歴史修正主義者になりたくない
その日の五条家は酷く静かだった。悟と、彼の婚約者候補である娘の顔合わせが行われているからだ。
悟が相手の少女を気に入れば、婚約が成立する。今日という日はお互いの家にとって、非常に重要な日だった。
そのため選りすぐりの女中達のみが残され、他の若い女中達は屋敷の奥の方でひっそりと仕事を熟すこととなっていた。
「今日いらっしゃるお客様、××家の娘さんですって」
「うそ!? 御三家に次ぐ呪術界の重鎮じゃない!」
「そりゃそうよ。それくらいの名家じゃないと釣り合わないもの」
大量の洗濯物を畳みながら、今日のお客様についての噂を口にする。
呪力がどうとか、術式がどうとか。容姿はどうだとか。ぺちゃくちゃと忙しなく口を動かしながらも、その手は淀みなく仕事を熟している。
器用なものだな、とその様子を横目に見ながら、椿は内心で感心する。仕事ぶりもそうだが、その情報網も侮れない。一体どこで仕入れてきたのかと驚くほどの情報を、惜しげもなく晒していくのだ。
その中には自分が知ってもいいものだろうか、と冷や汗が流れそうなものも含まれていて、椿は極力意識を逸らしながら手を動かした。
そうこうしているうちに、屋敷内に賑わいが戻ってくる。お客様がお帰りになったのだ。
お客様がいらしてからほんの数時間。おそらく悟は相手のお嬢様をお気に召さなかったのだろう。それを察してしまうくらい、お早いお帰りだった。
洗濯物を畳み終わり、片付けのために立ち上がったとき、部屋の外が騒がしいことに気がついた。
何事だろう、と一番年上の女中が襖を開ける。そして廊下を見て、彼女は驚愕を顕わにした。
「坊ちゃん!?」
普段足を運ぶことは滅多にない区画に現れた悟に、若い女中達は驚きと同時に色めきだった。
幼い頃から整った容姿をしていた悟は、女中達の目の保養であった。中学生に上がった今は少年らしいかわいらしさの中に精悍さが生まれ、同年代の少女達の心を奪う存在となっているのだ。
悟は頬を染める乙女達には目もくれず、珍しいものを見たという顔で目を瞬かせている椿の元に一直線に歩を進めた。
「お前、ちょっと来い」
「………何の御用でしょうか?」
悟は機嫌があまりよろしくないようだった。色めきだっていた少女達が、さっと顔色を変える。
何があったのだろう、粗相でもしたのだろうか、と邪推する目が椿に向けられる。それが居心地悪くて、椿はそっと目を伏せた。
椿に向けられる視線を煩わしく思ったのか、悟の機嫌が一層悪くなる。小さな舌打ちが静かな空間に響いて、女中達は肩を跳ねさせた。
「いいから来い」
悟が椿の手を取って、さっさと部屋を出る。ぶっきらぼうな態度とは裏腹に、乱暴な扱いではなかった。
悟のされるがままに、椿が彼のあとを着いて歩く。人払いがされているのか、進む先に人の気配はなかった。
どこに向かっているのだろう、ときょろりと周囲に目をやって、椿は思わず立ち止まった。この先は、五条本家の一族が住む区画であった。
「なに、どうかした?」
「坊ちゃん、私は仕事の途中なんです。早く戻らないと………」
「それって俺のご機嫌取りより大事な仕事なの?」
「もちろん、坊ちゃんを最優先するよう仰せつかっておりますが、その仕事は私には荷が重いように存じます」
この先に踏み入るのが憚られた椿は、すっと頭を下げた。
本家の一族が住む区画は、限られた者にしか踏み入る許可が下りていない。もちろん子供の椿に降りているわけもなく、この先に入ったことは一度もない。いくら悟が許可を出していたとしても、椿を正式に雇っているのは五条家の当主である。当主からの許可を貰っていない以上、この先に進むわけにはいかないのだ。
