歴史修正主義者になりたくない






 学校帰りのことである。椿はふと足を止めた。見覚えのある姿を視界に捉えたのだ。
 長井である。彼女は椿に接触を図るために、わざわざ自分の通学路とは全く違う道に現れたのだ。
 ―――――別の道を使おう。そう決意した椿が横道に入ろうとしたとき、長井が椿の姿を捉えた。


「清庭さん!」


 名前を呼ばれ、駆け寄られてしまえば無視することも出来ない。椿は渋々足を止め、長井に向き直った。


「……こんにちは、長井さん」
「うん、こんにちは。少しいいかな?」
「…………早く帰らないといけないので」
「時間は取らせないから」


 道端で立ち話をするわけにもいかないので、近くの公園に足を向ける。
 正直に言えば今すぐにでも帰りたかったけれど、長井は執念深く、粘着質なのだ。逃げた方が後で面倒くさいことになりそうな上、余計に彼女を刺激してしまいそうで恐ろしい。仕方なく、椿は彼女の話を聞くことにした。


「清庭さん、私達はあなたが非術師でも全然構わないんだよ。志を同じくしてくれたら、それだけでも嬉しいの」
「………例え私が呪術師であろうとも、あなたたちに与することは出来ません」
「あなたはこの世界をよりよい未来に導くために必要な人材なの。坊ちゃんのためにも、協力してくれないかな?」


 何度断っても、何を言っても堂々巡り。同じ事の繰り返し。流石の椿も、いい加減にうんざりしていた。


「そうだ。報酬は決まったかな? 私達は出来る限り、あなたの望みに寄り添うつもりだよ」
「…………要りません。何もせず、歴史の流れに身を任せてください」


 長井は何も分かっていない。理解しようとしていない。ただ一方的に、自分達の主張を通そうとしているだけだ。
 話し合いになんてならない。彼女は同じテーブルに着こうとすらしない。この時間の全てが無意味だ。椿にとっては、ひたすらに苦痛が続くだけの時間だった。


「あなただって、明るい未来を生きたいって思うでしょう? 大切な人達に幸せになって欲しいでしょう?」
「…………そうですね。でも、そう願い、叶えた未来が必ずしも希望に満ち溢れているとは思えません」
「希望に溢れさせるために、今から変えていくんだよ」
「…………私は変えたいとは思いません。そろそろ帰らないといけないので、失礼します」


 引き留める長井を振り切り、椿はひたすらに走った。目上の人間に対する態度ではなかったとか、公共の場で全力疾走など迷惑行為であるとか、普段ならば脳裏に過ぎる思考は、そのときの椿には一切無かった。
 気持ちが悪かった。何がどうしてそう思ったのかは判然としないけれど、ひたすたに気持ちが悪かった。吐き気がするほどに。
 やっとの思いで、椿は五条家の敷居を跨ぐ。上がった息を整え、ようやくほっと一息をついた。
 椿の諦めの悪さも相当なものだが、長井の執拗さもなかなかのものだ。椿はずっと“否”しか主張していない。それなのに、どうして無力を理由に遠慮していると思えるのかが分からない。どんな言葉を掛けたら、彼女は諦めてくれるのだろうか。


(…………今日はいつもより遅くなってしまった。早く行かないと、坊ちゃんがむくれてしまうな)


 椿は最近、悟専属のご機嫌取り役を担うことになったのだ。彼の機嫌が悪いと椿の責任になってしまう。
 着替えて悟のところに向かわなければ、と自宅に向かおうとしたとき、じゃり、と足音が聞こえた。振り返ると、不機嫌そうな悟がそこに居た。


「坊ちゃん。ただいま帰りました」
「遅ぇよ。もっと早く帰ってこれねぇのかよ」
「申し訳ありません。すぐに着替えて参りますので……」


 今日は、帰りに長井の待ち伏せに遭い、いつもより少し帰りが遅くなってしまったのだ。
 小さく頭を下げて、すぐに着替えに向かおうとする。
 けれど、悟に腕を捕まれて、椿は慌てて立ち止まる。悟は何も言わず、じっと椿の制服を見下ろしていた。
 どこかおかしいところがあるだろうか、と椿も制服を見下ろす。


「…………学校っていく必要あんの?」
「そうですね。一般人にとっては企業に勤めるために、ある程度の学歴が必要になるので」
「そんなことのために学校行って楽しいの?」
「私は楽しいです。色んな人間と交流し、視野を広げることが出来ます。様々な価値観に触れ、新たな考えを持つことが出来ます。楽しいことばかりではないけれど、学びがあるのは確かですよ」
「ふぅん……」


 ぱっと手を離され、悟が踵を返す。自室の方へ向かっていくのを見送って、椿も自宅へと急いだ。
 見送った悟は、何かを考えているようだった。どこかに意識を飛ばしているかのような上の空で、足取りがしっかりしていることだけが幸いだった。


(学校に興味があるのだろうか………)


 幼い頃から箱庭で育って、狭い世界ばかりを見てきた子供。
 学校なんて通ったことはなくて、友人と呼べるような存在もいない。それは、一体どんな世界なのだろう。


(でも、まだまだ遅くない。彼はこれからだ)


 ―――――彼が良き友と巡り会いますように。
 そう願いながら、椿は自宅の扉をくぐった。




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