歴史修正主義者になりたくない
今日は初めて悟が家に帰ってくる日である。夕飯は彼のリクエストの肉料理を中心に、彼の好きそうなものを用意しようと献立を考えながら下駄箱に向かう。すると、出入り口付近が何やら騒がしいことに気がついた。校門の方を見つめながら、少女達が頬を染めて色めきだっているのだ。
―――――何だろう。物凄く嫌な予感がする。
椿はこの先に待ち受ける事態を確信しつつ、受け入れたくない想いでいっぱいだった。
(いや、でも、もしかしたら違うかもしれないし)
連絡を入れると言っていたし、夕飯の準備をして待っているようにいっていたから、こんなに早く任務が終わることはないだろう。
一縷の希望を持って、少女達の背後から、椿も校門に目を向ける。そしてがっくりと肩を落とした。予想したとおり、校門の前に悟が立っていたのだ。
悟は非常に目立っていた。美しい顔立ち。見上げるような長身。黒ずくめの制服。どれをとっても、目を惹く要素しかなかった。
誰もが注目している中心に、今から出ていかなければならないのかと、椿は額を抑えた。裏門から帰ろうかとも思ったけれど、雇い主を無視するわけにもいかない。
椿は意を決して、校舎を出て校門に向かって歩き出した。
椿が悟に歩み寄ると、悟はつまらなさそうにしていた顔を一変させ、嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「お、やっと出てきた」
おせぇよ、と文句を言いつつ、彼は嬉しさを隠し切れていない。花を背負っている幻覚が見えた気がした。
「おかえりなさい、悟さん。今日お帰りになることは伺っていましたが、わざわざ迎えに来てくださったのですか?」
「ただいま。思ったより早く終わったからな。あと、これをつけたお前が早く見たくて」
「え?」
それで連絡入れ忘れた、と悟が頬を染める。
そんな悟に小ぶりな箱を渡され、椿が目を丸くする。開けるように促され、包装を剥がすと、中には口紅と簪が入っていた。
口紅は黒い地にゴールドでブランド名が描かれている。値段を聞きたくないような高級ブランドの名前だった。
簪の方は、鼈甲で作られた玉簪だ。淡い空色の石が飾りとしてついており、こちらも一目で良いものだと分かるものだった。
「口紅と、簪ですか?」
「そ。桜色もよかったけど、お前は赤色が似合うし、良い色見つけたから、これ付けろよ」
「あ、ありがとうございます……」
「簪も、最初はバチ型のやつにしようと思ったんだけど、普段使い出来る方が良いだろ? お前はあんま高いもんだと遠慮しそうだし。淡い色の飾りなら、お前の黒髪にも映えそうだし、悪くねぇだろ?」
「はい、とても素敵だと思います」
本当に素敵なものだった。思わず見惚れていると、悟が小さく笑う。
「付けてやるよ。後ろ向け」
「うちに帰ってからで良いのでは……?」
「買い物して帰るだろ? それに、こういうのは出掛けるときに付けて見せびらかすもんだろ。ほら、後ろ向け」
興味津々といった視線が椿たちに向けられている。悟も分かっているだろうに、彼はそれらを一切気にしていないようだった。
付けたくて仕方ないと言わんばかりの悟に押され、邪魔にならない場所に移動して、悟に背中を向ける。
彼は思ったよりそっと髪に触れ、くるくると手慣れた様子で髪をまとめ上げた。スッと簪を挿され、完成したのが分かった。
「口紅も塗るから」
「承知いたしました」
正面を向かされ、真新しい口紅を差される。
隅の方に移動したものの、周囲からの視線が突き刺さるようだった。
「お、良いね。似合ってんじゃん」
「ありがとうございます」
鏡もないため、実際のところは似合うかどうか分からない。けれど悟は満足げで、椿は納得するほか無い。
買い物もあるのでそろそろ帰ろうと促すと、悟が椿の手を取った。指を絡めるような仕草に椿の肩が跳ねる。
「悟さん?」
「ほら、どこで買い物すんの? 俺、ここら辺知らねぇから、案内しろよ」
「それは構わないのですが、手を繋ぐ必要はあるのですか?」
「べ、別に良いだろ、このくらい……」
―――――いや、構うが。
椿は声を大にして、弁明の言葉を叫びたい気分だった。
悟と椿は特に交際しているわけではない。同棲に近い状態にはなっているが、そんな事実はないのだ。
周囲の視線が、更に強くなる。ちらりと横目で周囲を見ると、少女達が嫉妬に濡れた顔でこちらを見ていた。
(………………これ、もしかして牽制のつもりなのだろうか)
悟は椿に、男の影があることを周知させたかったのだろうか。自分の意中の相手が、自分のあずかり知らぬところで、自分以外の異性と仲良くしてほしくないという思いは理解出来る。
しかし、人には妬みの感情がある。恋人を持っている相手に対して攻撃的になる人間もいるのだ。それも、悟のような誰もが振り返るような美しい青年が相手ならば、尚更。
―――――学校でも嫌がらせを受けたりしないだろうか。
ようやく嫌がらせを受けなくて済むようになったのに、と頭を抱えたい想いを抱いていた椿は気付かなかった。少女達に隠れて、悟に嫉妬の視線を向ける青年達がいたことに。