また、悟のご機嫌取りというのは非常に難しいのだ。どんな仕事よりも困難であるとされていて、使用人達が頭を抱えている姿をよく見かけた。長年仕える彼らですら出来ないことを、半人前の自分に出来るとは思えなかった。
「……………お前はもうちょっと自信持っとけ」
「え?」
「ほら、御託はいいからさっさと行くぞ」
「うあっ!?」
問答無用で、肩に抱え上げられる。所謂俵担ぎというやつだ。
降ろして欲しい旨を伝えても、悟は聞く耳を持たない。暴れたら落としてもらえるだろうが、それでは彼が怪我をしてしまう可能性があった。それは避けなければいけない事態である。椿は小さく嘆息して、大人しく担がれることにした。
しばらく歩いて、ようやく悟が立ち止まる。目的地に着いたのだろう。ここでようやく床に降ろされた。
悟が見事な松が描かれた襖を開け、中に入る。椿も入るように促され、一礼してから中に入った。
ここは悟の部屋だろうか。広い部屋だった。物が少ないから、余計に広く感じる。
「ほら、座れよ」
「ありがとうございます」
渡された座布団を敷いて、机を挟んで悟の正面に座る。
椿の顔をじっと見つめて、無言の時間が続く。何がしたいのだろう、と椿が首をかしげると、悟が机に突っ伏した。
「………………疲れた」
ぼそりと呟かれた言葉に、椿はようやく納得した。慣れないことをして、疲れてしまったのだろう。嫌なことがあったのかもしれない。とにかく誰かに話を聞いて欲しくて、その相手に椿が選ばれたというわけだ。
恐らく椿が選ばれたのは、彼との交流のきっかけになった出来事にあるだろう。皆が大騒ぎしている様子を見た上で、椿は悟の心情を優先したのだ。そんな彼女なら、悟の心を何よりも優先してくれると思ったのだろう。澱んだ心を吐き出すには、最適な相手だった。
「慣れないことをして、大変でしたね。お疲れ様です」
「…………うん」
「私で良ければ、いくらでもお話を聞きます。何か、嫌なことでも?」
「うん。あのさ………」
今日いらしたお客様は、なかなか押しの強いお嬢様だったらしい。悟を褒めそやしつつ、いかに自分が優秀であるかをひたすらに語られたという。自分を選ばなければ後悔するというような、強引な物言いが多かったそうだ。それをいなし、突っぱね、言質を取られないように立ち回るのは大変だっただろう。ぐったりと項垂れる悟に、椿は深く同情した。
「よく頑張りましたね、坊ちゃん。今日はゆっくりお休みになってください」
「うん。今日はもう何もしたくない」
今日の予定はお客様との対談で埋まっていたので、このあとは白紙である。本人も何もしたくないと言っていることだし、無理に何かをする必要はないだろう。時間が余ったからと予定を入れたらご機嫌を損ねてしまう旨を伝えておけば、このあとは自由時間を与えてもらえるはずだ。
「では、このあとはお休みにしてもらうよう伝えておきます。坊ちゃんはゆっくりしていてください」
「…………お前もここに居ろ」
「いえ、私は仕事が………」
「お前が仕事に戻ったら、明日の予定を全部ボイコットしてやるから」
そう言われてしまえば、椿は何も言うことが出来ない。悟を最優先させなければならないというお触れも出ている。この状態の彼を放置して仕事に戻れば、お叱りを受けるのは椿の方なのだ。
浮かしかけた腰を下ろし、改めて座り直す。それを見て、悟は満足げに口角を上げた。
悟が、そのままじっと椿を見つめる。空色の瞳に映る自分を見つめながら、椿が不思議そうに首をかしげた。
「坊ちゃん? どうしました?」
「…………結婚、」
「はい?」
「…………結婚、すんなら、お前がいい」
初めて見る真っ赤な顔で、悟が絞り出すような声で告げた。その言葉を聞いて、椿はもう一度首をかしげた。
