歴史修正主義者になりたくない
(何で何で何で!!! どうしてこうなるのよ!!!!!)
椿に危害を加えようとした容疑者として謹慎を命じられた姫川は、血走った目で宙を睨み付けていた。ぐしゃぐしゃと髪を掻き毟り、怒りのままに机に拳を叩き付ける。
彼女が哀れな被害者から容疑者に変わったのは、休憩時間でもないのに休憩室に出入りする姿の目撃証言や、椿に対する悪い噂の出所を探られたとき、複数人が姫川の名をあげたことが大きな要因だった。
そして精神操作の効果を持つ術式の刻まれた人間に探らせたところ、姫川が自らの罪を認めたのである。悟から椿を引き剥がし、自分がその立場を手に入れたかったのだと、嬉々として語ってしまったのだ。
(私は悪くない! 私こそが彼のヒロインなんだから!!!)
姫川が、懐に隠し持っていた口紅を取り出す。悟が椿に贈ったものだ。姫川はその事実を知らないが、これが悟と椿にとって特別なものであるという見当はついていた。椿が悟に紅を差される瞬間を、彼女は目撃していたのである。それをされるのは、本来自分であるはずなのに、と歯を食いしばりながら。
憎しみのあまり、食いしばった歯がギリギリと音を立てる。握りしめた口紅も、ギチギチと妙な音を立てていた。
(本当になんなのよ、あの女ぁ……っ!!!)
悟の隣は自分の場所なのに。特別に扱われてしかるべきなのは己であるべきなのに。だというのに、選ばれたのは椿だった。特別なところなど何一つ持ち得ない、ただの女だった。
見た目だって自分の方が美しいのに。術式こそないものの、呪力だって自分の方が上なのに。それなのに、どうして。
「せめて、これだけでも……っ!!!」
椿を排除することは出来ない。いくら自分が特別だからと言って、後の現代最強の呪術師を出し抜けるとは思っていない。せめて、口紅だけでも。
「―――――ねぇ」
口紅を床に叩き付けようとしたとき、姫川が恋い焦がれた少年の声が耳朶を打った。ぱっと顔を上げると、目の前に美貌の少年が佇んでいた。
雪のような白銀の髪。空を写し取ったような透き通った青色の瞳。思わずため息が漏れそうになるほどに整った顔。世界のバランスすら変えてしまう特別な存在―――――五条悟が姫川を見下ろしていた。
「ああ、悟様……!」
姫川が感極まった、歓喜に満ちた声を上げる。
ああやはり、自分こそがヒロインなのだ。特別な人の隣に並ぶに相応しい人間なのだ。
悟の手を握ろうと手を伸ばす。けれど、手が届く前に、その手は無下限によって大きく弾かれた。姫川がそのことに戸惑っていると、悟の顔が嫌悪に歪む。
「何喜んでんのか知らねぇけど、俺はそれを返してもらいに来ただけなんだけど」
「な、なんで……! 何であんな女に肩入れするの!? 私が、私こそがあなたに相応しいのに!!!」
「お前が? 俺に? 何言っちゃってんの?」
―――――烏滸がましいにも程がある。
そう言って、悟は心底馬鹿にしたように姫川を嗤った。酷く冷めた眼差しに、ありったけの侮蔑を込めて。
「そういうわけだから、さっさと返してよね」
「な、なんで………」
何で、どうして。だって、だって、彼に選ばれるのは自分のはずなのに。どうして何の取り柄もない子供を、大して美しくもない女を、特別な彼が優先するのか。その事実はとてもではないが受け入れられない。口紅を抱き込んで後ずさると、悟は心底不快そうに目を細めた。
音もなく、悟の手が持ち上げられる。指を弾くような構えは、姫川にも見覚えがあった。次の一瞬を想像して恐怖に固まると同時に、指が弾かれる。
―――――バチュン!
姫川の身体が崩れ落ちる。けれど、悟の興味は姫川にはない。彼女の手からこぼれ落ちた口紅を拾い上げ、悟が後頭部を掻いた。美しい細工の口紅に、べっとりと血が付着していたのだ。
「あー……汚れちまったな……。新しいの買ってやるか」
淡い色の口紅は、控えめな椿によく似合っていた。けれど、白い肌にはもう少し赤みの強い色も似合いそうだと思っていたのだ。
汚れてしまったこれはもう要らないだろう。悟も椿に持たせていたくない。早速新しい口紅を探さなければ。
「あん?」
姫川のものと思われる携帯が落ちている。何気なく、悟がそれを拾い上げる。特に興味はなかったが、ちらりと視界に映った開きっぱなしにされていた画面が、やけに気に掛かったのだ。
「…………何だ、これ? やっぱ頭おかしい奴だったんじゃん」
携帯の画面に映し出されていたのは、どこかのサイトと思われるものだった。しかし、内容は全く分からない。全てが文字化けして、読めたものではなかったのだ。
興味を失った悟は、携帯を放り出してさっさと部屋を出て行った。