初恋フィルター






 五条悟は清庭椿という少女について考えていた。椿をそんな対象として見たことなどないのに、同級生達に己の“初恋相手”と認識されているからだ。

 悟から見る椿という人間は、“どこにでもいる善人”だった。
 何の打算もなく人を助けることの出来るお人好し。何の利益もない行動を、自分の善性に従って行える人間だった。地球は青いというように、それが真理だと言わんばかりに。
 誰かのために柔らかい笑みを浮かべ、惜しげもなく献身を差し出す。胸が苦しくなるほどの情を傾けて、あたたかなものを育んでくれるのだ。

 けれど、その“どこにでもある善性”が、悟の目には何よりも美しく映ったのだ。
 悟にとって彼女は、世界の美しいものを集めて、人の形に作り上げたようなものなのだ。

 もちろん悟とて、実際にそうであると信じているわけではない。椿とて誰かを呪うことはあるだろう。その結果、悍ましいものを産み落としてしまうこともあるだろう。それはきちんと理解している。
 けれど、それでも尚、悟は椿の心根を美しいものだと信じているのだ。

 椿の清廉な在り方は、彼女の心を直接注がれた者にしか分からないだろう。
 誰にも理解されなくていい。理解して貰うつもりもない。それを共有するつもりもないのだから。自分だけで抱えていきたいのだから。
 けれど。


(俺はあの子をそんな風に見てねぇっつーの!)


 同級生である夏油傑や家入硝子は勘違いしている。美しいあの子を、悟の「初恋の女の子」であると。
 悟自身は、そんな風に思っていないのだ。悟は椿を、自分にとって特別な少女だとは思っている。けれどそれは、椿の持つ平凡な善良さが失われて欲しくないからだ。自分に“守りたい”というあたたかな感情を芽生えさせた優しさを、穢されたくないからだ。
 「好き」という大きな枠組みから見れば、間違ってはいないのだ。けれど、それはあくまで人間性を見てのもの。その人柄を好ましく思う「好き」であって、意中の相手に向ける「好き」ではない。


(俺は別に、あの子をこ、恋人にしたいとか、そんな風になんて全然! これっぽっちも! 考えてねぇし!!!)


 名前を知りたかった。その全てを知りたかった。けれど、それをすれば彼女が害される可能性があった。
 自分が関わらないことで彼女を守れるならば、それで良かった。彼女の綺麗な心根が、誰かによって踏み荒らされないのなら。


(っていうか、あの子と恋人になったら、て、手を繋いだり、ちゅ、ちゅーとか? そ、そういうこともするんだろ? そ、それってどうなんだ?)


 彼女の長身に見合った、女の子にしては大きな手を握る想像をしてみる。彼女の手の感触なんて殆ど知らないけれど、ひたすらに優しい触れ方をされたことだけは覚えている。
 きっと、恋人になって手を繋ぐことになっても、そういう風に、優しく包むように触れてくるのだろう。
 そんな想像をすると、胸が高鳴って、手に汗が滲む。顔が熱くなって、脳がショートしてしまいそうだった。
 その先なんて、とてもではないが考えられなかった。


(あ゛―――――!!! 何考えてんだ、俺!!! 疲れてんだな!! 寝よ!!!!!)


 頭を掻き毟り、乱れた髪のまま、ベッドに潜り込む。こんな状態ではなかなか寝付けないだろうと思っていたけれど、身体は休息を求めていたのか、思ったよりもあっさりと、悟は夢の世界に落ちていった。



***



 その日、悟は夢を見た。大切な女の子と、日の当たる場所で、同じ学校に通う夢だ。
 同じクラスで、前後の席に座って、振り向けばあの子が笑っている。窓から入ってくる風に吹かれる黒髪が、日の光を浴びて、天使の輪を描いていた。
 それは言葉を失うほどに美しい光景だった。ふわりと広がったカーテンの中で、淡い光に包まれた彼女。白い頬が黄金色の光に溶けて、彼女そのものが輝いているようだった。

 至高の芸術のような光景に、悟がそっと手を伸ばす。頬に触れると、椿は悟の一番好きな、花のような微笑みを浮かべた。
 いつまでも見つめていたくなるほどに、完成された世界だった。

 吸い寄せられるように、悟は彼女に額を寄せた。そうすると、睫毛が重なるほど、二人の距離が近くなった。オニキスの瞳に、自分の空色が溶け込んでいる。星空のような色合いが美しい。
 悟が、ほんの少し首を傾ける。唇に、柔らかい感触が触れた気がした。










 ―――――と言うところで、目が覚めた。
 美しい光景は、脳にこびりついている。普段なら夢なんてすぐに忘れるようなものなのに。まるで忘れたくないと言わんばかりに、その優秀な脳は夢を記憶として刻み込んでいた。


「………………………………………何してんだよ、俺ぇ……………」


 ―――――あの子になんてことを。
 そんなつもりなんてなかったのに。ただあの子が、美しい心根のまま笑ってくれていたなら、それで良かったのに。
 だというのに、頬に触れて、彼女に口付けて。それを幸福なことだと心の底から喜んでしまった。その至上の喜びが夢であると分かって、どうしようもないほどに絶望してしまったのだ。


「…………………………そんなんさぁ………」


 ―――――俺、あの子のことめちゃくちゃ好きじゃん。
 ようやく自分の想いを自覚した悟は、自分のあまりの馬鹿さ加減にベッドに突っ伏した。




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