何故自分は今、プロポーズを受けているのだろうか。この少年はつい先程まで、婚約者候補である女性と会っていたのではなかっただろうか。
椿が目を白黒させていると、唐突に悟が立ち上がる。彼は椿の隣にやってきて、片膝をついて跪く。膝に乗せられていた椿の手が、恭しく握られた。
椿の手を包み込んだ大きな手は、ほんの少しだけ震えていた。
「お前、俺の嫁になれよ」
「いや、無理ですが」
「嘘だろ、即答!!!??」
前々から、彼が自分に気があることは知っていた。それとなくアプローチも受けていた。
けれど、告白を通り越してプロポーズを受けるなんて思わなかった。
「私はこの家の女中見習いで、あなたは雇い主の息子です。この家に見合う格のない私では、あなたのお父上が許しませんよ」
「か、格とかも大事かもしんないけどさぁ! もっと別の部分を大事にしたっていいだろ? それに、俺が当主になれば、結婚相手くらい自分で選べるし!!」
「一般家庭ならばそうでしょうが、五条家では難しいでしょう。それに、坊ちゃんが当主になって私を娶ったとしても、一族が納得しませんよ」
「…………っ!」
五条家は古くから続く由緒正しい家柄だ。呪術界においては“御三家“と呼ばれるほどの重鎮である。五条家の格を下げないためにも、立派な家柄のお嬢様と縁を結ばなければならないのだ。
椿の言うことは正しい。納得は出来ないけれど、彼女の意見は最もだった。
しばらく唸っていた悟が、突然目を見開く。そしてニッと口角を上げた。
「…………色々言ってるけどさ、俺の嫁になるのが嫌とは言ってねぇな?」
「嫌だと言ったら引き下がってくれるのですか? 本音を口にして納得してくださるなら、いくらでも言いますが」
「嫌なのかよ!!!」
ダン、と派手な音を鳴らしながら、悟が畳みに拳を叩き付けながら突っ伏する。
「…………っ! あ、諦めねぇからな……!」
絶対頷かせてやる! と床から見上げてくる。
空色の瞳がわずかに潤んでいて、頬が真っ赤になっていた。
(…………まぁ、悪い気はしないが)
誰かに愛してもらえるというのは喜ばしいことだ。
椿はかつて、主として、人間として愛してもらえた過去がある。その愛は何よりも深く、あたたかく椿を包んでくれた。
それもあってか、女として愛してくれる者もいたけれど、誰かと結ばれようとは終ぞ思わなかったのだ。何よりも彼等の主として生きたかったから。彼らよりも愛せる者に出会えなかったから。
今世において、かつて椿が愛し、椿を愛してくれた存在はいない。仮に居たとしても、今の椿がまみえる事はないだろう。かつての彼女が、誰にも譲らないと、全てを持って逝ったのだ。
だからきっと、今世の椿は彼等以外を愛する事が出来る。かつて彼等に注いだ愛を、他の誰かに譲る事が出来る。それは寂しくも喜ばしい事だった。
かつて命を差し出すのも厭わないほどに愛した存在が居ないというのは酷く悲しいことだ。絶望の淵に立たされるような現実だ。
けれど彼等は、いつだって椿の幸せを願ってくれていた。だから彼等が居ない今、彼等ではない誰かと幸せになる事を、あの刀達は望んでいるはずなのだ。
そういう存在なのだ、彼らは。椿の選んだ事ならば、全てを受け入れて、幸せそうに笑ってくれる者達なのだ。
もし仮に目の前の少年と結ばれて、彼と共に生きることを決めたなら、彼らはきっと笑ってくれる。世界中の誰よりも祝福してくれる。彼らがそうであることを、彼女は誰よりも分かっていた。
「ふふ、」
「…………何笑ってるんだよ」
「いえ、ふふ。大したことではありませんよ」
何よりも自分を愛してくれる存在と共に在れる幸福を思い出し、椿は幸せそうに笑った。