審神者と呪いの世界
「今日はかわいいお客さんをお迎えしての授業になりまーす! 拍手でお迎えしようね!」
担任の五条悟の言葉に、生徒の一人である釘崎野薔薇はげんなりとした表情を浮かべた。まだ呪術高専に入学して間も無く、悟との付き合いもあまりないが、それでも彼のいい加減さは十分に把握している。そんな彼の知り合いらしいお客さんも、きっと一癖も二癖もある人物なのだろうと当たりを付け、気が重くなったのだ。
「先生! かわいいお客さんって?」
「よくぞ聞いてくれたね、悠仁! 今日来てくれたお客さんは世界一かわいい女の子だよ!」
「おお、女の子!」
同級生の虎杖悠仁への返答に「お前のツレかよ」と野薔薇は更に苛立ちを募らせる。野薔薇の予想が当たっているのなら、職場に連れてくるような類の人物ではないはずだ。
額を抑え、ため息をつく。そのとき、もう一人の同級生である伏黒恵が、ソワソワと落ち着かない様子をしている事に気が付いた。
「何、あんた知ってるの?」
「ああ、まぁな」
普段クールぶってる恵が喜色を滲ませている。そんなに美人なのね、と野薔薇が小さく舌を打った。
その時、コンコンと、控えめなノックが響いた。
「ああ、ごめんね〜! もう入ってきていいよ!」
悟の言葉に、そろそろと教室のドアが開く。ひょこ、と控えめに覗いた顔の位置は驚くほど低い。
予想と違った人物像に、野薔薇が「えっ」と驚きの声を上げる。
「えっと、失礼します」
ぺこ、と丁寧にお辞儀をして、小さな身体が教室に入ってくる。
ドアを閉め、屈んで両手を広げていた悟の元に駆けていく。腕の中に飛び込んで、きゅ、と首に手を回す。その小さな命を確かに受け止めて、悟がしっかりと抱えて立ち上がった。
「はい、こちらが今日来てくれた世界一かわいいお客さんだよ〜! さ、挨拶してくれるかな?」
「えっと、五条椿です。初めまして」
悠仁と野薔薇があんぐりと口を開けたまま呆然とし、一人事情を把握していた恵だけが頬を緩ませてひらひらと小さな女の子に手を振っている。幼女もそんな恵に手を振りかえし、控えめに微笑んでいた。
「え、え、五条って、先生と同じ苗字じゃん?」
「え、うそ、まさかあんたの……」
「そう、僕の娘だよ」
かわいいでしょ、と娘に頬を寄せる教師に、悠仁と野薔薇が顔を見合わせる。それから二人は揃って恵に目を向け、彼がこくりと頷いたのを見て、それが事実であることをようやく飲み込んだ。
「「先生、結婚してたの!!?」」
「いや、してないよ」
「「はっ???」」
「教育に悪いからそれは椿の居ないとこで話すね。でも、この子は正真正銘、僕の娘だよ」
ねー、とデレデレの脂下がった顔で椿に頬を寄せる悟を見て、二人はもう一度恵に顔を向けた。恵は死んだ目で遠くを見つめ、そっと顔を逸らす。その一連の動作に嫌な予感のした二人は口から出掛かっていた疑問を飲み込んだ。
「最近あんまり一緒に居られなかったから、連れて来ちゃった」
「あー、そう言えば先生、出張多いもんね」
「その子いくつなの? 保育園とかあるじゃない」
「5歳だよ。保育園は誘拐とか暗殺の危険性があるから無理かなー」
そう言えばこの人、凄い人なんだった。
悠仁と野薔薇は今更ながらに御三家だとか特級だとかの諸々を思い出していた。普段が適当過ぎるので、ついついその事実を忘れてしまいがちなのだ。
「それより二人とも、自己紹介してあげて」
「あ、そうだった。虎杖悠仁です! よろしくね、椿ちゃん!」
「釘崎野薔薇よ。よろしく」
「よろしくお願いします」
椿はまろい笑みを浮かべ、ひらひらと二人に手を振った。小さな掌がかわいくて、二人の頬も緩む。
「もう一人も、よろしくお願いします」
「えっ………?」
悠仁に向かって、椿がもう一度笑いかける。その意味を理解した瞬間、嫌な汗が背筋を伝った。
見えている。自分の中にいる邪悪な存在が、彼女の目には確かに映っているのだ。
「あー、そいつには挨拶しなくていいから。椿の教育には悪いしね」
「う?」
そいつにかわいい顔しちゃダメー、と椿と正面から顔を合わせ、こつりと額を合わせる。
悠仁は自分の中の存在が、この小さな子供に興味を示さなかったことに心底安堵した。穢れを知らない幼子に会わせたくなかったのと、悟の溺愛ぶりからして、何を言われても血の海が広がることはほぼ確定していたからだ。
「さ、そんなことよりお勉強の時間ですよー! 今日は椿のお席も用意したからねー」
「あい」
そう言って悟は一旦廊下に出て、小さな幼児用の机と椅子を持って入ってくる。それを一番窓際の席に置いて、椿を座らせる。自分達の机の半分にも満たない小さな机にちょこんと収まった幼女がかわいくて、悠仁達の口から「んぐぅ」と詰まったような声が漏れた。悟がそれに「分かる」と一言だけ呟いて深く頷く。そして悟は椿の前にしゃがみ込んだ。
