばに歩み寄り、椿の前にしゃがみ込む。包帯を取って、その顔を見せて、椿に向かって笑いかけた。
「そうだよ、僕がパパ」
お迎えが遅くなってごめんね。
そう言って、悟が眉を下げる。そんな悟の様子を見てか、くしゃりと椿の顔が歪んだ。
「…………………ぁ、の……」
言いたいことが見つからないのかもしれない。言いたいことが多過ぎて、何から言えばいいのか分からないのかもしれない。幼過ぎて、どうしていいのか分からないのかもしれない。
椿の逡巡が見て取れる。けれど、大人達はそれをどうすることも出来ない。ただひたすらに、子供の言葉を待った。
「あ、の」
「うん、なぁに?」
「…………た、助けてくれて、ありがとう」
絞り出すような声だった。発せられた言葉に驚いた。
彼女がたくさんの言葉を飲み込んだのは見て取れていた。その末に出た言葉がこれなのかと、二人は息を呑む。
さらに驚いたのは、その瞳だ。感謝を告げる子供の目に、嫌悪や憎悪の色が無い。悲しみも怒りもなく、ただ本当に、心からの礼を述べていた。
「でも……。本当に、お父さんなんですか……?」
ここでようやく、不安と疑念の色が乗る。口よりも雄弁に、その大きな瞳が子供の心情を語っていた。
驚きのあまり呆然としていた二人が、ハッと我に返る。
「そうだよ。って言っても、信じられないよね。僕達は今日が初対面だし」
「…………うん」
「今はそれで良いよ。もう少し寝てな。それともお腹空いてる?」
「ね、寝たい、です」
「オッケー。んじゃ、おやすみー」
悟がそっと小さな身体を横たえる。触れる瞬間は身体を強ばらせたが、特に抵抗する事なく悟の手を受け入れた。
布団を掛け、ポンポンとお腹の辺りを優しい叩く。戸惑ったような顔で悟を見上げていた子供だが、しばらくすると眠気に勝てなかったのか、深い眠りに落ちていった。
夢の中に旅立ったのを見届けて、悟が立ち上がる。
「じゃあ、僕は調べ物があるから。椿が起きたら連絡して」
「この子の記録? 残ってんの?」
「残ってないわけないでしょ。母親の家は、五条と繋がりを持ちたいんだから」
「それもそうか」
隠していた怒気を露わにし、悟が医務室を後にした。残された硝子は肩を竦め、穏やかとは言えない顔で眠る椿の髪をそっと撫でた。