歴史修正主義者になりたくない






「ちょっと、あんた」


 怒気を滲ませた声が椿に掛けられる。振り返れば、椿を貶めようとしている女性が立っていた。
 以前見た、怯えたような表情ではなく、敵意を剥き出しにした豹のような顔をしていた。


「あんた、ちょっと悟に気に入られてるからって調子に乗ってない? 自分がヒロインだとでも思ってるわけ?」


 ―――――ああ、この人は坊っちゃんに懸想しているのか。
 何故執拗な嫌がらせを受けるのか、その理由が判明した椿は肩を竦めた。
 確かに、悟に懸想している相手にとって、椿は目の上のたんこぶのような存在だろう。悟は明らかに椿を気に入っていると分かる態度で接している。また、彼女は知らない事実ではあるが、悟は椿に想いを寄せているのだから。
 理解は出来る。自分の想い人が自分以外の異性と親しくしていたら、憎らしく思えるのも頷ける。
 けれど、それを理由に嫌がらせを受ける謂われはない。そこに正当性なんてものはないのだから。


「何をしても平然としていて、何でもないようにやり過ごして……。泣き喚くくらいしたらどうなの?」


 かわいげがない、と女性は顔を顰める。
 けれど、椿の表情は変わらない。ただ、視線だけが“敵”を見つめる冷たいものに変わっていた。
 それが更に彼女の気に障ったのか、女性は顔を真っ赤にして椿を怒鳴りつけた。


「その澄ました顔が気に入らないのよ! 悟のことだって“私は何とも思っていません”って顔して……! 本当は悟の特別になったような気分に浸っているんでしょう!?」


 血走った目の奥で、嫉妬の炎が揺らめいていた。それは最早、憎悪に近いものにすら見える。


「私の悟にベタベタベタベタと……。いい加減目障りなのよ!!!」


 絶叫にも似た声を上げた女性が、バシン! と自分の頬を叩く。鋭い音に見合った一発だった。女性の頬が赤く染まる。
 自傷行為にも似た行動を取る女性に驚き、椿が目を瞠った。


「きゃあっ!!!」


 女性は悲鳴を上げ、大袈裟に尻餅をつく。
 怯えたような素振りを見せながら、椿から逃げるように後ずさっている。
 その悲鳴を聞きつけて、ドタドタとこちらに駆け寄る足音が複数聞こえた。


「どうした!?」
「今の悲鳴は一体……!?」


 ―――――なるほど、そういう方向に事を運びたい訳か。
 突如流れ出した椿にまつわる悪い噂。前々から、椿に怯える素振りを周囲に見せていた女性。椿に対する不信感は、着実に募っていた。そして今日、決定的なものを提示し、その全てを真実にしようとしているのだ。それが事実無根であっても、一度芽生えた疑心はなかなか消えるものではない。


「姫川さん、どうしたの?」
「え? つ、椿ちゃん………?」


 悲鳴を聞きつけて、ぞくぞくと人が集まってくる。
 赤くなった頬を抑え、怯えたような素振りを見せる女性。それを冷たく見下ろす椿。事情を知らないものが見れば、どう足掻いても悪人は後者だった。
 敵意を向ける者。困惑を浮かべる者。好奇心を隠さない者。様々な感情の乗った視線が椿と姫川に向けられる。
 姫川は自分の味方らしき女性達に這うように近寄って、女性達に抱き留められていた。


「姫川さん、何があったの?」
「酷い……。頬が真っ赤になってる……」


 姫川の味方である女性達が、痛ましげに姫川の背中をさする。さめざめと泣く姫川に代わって、女性達がキッときつく椿を睨んだ。
 椿に何かしらの言葉をかけようと口を開いたとき、ざわり、とその場の空気が揺れた。人垣が割れて、その奥から悟が現れる。


「うるせぇんだけど。何騒いでんの」
「さ、悟様っ……!」


 姫川が赤くなった頬を抑えながら、潤んだ瞳で悟を上目で見つめる。
 しかし、悟は一瞬姫川を見やるも、さして興味を引かれなかったのか、スタスタと椿のそばに歩み寄る。


「お前って左利きだっけ?」
「えっ? 私は右利きですが……」
「ふぅん?」
「それがどうかしたのですか?」
「いや? 何でこいつの右頬が腫れてんのかなーって思ってさ」


 ―――――そりゃ自分で叩いたのだから、自分の叩きやすい方の手で叩くだろう。
 思わず口をついて出かかった言葉を飲み込む。自分で自分の頬を叩くという奇行を、容疑者側である椿が口にしても余計に怪しまれるだけだ。


「そ、それがどうしたのですか?」
「心底むかつく相手なら、利き手で本気で殴らねぇ?」


 周囲に出来ていた人垣の中から上がった声に、「俺ならそうするけど」と悟があっけらかんと答えた。
 悟に集まっていた視線が、姫川の方に向けられる。自分に注目が集まった姫川は、びくりと肩を震わせた。


「つかさ、こいつが何の理由もなく人を殴ったり、嫌ったりすると思ってんのか?」


 その言葉に、椿の人となりを知っている者はそっと目を逸らした。椿がそう言う人間でないことを分かっていて、流されていた者もいるのだろう。中には、椿がいじめを行っているという噂を大義名分に、ストレスのはけ口にしていた者もいたのだ。悟の目を見れないものは存外多く居た。
 けれど、椿がいじめを行っていると信じていた者達は、自分達の信じていたものが揺らぎ始め、慌てたように声を上げた。


「し、しかし、ここ最近、清庭のとこの娘にはよくない噂も立っていますし……」
「ええ、何やら、被害者も複数いるようで……」
「ふぅん?」


 悟が集まってきた使用人や女中達を見回す。彼らは悟の視線を浮け、びくりと肩を震わせた。


「じゃあ、しばらくこいつは別のとこで仕事させるか。そうすりゃ被害者とやらはこいつと顔会わせることもなくなるし、いじめも無くなるだろ?」


 名案を思い付いた、と悟が笑みを浮かべる。
 その笑みを見て、椿はわずかに背筋が冷えたような気がした。嫌な予感がする。


「と言うわけで、こいつは今日から俺の専属な」


 悟がぐい、と椿の肩を抱き寄せる。突然の暴挙に為す術もなかった椿はバランスを崩し、悟の胸に飛び込むような形になった。
 悟は殆ど体格の変わらない椿を抱きとめ、周囲を見回す。
 椿を悟から引き離そうとしていた姫川は、予想と反対の結果に驚愕と絶望の入り交じったような顔をしていた。


「こんだけ人数が居るんだから、一人くらい抜けても問題ないだろ?」


 そろそろと椿が悟を見上げると、彼は椿を見下ろして、にっこりと微笑んでいた。
 美しい顔が、より一層輝いて見える。


「そういうわけだから、お前、今日から俺のご機嫌取り役な」


 満面の笑みを浮かべた悟の言葉に、椿は盛大に顔を引きつらせた。




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