「椿はこれ解いててねー。分かんないとこあったらこうやって手挙げてね」
「はぁい」
「そうそう、上手だねー」
机の上に並べられたのは算数ドリルだ。自分達が数学の時間だから、それに合わせたのだろう。
悟の真似をして挙げられた手がかわいくて、野薔薇が机に突っ伏した。
「はぁい、野薔薇。気持ちは分かるけど顔上げようねー」
「分かってるわよ……!」
顔を上げて、意識を切り替える。
公式をノートに書き写し、問題を解いていく。恵は特に詰まることなく、野薔薇は一瞬考える素振りを見せたが、すぐに答えを導き出した。悠仁はうまく計算が合わないのか、何度か書いたり消したりを繰り返し、ようやく納得のいく答えを出したようだった。
そろそろ良いかな、と声を掛けようとしたとき、一番端で小さな手が挙がった。
「はぁい」
「んー? なぁに、椿」
椿が示したのは文章問題の一つだった。単純な計算問題から進めていき、最後に文章問題が出される方式のドリル。もうここまで進めたのかと一瞬驚いたものの、自分の娘が賢いのは鼻が高い。
さて、そんな娘の疑問は何だろう、とドリルを覗き込む。
「これ、わけっこしちゃダメなの?」
「………椿はいい子だからわけっこしてあげたいんだね。でも、この子たちはダメーって言われたのかもね。わけっこするのに包丁使うでしょ? でも包丁は、小さい子には危ないでしょ?」
「そっかぁ」
しょんぼりと眉を下げる様子がいじらしくて、悠仁が机に突っ伏した。一瞬セルフで無量空処仕掛けた悟はまた「分かる」と深く頷いた。語彙もかわいいし、わけっこという発想が出てくるところもかわいい。かわいさの情報量が多過ぎて情報が完結しないのは良くあることだった。
「他にはない?」
「大丈夫。ありがとう、お父さん」
「どういたしまして。さて、お兄さん達は解けたかな〜?」
悟が教壇に戻り、答え合わせをしていく。危うそうだった悠仁も正解しており、よし、と小さく拳を握っていた。
「よく出来ましたー」と悟が誉めると、それに合わせて小さな手がパチパチと拍手を贈る。
恵が掌で顔を覆い、落ち着かせるように深く息を吐いた。そのとき、丁度チャイムが鳴り、授業が終わる。
「今日はここまで。次は現代文だよー」
使っていた教科書を片付けて、悟が椿の元へ近寄ると、椿も片付けを終えて悟の元に駆け寄った。
「静かに出来て偉かったねー。ドリルもいっぱい解けたね。帰ったら答え合わせしてあげる」
「うん。次は何すれば良いの?」
「次はね、持ってきた絵本を読んで、思った事を書いて見せてほしいな」
「はぁい」
「お父さんは次の授業の準備があるから、恵達と待っててくれる?」
「うん」
椿は父親に褒められて嬉しかったのか、花が咲いたような笑みを浮かべている。わしゃわしゃと髪を撫でて恵の方へ促すと、椿は素直に恵に駆け寄った。
椿を妹分としてかわいがっている恵は、自分の元に駆け寄ってきた小さな身体をそっと抱きしめ、優しく髪を撫でている。それを見届けて、悟は次の授業の教材を取りに準備室へ向かった。
「椿ちゃん、小さいのに偉いなー。俺がこんくらいのときとか、走り回ってた記憶しかないよ」
「あんたは想像通りね。てか、本当に大人しいわね。先生の子って言われたら、騒がしいイメージしかないし」
「基本的にふざけた人だからな。そういう部分は全部あの人が引き受けたんだろ。……椿が大人しいのは、まぁ色々事情もあると思うけどな」
柔らかい頬を撫でると、くすぐったいのか、くふくふと笑いを堪える幼子に癒される。
恵が出会った当初の椿は、今よりもずっと大人しくて、まるで人形に成ろうとしているようにすら見えたものだ。
元から大人しい性格だったのかもしれない。けれど、仮にそうだったのだとしても、活発に動き回る年頃とは思えない感情の乏しさだったのだ。それまでの劣悪な環境が椿をそうさせていたのだろう。それを考えれば激しい怒りに襲われるが、今の椿はこうして笑っている。少しずつ、子供らしさを取り戻しているのは良いことだ。随分と明るい表情をするようになった妹分に、恵の顔も自然と綻んだ。
「ね、ねぇ。私もほっぺた触っていいかしら? ちょっと気になってたのよ」
「あっ! 俺も触りたい! 椿ちゃん、いい?」
「うん、いいよ」
もにもにむにむに、と大きな手で頬を挟まれ、椿は人懐っこい笑みを浮かべた。見ている周囲の人間まで、ついつい咲み崩れてしまうような愛らしい笑顔だった。
「や、やわ〜! おもち、おもちじゃん〜!」
「やば……。つるすべもちもち……。もはや嫉妬すら感じないレベルなんだけど……」
教材を手に、教室に戻ってきた悟が、楽しげに笑う子供達に頬を緩ませる。チャイムが鳴ったことにも気付かずにはしゃぐ子供達をもう少し堪能したくて、悟はわざと遅刻したフリをした。
ちなみに、椿のお昼寝のタイミングで彼女が産まれた詳しい経緯を聞いた二人は、呪術界の闇深さにドン引きしたのだった。