かつて審神者だった少女
春の柔らかな陽の光が輝きを増した6月のことである。
夏の訪れを報せる陽気の中、少女―――――清庭椿は宮城県にある杉沢第三高校の敷地内を歩いていた。
彼女が目指しているのは百葉箱。
百葉箱とは気象観測のための観測機を保護するための装置である。
何故そんなものに用があるのか。それはその箱の中身にあった。
「やぁ、宿儺。今日は良い天気だな」
少女が百葉箱、否、その上に座る四本腕の異形に笑顔を向けた。
宿儺と呼ばれた異形は椿の顔を見るや否や、はぁぁぁと盛大な溜息をついた。
「相も変わらず気安い小娘だな、貴様は」
「そりゃあまぁ、二年以上の付き合いになるしな」
彼女らの交流が始まったのは、椿がこの学校に入学してすぐのことだ。
入学してすぐに行われた委員会決めで美化委員会に所属することとなった椿は、委員会の仕事で校内清掃を行うこととなったのだ。そのときに割り振られたのが百葉箱の置かれたこの場所で、担当場所に訪れたときも今日と同じように宿儺は百葉箱の上で足を組んでいた。
生まれたときから人とは違う視界を持っていた椿は、その見た目の奇怪さも相俟って、彼が妖のような存在であるとすぐに分かった。そしてその異形が、今まで見てきたどの妖よりも悍ましい存在であることも。
(百葉箱に座っている………。百葉箱の付喪神か?)
けれど椿は、その邪悪さを物ともしなかった。彼のような存在を、彼女は散々見てきたからである。
椿には前世の記憶というものがあった。審神者という職に就き、刀剣男士という付喪神を励起させ、彼らを率いて戦争をしていたという記憶が。
その時に相対していた敵―――――遡行軍と呼ばれる者達が異形の姿をしており、その禍々しさは宿儺と通ずるものがあった。
故に腕が何本あろうが、血を思わせるような紅い目がいくつあろうが、椿にとっては懸念の一つにもなりはしないのである。
さて、その姿を見て椿がまず思ったのは「この学校の百葉箱は100年の歴史があるのか」という事だった。前世の職もあってか、椿には付喪神が見えていたからである。
前世のときから才能のある人間ではなかったし、霊感のようなものは持ち合わせていなかったから、付喪神以外の物を見掛けたことはない故に、椿はその異形を付喪神だと判断した。
そして付喪神らしくないな、という感想を抱いたのである。
付喪神とは、長い年月を経た道具に神や精霊が宿ったものである。彼らは人が道具を大切に想う心から産まれる。そのため見目が人に寄ることが多い。また、人の美しい心を写し取って形を取るため、見目麗しいことが殆どだ。
けれど、百葉箱の上に座る男は違った。精悍な顔つきは漢らしくて目を引くが、四本腕に複数の目を持つ彼は、まさに異形―――――怪物と呼ぶにふさわしい。
(いや、見た目で判断するものではないよな。まぁ、あまり良い存在のようには感じられないが)
声を掛けても問題ないかどうかを思案していた椿の目の前に、白い布が翻った。異形が、目の前に降り立ったのである。
尋常ならざる速さを披露された椿は「おお」と感嘆の声を上げた。思ったよりも大きな体を持つ男の顔を見上げる。
『これはお前の術式か?』
巨体が、椿を見下ろして声を掛けた。向こうがこちらに興味を持ったことに高揚するが、聞かれた内容が分からない。
『すまない。じゅつしき、というものが分からない』
それはどんなものか、と聞こうとしたとき、男はすでに椿に興味を無くしているようだった。まるで路肩の石を見るような冷たい目をしていたから、それが分かった。
『そうか………。では、死ね』
そう言って、男は拳を振り上げた。
椿は自分に向かって振り下ろされる拳を見つめていた。それは目を閉じる暇も無かったとか、避けることも出来なかったとか、そういうことではない。わざわざ動く必要が無いことを知っていたからである。
『………………あ?』
男は、椿をすり抜けた自分の腕を、不快そうに睨み付けていた。
(彼は顕現してから日が浅いのか?)
付喪神は基本的に、人に触れることが出来ない。もしかしたら触れることが出来るものもいるのかも知れないが、あいにくと椿はそういった者に会ったことはない。
気に入らないとばかりにギリギリと歯を食いしばる男に、椿がうっすらと苦笑する。
『委員会の仕事でここら辺の掃除を任されているんだ。百葉箱の掃除もさせて貰っても良いかな?』
『………………チッ。勝手にしろ』
これが二人の出会いである。
その後も度々椿は宿儺の元を訪れ、宿儺に盛大に呆れられることになる。自身を殺そうとした相手に懐く稀代の阿呆、とは宿儺の談である。
また、百葉箱を掃除していたときに発見した木箱の中身が宿儺の本体であると知り、「百葉箱の付喪神じゃなかったのか」と呟いて、宿儺を絶句させるという偉業を成していたりもする。
閑話休題。
「今日はちらし寿司を作ってきたんだ。他にも、里芋の煮っ転がしとか、色々」
この日は昼休みを利用して、椿は宿儺の元へ足を運んでいた。手には二人分の弁当箱が携えられている。
出会った当初はまったくものに触れることが出来なかったが、この二年と少しでわずかながらに変化があった。ほんの数分程度であるが、触れ合うことが可能となったのである。
前世の記憶にある付喪神は皆、受肉を果たしていた。そのため人やものに触れることを可能であった。
人のように振る舞うことを楽しむものも多く、椿と共に戦場を駆け抜けた刀剣男士達は特に食事を好んでいた。
その記憶から宿儺にも食事をさせてみようと思い立って、お弁当を作ってくるようになったのである。
受肉していない状態で食事を取ることが可能かどうかは分からなかったが、結果としてお弁当を食べることに成功した。
そしてこれは食事をするようになってから判明したことであるが、彼は思いのほか美食への探求が強い。また、繊細な味付けを好む肥えた舌を持っていた。
元々好んで料理を作る椿のお弁当は、宿儺曰く及第点。炊き込みご飯や煮物類は「悪くない」とのお言葉を頂戴している。
まぁ、差し出されたお弁当を残すことは無いものの、少しでも気に食わなければ批評の嵐が待ち受けていたりするのだが。
けれどそれも、味に対する立派な感想であると椿は思っている。ああしろこうしろと言われて、その通りに実行するとより美味しいものが出来上がるので、椿としては不満はない。そもそも、食べて欲しいと言うこと自体が椿のわがままであるのだから、批評には何の文句もないのだ。宿儺はそれに対して「つまらん」「張り合いがない」と調子を狂わされているようであるが。
「今日のお弁当は上手くいった自信があるんだ。錦糸卵は綺麗に切れたし、煮っ転がしは均等に柔らかく煮込めたよ」
「………ふん。不味かったら承知せんぞ」
「ふふ、お手柔らかに頼むよ」
丁寧に包みを開き、無言で料理を口に運ぶ。食べている最中に感想はなかったが、手が止まらなかったことからお気に召したことが窺えた。
最後に空になった弁当箱と「悪くなかった」という言葉を貰えたので、椿は口元を緩めて微笑んだ。
これは何も知らない少女と、呪いの王のささやかな日常の一幕である。
「あの先輩、いつもここら辺で見掛けるよね」
「何かあんのかな?」
「って言っても、ここら辺って百葉箱しかないよね」
「何かあんのか?」
「さぁ? ………あ、」