歴史修正主義者になりたくない
椿はいい加減、辟易していた。長井の勧誘が、一向に止まないのである。
「だからね、
「それでも私は、
「あなたがよくても、坊ちゃんは!? 坊ちゃんは失いたくなんて無いはずだよ!」
「だったら、私ではなく坊っちゃんに仰ってください」
脳裏に過ぎる、悍ましい光景。それはたった一度の輪廻転生では失われなかった、過去の出来事だった。
過去を変え、歴史を変えることを目標に掲げる歴史修正主義者。そこから派生した、許されない命を背負って戦う、歴史改変を目論む人々。
世界が正しい歴史を歩むために刀を手に取った審神者。その心に応え、力を貸すことを決めた刀剣男士。
両者のぶつかり合いは、どちらかが滅びるまで終わらない、殲滅戦だった。
世界という観点から見て、審神者達の行いは正しいものだった。けれど椿は、あの戦いは善悪を超越していたと考えている。
間違った歴史に生まれてしまっただけの人々。命の重みは変わらない。彼らにも大切なものがたくさんあった。
それでも審神者達は、彼らの存在を許してはおけない。彼らがいる限り、正しい命は帰ってこない。
悲壮な覚悟を持って戦う彼らを、正史の前に跪かせ、首を落とす所業。
その行為は、決して間違ってなどいない。けれど、心のどこかで「本当にそうだろうか」と問いかける声が聞こえるのだ。
審神者と歴史修正主義者の戦いは、何が良いとか悪いとか、そんなものは置き去りにされた、ひたすらに奪い合うだけの戦いだった。
あの世界のようなことは、もう二度と起こって欲しくない。こちらの世界を、あちらの世界のようにしてはいけない。
もう何も、失いたくなんて無いのだ。
そんな椿の心情をよそに、長井は説得を続ける。
「何か望みはある?」
「いきなり何ですか?」
「原作を知らないあなたには、原作を変えることに対するメリットが何もないことに気付いたの。出来る限り、あなたの希望に添うような報酬を用意するわ」
「………………あなたたちが、大人しくしていてくれることが何よりの報酬です」
「それは出来ない。私達は未来を変えるわ。私達は本気なの」
「本気だから、協力できないんです」
趣向を変えてきた長井に、椿は素っ気ない態度を示す。
欲しいものなんてない。ただ、何もしないでいて欲しい。今の椿には、彼の首を落とす力なんて無いのだから。改編された歴史を正す術なんて持ち得ないのだから。
「何を言われても、何を差し出されても、私はあなたたちに協力なんて出来ません」
失礼します、と言い置いて、椿は休憩室に入り、襖を閉めた。
襖にもたれかかり、ずるずると座り込む。顔を覆って、椿は重い息を吐き出した。
(今日は早めに休もう……)
疲れたな、と重い身体を引きずって立ち上がる。自分の荷物を探して首を回し、椿は硬直した。
鞄が壊れていたのだ。明らかに悪意を感じさせる、人為的な壊れ方で。
(こちらもこちらで、拙いことになっているな……)
壊れた鞄を前に、椿は嘆息した。
椿へのいじめという名の犯罪行為は過激さを増している。悪い噂は誰かが意図的に流しており、持ち物がなくなることも多くなってきた。そして、ついには持ち物が壊され始めたのだ。
おそらく悟に目を掛けられている事が気に食わない人物の仕業だろう。椿が「悟に気に入られたくて、他人の仕事の成果を奪っている」など、悟が自分と関わることを嫌悪するような内容が目立つのだ。
年嵩の使用人達は「またか」というような態度で、中立の立場を貫いている。長年勤めていると、こういったことはよくあることなのだそうだ。
中には椿の味方であることを匂わせてくる者もいたが、「いじめる方もいじめられる方も、不和を産んだ下手人」という態度の者もいる。後者の態度を取る者の中には、椿をストレスのはけ口にしようとする者も出てくる始末だった。他の者もやっているのだから、自分もやっていいだろう、と言う魂胆なのだ。今のところ、暴力などは振るわれていないが、このままの状態が続けば、いつ最悪なことになってもおかしくはない。
(勘弁してくれ……)
ぐちゃぐちゃになった荷物の前で、椿は今までのことを振り返る。
悟に関わったことが悪いのだろうか。楽しいことなど何もないと言わんばかりの顔をした悟を、放っておくことが正解だったのだろうか。
椿はそれを「否」だと判断した。見て見ぬ振りをしていたら、きっと自分は後悔しただろう。だからきっと、あの日の選択は間違ってはいなかった。自分にとっては正しいものだった。彼の顔に浮かんだ笑顔を見て、嬉しくなったのは事実なのだから。
そもそも、彼と関わったことを後悔したことはない。確かに苦労は増えたけれど、それを理由に自分の選んだ道を否定なんて出来ないのだ。
(証拠集めとかしておいたほうが良いんだろうけれど、どうやって集めておけばいいんだろう……)
とりあえず写真に納めておこう、と携帯を取り出して、パシャリと写真を撮った。そして携帯を仕舞い、鞄としての機能を果たさなくなった荷物を持って立ち上がった瞬間、休憩室の襖が開いた。
「ひっ!?」
中に入ろうとした女性が、椿の顔を見て悲鳴を上げる。相手はあまり見覚えのない女性で、包帯を巻いた手首を庇うようにして後退った。
そんな女性の様子に、椿は「ああ、彼女か」とすぐに合点がいった。
彼女は椿を貶めようとしているのだ。何故そんなことをしようと思ったのかは分からない。分かりたくもない。けれど確実に、椿の“敵”であることは確かだ。
女性と共に部屋に入ろうとしていた女性達が、椿に様々な視線を向ける。いじめの主犯だと確信した顔。まさかというような驚いた顔。何が起こっているのかと好奇心の隠せない顔。面倒くさそうな憮然とした顔。突き刺さるような視線が痛いけれど、椿は至って涼しげな顔をしてみせた。だって椿は、何もしていないのだから。
(さて、どうしたものかな……)
ひとまず帰ろう、と荷物を拾い上げ、一言挨拶だけを残して部屋を出る。背後から視線が追い掛けてきたが、それに気付かない振りをして、椿はさっさと帰路に着いた。