歴史修正主義者になりたくない
家政婦をしながらの学生生活は、大変ではあるものの、そこまで苦になるものではなかった。今まで五条家で行っていたものの規模を縮小し、仕事の種類を増やしたようなものだったのだ。その上、悟は基本的に寮生活を送っている。学業に任務にと忙しいのか、マンションに帰ってきたことは一度も無い。家政婦とは名ばかりで、一人暮らしをしているだけというのが実態である。
バイトや部活は禁止されているが、それ以外は普通の学生生活を送れているのだから、利益を受け取りすぎている気がしなくもない。
けれど、そんな不平等にも感じる契約でも、当の悟は酷く満足そうにしていた。
(まぁ、周囲から見れば同棲にしか思えないからなぁ………)
悟は椿に執着している。椿自身、彼から好意を寄せられている自覚はある。正しく恋愛感情であるかどうかは定かではないが、“結婚するなら椿が良い”と口にする程度には、悟は椿を好いていた。その上、一族を納得させ、椿の両親に頼み込んでまで椿を引き抜き、自分の専属家政婦にしたのだ。ここまでのものを見せつけられて、彼からの好意を否定できるほど、椿は鈍感ではいられなかった。
恋人同士であるという事実はない。一方的に抱きつかれたりすることはあれど、それ以上の接触はない。
しかし、二人の現状は周囲から見れば恋人との同棲にしか見えないだろう。彼はきっと外堀を埋めきって、椿がにっちもさっちもいかなくなることを狙っているのだ。
(まぁ、契約が成立してしまっている時点で、逃げるという選択肢は取り上げられてしまっているのだけれど)
全てが全て、彼の思い通りになっている気がする。行動力のある人間に権力を与えると、ろくな事にならない。椿は小さく嘆息した。
そろそろ夕飯の準備でも、と立ち上がり掛けたタイミングで携帯が鳴った。見れば、悟からの着信だった。
「はい、もしもし」
『よ、椿。今、時間ある?』
「はい、問題ありません。何か御用でしょうか?」
時刻は17時を越えたところだった。授業はとっくに終わっている時間だ。高専でも任務がなければ自由に使える時間だろう。任務地への移動時間などに暇になって電話を掛けて来ることはよくあるため、今日もその類いだろうと思って、椿はその場に座り直した。
『明日、任務終わったらそっち帰るから。任務終わったタイミングで連絡入れるから、夕飯用意して待っててよ』
外泊届は出してある、と悟が告げる。高専に入学して、初めての帰宅の連絡だった。
「承知いたしました。何かリクエストはありますか?」
『そういや、お前の料理食ったことねぇな……。お前、何が作れんの?』
「具体的に何が、と言われると難しいですが、和食と洋食はよく作ります。もし作れないものでも、レシピがあれば作れるかと」
『へぇ……。じゃあ、肉で何か作ってよ。がっつりしたのが食べたい』
「お肉料理ですか?」
椿がいくつかの肉料理を思い浮かべる。
ざくざく食感のとんかつ。
肉汁溢れるハンバーグ。一手間加えてチーズを使うのも良い。上にチーズを掛けるか、中に仕込むか悩みどころである。
とろとろになるまで煮込んだ角煮。
カリッと揚げた唐揚げ。衣に変化を付けて、食感や味を変えることも出来る。
野菜と合わせて食べるのもまた格別だ。野菜の甘みが肉の旨味と引き立てるのだ。逆もまた然り。
悟が甘いものを好んでいることは知っているが、それ以外の食の好みは詳しくない。少し思案して、椿は思い付く限りのメニューを述べた。
「肉じゃが、とんかつ、ハンバーグ、角煮、肉団子、ローストビーフ、唐揚げ、タンドリーチキン、シュウマイ、回鍋肉、チキン南蛮など、色々作れますが……」
『待って』
言葉を止められ、椿は首をかしげる。電話の向こうで、悟は深い息を吐いた。
『お前、いろいろ作れんのな』
「はい。美味しいものを食べるのが好きなんです」
『それで自分でも作れるようにしたって?』
「はい。自炊の機会も多いので、自分で作ったものが美味しくなかったら悲しいじゃないですか。だから、いっぱい練習したんです」
『ふぅん……』
椿は美味しいものを食べるのが好きだ。外食も好きだけれど、自分で好きなものを好きなように料理するのも好きだった。特に、ご飯ものと煮物には自信がある。
人に自分の料理を振る舞うのも嫌いではない。大切な人が「美味しい」と言って笑ってくれるなら、準備がいくら大変でも、それで全てが報われるのだ。
「ちなみに今日はお魚を食べるつもりです」
『魚料理では何が作れんの?』
「いろいろ作れますよ」
今日の夕飯は鮭のムニエルだ。
シンプルに塩で焼いて、ふっくらとした身を楽しむのも乙である。
つけ焼きや石狩鍋も美味しい。バター醤油で香ばしく焼き上げるのも美味だ。
酒蒸し、ホイル蒸し、アクアパッツァ、煮付け、だて巻き。
茶碗蒸しにはエビやカニを入れがちだが、鯛やさわらなどの白身魚も相性が良い。
フライや天ぷらも最高だ。ほくほくほろりとした食感がたまらない。
「そう言えば、お魚の天ぷらって衣をカレー風味にしても美味しいんですよ」
『ねぇ……』
「味噌煮やクリーム煮も身が柔らかくなって舌で溶けるような食感が良いですよね。竜田揚げにしてざくざく食感を楽しむのも良いです。なめろうやユッケも作れますよ。他にも……」
