初恋フィルター
清庭椿は、五条悟という他校の同級生について考えていた。
五条悟というのは椿が中学一年生のときに偶然出会った少年で、体調不良を起こしていた彼を介抱した事をきっかけに知り合ったのだ。
けれど、その後に彼と親しくなったということはない。何の関わりも生まれず、名前すら知らないままに時が過ぎ、そのときの記憶すら風化していた頃、彼と再会したのだ。
再会したのは東京での事である。親の都合で引っ越して、その土地で過ごしていたら、彼の方から声を掛けてきたのだ。そこから交流が始まって、彼とその同級生達と親しくしているのである。
けれど、交流を重ねていくうちに、違和感を感じるようになったのだ。
―――――どうやらこの青年は、椿に懸想しているようだった。
何故、彼に懸想されていると思い至ったのか。それは酷く単純な事だった。彼が、椿への好意を隠せていないのである。
一挙手一投足を追い掛ける空色の瞳。視線が合えば、りんごもかくやという顔色で不自然に逸らされる顔。手が触れ合おうものなら、石のように硬直する身体。
他の人間と楽しげにしていれば、憎々しげに相手を睨み付けて。笑顔を向ければ、これ以上ないことだと言わんばかりに咲み崩れて。
そんな態度を取られれば、自ずと答えは見えてくる。椿は、そこまで鈍い人間ではないのだ。特に、自分へ向けられる好意と、大切なものに向けられる悪意に対しては。
(でも、何故彼は私を好きになったのだろう………)
喜ばしい事ではあるのだ。椿のような人間が人に好かれるのは、酷く難しい。好かれることより、遠巻きにされることの方がずっとずっと多いのだ。蛇蝎のごとく嫌われることだって少なくはない。
だから、好意を寄せられるのは嬉しい。それがどれほど幸せなことであるかを知っている。
けれど、椿は恋を知らない。恋を知る前に愛を知ってしまったのだ。魂を差し出すのも厭わない程の、苛烈な愛を。
だから、椿はきっと、悟の恋に応えられない。彼と同じ気持ちを持つ事が難しいから。
そんな自分を、どうして彼は選んでしまったのだろう。彼ほどの美しさを持つ生き物ならば、きっと相手には困らないのに。
(というかそもそも、私と彼に、想いを芽生えさせるほどの関わりが無いと思うんだが………)
彼との交流は、そこまで多くない。むしろ、彼を介して知り合った者達の方が、ずっと親しくしている。
もちろん、少ない関わりの中で生まれる感情というものはあるだろう。しかし、果たして恋に至るほどの強い感情が生まれるものなのだろうか。
(実はもっと前から出会っていた、ということはないよな………。あの美貌だ、忘れるわけもない)
悟は優れた容姿をしている。淡い色彩は人間離れした美しさをしていて、その美貌は人ならざる者を想起させるほどだった。椿の大切なもの達を連想してしまうような、神様のような姿をしているのだ。
対して、椿の容姿は一般の域を出ない。整っている方ではあるけれど、集団の中に埋もれてしまう程度だ。誰もが振り返るような美人でもなければ、奇跡と称させるような可憐さは無い。椿より美しい人なんてそこら中に溢れかえっていて、何なら悟の友人達の方がずっと目を惹く容姿をしている。
必ずしも容姿で人を好きになる訳では無いだろうけれど、周囲の美しい人達を押し退けて、自分を選んだ理由は一体何なのか。
(…………やっぱり、私の勘違いかもしれないな)
改めて彼の周囲の人間を思い浮かべて、椿は一連の思考をばっさりと否定した。
彼の一番近しい人物である夏油傑。物腰柔らかな青年で、悟とは親友と呼び合う間柄だ。
何度か話したときに受けた印象は、気配り上手で、心優しい人間というものだった。
その上、見目も麗しい。
きっと、彼はたくさんの人に愛されてきたのだろうと感じさせる人物だった。
次に近しいのは家入硝子という少女だろう。小柄で細身、かわいらしい顔立ちで、同性から見ても守ってあげたくなるような少女だ。
性格は見た目に反してクールで、さっぱりとした気質が心地いい。
しかし、かわいらしいイタズラを企んだり、茶目っ気を見せることもある。
他にも、歌姫という硝子と仲の良い先輩が居るらしい。硝子曰く、なかなかの美人だという話だ。
身近にこれだけ美人が多いのだから、きっと彼が目を向けているのは彼女達だろう。容姿も平凡で、特に性格が良いとは言えない自分を好むとは思えなかった。
きっと、彼はちょっとしたことで赤面してしまう体質なのだろう。
そう結論付けて、椿はこの思考を終わらせた。
***
「……………これは、どう判断したものかな」
悟達の通う学校は、特殊なカリキュラムが多いらしい。課外授業などで学外に出る事が多く、研修で数日県外に赴く事もあるのだという。
椿の手には、研修で京都に行った悟からのお土産が握られている。
彼から贈られた品は、椿の模様が彫られたつげ櫛である。それも、高級品とされている薩摩つげを使ったものだ。
櫛を入れるケースまで付いており、こちらは絹が使われていた。鮮やかな緋色に白い椿の刺繍が施されている。
どう見ても、値打ちものである。同級生のお土産にぽんと渡すようなものではない。
(いや、彼は名家の出身のようであるし、金銭感覚が異なっているのかもしれない)
悟はふとした仕草に気品がある。そのように躾けられた者の、堂に入った動きだ。
その上、初対面のときに彼が呼んだ迎えの車は、いかにもと言った具合の黒塗りの高級車だった。
(いやしかし、櫛かぁ………)
櫛を贈るのは、苦労や苦しみ、死を連想させることから、あまり良いものではないとされている。一方で、江戸時代にはプロポーズの際に櫛を贈る習慣もあったという。
自分に懸想しているかもしれない相手が、櫛を贈ってきた。相手は名家の出身で、その意味を知っていそうな相手である。それを踏まえて、これは、どう捉えるべきなのだろうか。
(………………申し訳ないけれど、彼から何かしらのアクションがあるまで、何も気付かなかったことにしよう)
問題の先送りでしかないことは分かっていた。
しかし、恋をしたことのない椿には、どうするのが正解なのか分からなかったのだ。
椿はひとまずつげ櫛を有り難く受け取って、今度良い品をお返しとして渡そうと心に決めた。