歴史修正主義者になりたくない
それは休日のことだった。いつものように悟のご機嫌取りに行くと、その日の悟は酷く大人しかった。静かな悟は綺麗な顔も相まって、どこか作り物めいていた。
椿が定位置に座ると、人形のようだった悟がニッと笑った。人形に熱が宿って、人になったようだった。
「俺、高専行くわ」
「高専?」
「そ。東京都立呪術高等専門学校」
東京都立呪術高等専門学校。その名の通り、呪術師のための学び舎である。
家系の縁で入学するものも居れば、全国各地で活動する高専関係者が見つけてくる一般人も入学できる学校だ。
「しかし、随分と急にお決めになりましたね。以前から興味があったのですか?」
「この家って窮屈じゃん? 過干渉だし、色々面倒でさぁ。いつかは出て行きたいと思ってたんだよね」
「そうだったのですか?」
「そ。こんな狭い家で世界のことなんて知れないし、お前が学校は良いものだって言ってたから、丁度高専に入学できる年齢だし、これを機に家を出ようって思ったわけ」
良い案じゃね? とニコニコと笑う悟に、椿もうっすらと微笑む。
確かにこの家は、悟にとっては酷く窮屈だ。苦しいくらいの干渉。痛いくらいの束縛。異常なまでの六眼への執着。煩わしいと思うのも頷ける。
そんな世界で冷めた表情をしていた悟が、楽しげに笑っているのを見るのは、椿としても喜ばしいことだった。長く仕えてきた相手だ。そう思うくらいの情は生まれている。
「そう言えば、高専は寮制度を取っていましたね」
「そうそう。俺が寝転んでもはみ出ねぇ布団とかベッドあんのかな」
「…………坊っちゃんが高専に入学するなら、私はお役御免ですね」
東京高専があるのは東京郊外にひっそりと存在する。とても彼の実家から通える距離ではない。そもそも寮生活になるのなら、実家を好いていない彼が滅多に帰ってくることはないだろう。そうなると、椿が彼のご機嫌取りをする必要は無くなる。少し前の日常に戻るのだ。
しばらくの間は寂しくなるかもしれない。そう思って眉を下げると、悟が不思議そうに目を瞬かせた。長い睫毛が、蝶の羽ばたきのように見えた。
「は? 何言ってんだよ。お前も来るんだよ」
「………………はい?」
―――――まさか高専に通えと?
何という無茶を言うのかと、椿の顔から血の気が引く。
椿は呪霊が見えるだけの非術師だ。戦う力なんてものはない。呪術師の卵達と並べるわけがない。
「ま、待ってください。どういうことですか? 私にどうしろと?」
「お前も家出ろ。家なら用意してやるから」
「意味が分かりませんが?」
「お前じゃ弱すぎて任務なんて行ったら死んじまうだろうし、普通の高校行きてぇんだろ? だから、そっちは許してやる」
「…………そこまで制限される覚えはありませんよ」
呪術師の学校は日本でただ二つのみ。それも高等専門学校からの教育だ。それまではそれぞれの家庭で学びを得る。家庭教師で一般教養を得る家系も多いが、一般の学校に通って教育を受け、習い事の代わりに呪術の修練を積む一族も多いのだ。
五条家は滞りなく業務を行っているならば、どこでどのような教育を受けてもよいことになっている。そこまで使用人や女中達に興味がないのだ。そのため椿は一般の学校に通っている。
「でも、お前は連れて行く。この家に置いていったら何があるか分かんねぇしな」
確かに嫌がらせは未だ続いている。悟が未然に防いでいるものも多いが、全てを防げるわけではない。むしろ、悟がかばい立てすることによって、激化している部分もあるのだ。気持ちは嬉しいけれど、大人しくしていて欲しい気もするというのが正直な感想だった。
最近、椿は五条一族に顔を覚えられている気がしてならない。今までなら目を向けることすらしなかった彼らが、品定めするように椿を見下ろしてくるときがあるのだ。
これらのことは、仕事の都合で家を空けることの多い両親にも伝わっているようだった。顔を合わせるたびに心配と労りの言葉を掛けられるのだ。二人は言葉を掛けることしか出来ないことを嘆いていたけれど、椿としてはそれで十分だった。確かに辛いことではあるけれど、凶刃が二人に向いていないことだけが唯一の救いだった。
「お前には俺が卒業後に暮らす家の管理をして貰うから、そのつもりでいろよ」
「………………少し待ってください。情報が完結しないので、整理させてください」
「待つのは良いけど、決定事項だから」
―――――お前に拒否権はない。
そう言ってにこやかに笑う悟の顔が、妙に憎らしく見える。
「どうしてそこまでするのですか? メリットなんて無いでしょうに」
「俺にはあるんだよ」
「私にはそのように思えません。第一、当主様がお許しにならないでしょう」
「そっちは俺が説得する。絶対に納得させるから問題ない」
「問題しかありません。そもそも、たかが一女中に対する扱いではありません。それに―――――」
「ああ、もう! ごちゃごちゃうるせぇな! 俺が、お前と離れたくねぇんだよ!」
お前の意志なんて関係ねぇ! と叫んで、悟は真っ赤な顔で椿を睨む。
その顔を見て、椿は「ああ、そう言えば」と悟から好意を向けられていることを思い出した。
「………………まぁ、その通りではありますが」
―――――しかし、それが仮にもプロポーズした相手にする対応なのか。
そう思った椿が渋い顔を悟に向けると、彼は「うっ」と言葉に詰まった。言いたいことが、何となく伝わったのかもしれない。
確かに雇われの身である椿に、拒否権なんてものはないだろう。一般企業ならば余地もあるだろうが、一族丸ごとを長く養って貰っている相手だ。五条家からの命令には従うしかない。
「………………分かりました。お供します」
「…………! 二言はねぇな!?」
「もちろんです」
「ちゃんと納得させるし、お前の親も説得するから安心しろよな!」
「…………出来れば、脅し以外でお願いします」
「おう! 任せろ!」
目に見えて浮かれている悟に、「不安しかないなぁ」と椿がこっそりと嘆息した。