『ちょっと一回止まってくんねぇかな!?』
突然大声を出され、椿が口を閉ざす。電話の向こうで、悟はうめくような声を上げている。
「あ、これは」と椿は申し訳なさを覚えた。椿が料理の話をすると、周囲の人間は度々このように呻き声を上げたり、お腹を押さえて悲痛な表情を浮かべるのだ。所謂飯テロというものを受けている状態に陥るのだ。
椿は美味しいものを食べられるなら、多少手間や時間が掛かっても構わないと考えているタイプの人間だ。そのため同年代と比べると、自炊で作る料理のハードルが高いのである。食べたいと思っても、レストランや食堂に行かなければ食べられないものも多いのだ。
『作れ』
「はい?」
『お前のせいで魚料理も食べたくなった。だから夜は肉、朝は魚で料理作れ。いいな?』
「は、はい。承知いたしました………」
それから二つ、三つほど世間話をし、悟との通話は終了した。
椿は彼の勢いに飲まれたままだったので、話の内容は殆ど覚えていない。通話が終わってからも、どこかぼうっとしていた。
(………………そう言えば、異性と二人きりで生活することになるんだよな)
緊張してしまいそうだなぁと、椿は苦笑した。
携帯を置いて、今度こそ夕飯の準備のために立ち上がったのだった。
***
通話を終えた悟は自然と上がる口角を抑えられずにいた。椿とのやり取りが、恋人や夫婦のようなやり取りに思えてグッときたのだ。
部屋を出て、食堂に向かう途中も、ずっと顔が緩んでいる自覚があった。
「おう、五条。何ニヤニヤしてんだよ」
「…………硝子」
同じく夕飯のために食堂に向かっていた同級生―――――家入硝子に声を掛けられ、悟が頬を抑える。
「何でもねぇよ」と素っ気ない返事を返しつつ、この感動にも似た心境を聞いて貰いたくて仕方が無かった悟は、内心嬉しくてたまらなかった。
「もしかして、彼女か?」
「ばっ……!? ま、まだちげぇよ……」
「“まだ”ねぇ? じゃあ今は何なの?」
「…………家政婦って名目で、家の管理して貰ってる」
「もう囲ってんのかよ。てか、それって同棲? いや、片方は寮生活だから半同棲か?」
「ま、まぁ? そう言えなくもない、みたいな?」
頬が熱くなるのを抑えられずにいると、硝子がニヤニヤと口角を上げる。普段ならば「うぜぇ」と嫌がられるところだが、彼女も年頃の少女。恋バナに分類される事柄には興味があるようだった。
「いくつ? 年上?」
「同い年。料理作ってって肉料理リクエストしたら、めっちゃ料理名あげられてさぁ。話してる間、腹減って仕方なかった」
「ふぅん、女子力高い女の子なんだ? 五条のくせに、良い子ゲットしたんじゃない?」
「俺のくせにって何だよ」
「さぁね」
悟が憮然とした表情で硝子を見やると、彼女はケラケラと笑って言葉を濁した。
しかしまぁ、自分の好いた相手を褒められるのは嬉しいものだ。そのことに免じて誤魔化されてやろう、と悟が口元を緩める。
そんなところに、二人の間に割って入る影があった。
「なになに? 二人とも何話してるの? 私にも教えて?」
「…………お前に話すことなんかねぇよ」
二人の距離を広げるように間に入ってきたのは複数いる同級生のうちの一人、夢野という少女だった。彼女は悟に近づきたくて仕方ないのか、酷くしつこいのだ。ちょっとした一言に過剰に反応し、何でもかんでも根掘り葉掘り聞き出そうとしてくるのだ。悟がうんざりしているのに気付いているのかいないのか、夢野はお構いなしにちょっかいを掛けてくる。
硝子も硝子で、彼女には辟易しているようだった。夢野は硝子を目の敵にしている節があるのだ。悟と隣に並んだだけで睨み付けられ、話しているところを見られれば文句を付けられる。悟から距離を置こうかと考えたこともあったが、悟が悪くないことで彼を避けるのは違うような気がしていて、付かず離れずの距離と保っている。
けれど、それすらも夢野は気に食わないようだった。彼女は悟の同級生が、自分一人で良いとすら思っている節があるのだ。メンタルには自信のある硝子も、ここまであからさまに嫌われると疲労が積もってしまっていた。
「…………別に、大した話はしてないよ。食堂行くから、何食おうかって話してただけ」
硝子が素っ気なく呟く。悟と話していたときの楽しげな様子など微塵も感じられず、とげとげしい空気を纏っていた。
夢野も、悟に向けていた甘い顔を消し去り、侮蔑にも似たような表情で硝子を一瞥した。
けれど、硝子を見ている暇などないと言わんばかりに、夢野が悟の腕に縋り付き、甘えたような猫なで声を上げた。
「私も今から食堂行くんだよ。運命だよね! 悟くんは何食べるの? 迷ってるなら私と半分こしない?」
「もう決めてる」
「そうなんだぁ。何食べるの? 私も悟くんと一緒なの食べた~い!」
「自分で選べ」
「やだぁ、悟くんってば超クール!」
取り付く島もない対応だが、夢野は微塵もへこたれない。むしろ、そんなところにすら魅力を感じているようで、悟は思いきり顔を顰めた。
そのメンタルを別の方向に発揮してくれたらなぁ、と思いながら、悟と硝子は遠慮なく嘆息した。