歴史修正主義者になりたくない






 高校に入学してしばらく、暮らして行くにはまだ違和感が拭えないものの、慣れた足取りでマンションに帰宅できるようになった頃のことだ。どこでどうやって調べたのか、通学路の途中で長井が待ち構えていた。
 またか、と眩暈を覚える。頭痛がしてきたような気がして、思わず額に手を当てる。逃げてしまいたいけれど、長井はすでに椿を見つけていた。また、逃げても意味がないことは分かっていた。年単位で粘着されているからだ。
 挨拶もそこそこに、長井が椿の説得に掛かる。今回は切り口を変えて、彼女らの功績を語るつもりらしい。本当ならば事故で死ぬ命を助け、その家族は幸せな家庭を築いているという。


「それでね、その子の一家はすごく幸せそうにしてたんだって。その話を聞いて、やっぱり私達のしていることは間違いじゃないって、改めてそう思ったんだ」
「…………なら、どうしてそんなに切羽詰まったような顔をしていらっしゃるんですか?」


 明るい語り口。内容だって、彼女らの望む通りのハッピーエンド。これが物語ならば「彼等は幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし」と締めくくられていることだろう。けれど、長井の顔に笑みはない。笑みを浮かべようとしているようであるが、その顔は盛大に引きつっている。


「まるで、取り返しのつかない事態が起こったように見えます」


 長井の焦げ茶色の瞳を、椿がまっすぐに見つめる。光を湛える黒い瞳に射貫かれて、長井が息を詰めた。
 必死に言葉を紡いでいた長井が、口を閉ざして俯く。その様子に、何か拙いことが起こったのだ、と椿は嘆息した。
 世界には修正力というものがある。本来辿るべき歴史が変わろうとしたとき、その変化に抵抗する力が働くのだ。その力には、誰も逆らえない。
 今回の一件は、人の命が関わっている。その出来事を修正するために働く力は、酷く強いものだろう。その力の働きによって、彼女らの望まないことが起こったのだ。長井は、それを窺わせる顔をしていた。


「善悪の指針が、失われてしまったの………」
「善悪の指針………?」
「本当なら坊っちゃんの親友になるはずだった人のことだよ」


 俯く長井の口から、重々しく言葉が紡がれる。
 “善悪の指針”などという大層な肩書きを持った人物が、どこかの家族を救ったことで失われたのだ。悲惨な未来が待ち受けているという、五条悟の“特別“になるはずだった人間が、等価交換の対価に選ばれてしまったのだ。それは五条悟という人間にとって、とてつもない損失だった。


「彼の指針になって、彼を導いてくれるはずの人が亡くなってしまったの」


 散々、彼を救いたいと言っていたくせに。彼の未来を明るいものにしたいと願っていたくせに。彼女たちが余計なことをしなければ、待ち受けるのが悲惨な未来であっても、親友と呼ぶほど大切な人間を失わずに済んだというのに。


「あの人のことは救えたのに……。どうしてこんなことに………」


 その事実の罪深さに気付きもせずに、長井は本気で不思議そうにしていた。それが歴史を変えた代償であると言うことを、全く理解していなかった。
 自分たちの行いが本来生きていたはずの命を失わせたというのに、彼女はそんなことすら分かっていない。未だに、自分たちは間違っていないのだと本気で信じている。そんな少女が、椿の目には怪物のように見えていた。


「だから………!」


 悍ましさに声を震わせながら、怒りでどうにかなってしまいそうになりながら、椿が長井を睨み付ける。


「だから言ったじゃないですか! 何もするなって………!」


 長井秀香という少女は、最初から“合わない”と思っていた。自分とは相性が悪そうだと。関わらなくて良いのなら、自分からは決して関わらない人物だった。無理に関わると、諍いに繋がると分かっていたから。
 彼女を理解出来たことは一度もない。同じ言語を用いているはずなのに、彼女には何一つとして伝わらない。いくら言葉を重ねても、暖簾に腕押し、糠に釘。人の話を聞く気がないのだと思っていたけれど、ここに来て、彼女はそもそも同じ生き物ではないのかもしれないという考えさえ脳裏に過ぎる。そのくらい、椿には長井が理解出来なかった。
 自分の声が上擦っていることに気が付いて、椿が息を吐く。深い呼吸を繰り返して、どうにか落ち着きを取り戻す。


「本来亡くなるはずの人を生かしたのだから、代わりの人が死ぬことで補填されるのは当然でしょう」


 この期に及んで意味が分からないと言った様子で眉を下げている長井の顔を見て、椿が吐き捨てる。頭痛どころか、吐き気すらしてきた。
 このまま彼女と顔を合わせているとより大きな諍いに発展してしまいそうで、椿はその場から離れようと踵を返す。そんな椿を、長井が引き留めようと言葉を掛ける。


「でも、あなたなら……! あなたなら、夏油さんの代わりになれる! あなたなら、坊ちゃんを導けるの!」
「なれるわけないでしょう。私は“清庭椿”なのだから」


 椿は清庭椿という人間であり、夏油と呼ばれる人間ではない。悟の親友になるつもりなどないし、善悪の指針などという大層な役割を全うするつもりもないのだから。誰かの代わりになるつもりなどないし、なれるはずもないのだから。
 尚も言い募ろうとする気配を感じて、次の言葉を耳に入れる前に、椿はその場を後にした。
 本来辿るべき道筋を変えると言うことがどれほど愚かしいことか、散々言い聞かせてきたはずだった。それでも止まらなかったのは彼女らの責任だ。ならば、その責任は彼女らが負うべきものである。椿は長井に連なる者達すべてを斬り捨てる覚悟を決めた。




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