牛島若利の双子の片割れ






 牛島はこれ以上ないと思えるほど美しい光景を見たことがある。刀を見て涙を流す片割れ。そんな片割れを慈しむ神の姿。伸ばした手に、そっと手のひらが重ねられる光景。それは目の前で起きている事実であるはずなのに、酷く現実味が薄かった。絵画の中の光景とも、天上の景色を見ているとも思えるようなものだった。
 牛島がその光景を見たのは、まだ小学校に上がったばかりの頃のこと。父に連れられて初めて訪れた博物館。周りは初めて見るものばかりで、酷く日常離れした光景だと思ったのを覚えている。牛島は父の手を握りながら、父の後ろに身を隠すようにして展示品を眺めていた。
 一方で、牛島の双子の姉は、父に一言言い置いて、どんどん先に進んでいった。まるでその先にあるものを知っているかのようだった。引き寄せられるように、あるいは導かれるように小さくなっていく背中を、牛島は追い掛けた。
 片割れは牛島の半身であると認識しているが、自分とは別の人間であることも理解している。牛島とは別のものが好きで、牛島とはやりたいことが違っていて。けれど牛島のことをよく理解していて、いつだって味方をしてくれた。だから牛島も、そうしたいと思ったのだ。片割れの好きなものを知って、理解を示して、彼女の傍に寄り添いたいのだ、と。
 そう思って片割れの背中を追い掛けた先にあったのは、日本刀の展示コーナーだった。それは別の博物館や美術館から借り受けて、一時的に飾られているものであった。ライトを浴びてきらめく刃を、片割れは心を奪われたように見つめていた。そのとき、「ああ、これが片割れにとって、俺の中のバレーボールに位置づけられるものなのか」と漠然と理解した。それほどまでに懸命に、網膜に焼き付けるように一心に見つめていたのだ。美しく、たくましい鋼の塊を。


『―――――おや、随分と幼い客人だな』


 ふと、自分たち以外が存在しないはずの空間に、男の声が響いた。父ではない、聞き覚えのない声だった。きょろ、と視線を走らせるも、やはり誰の姿も見当たらない。けれど片割れにはその姿が見えているのか、刀の置かれた台座の、その奥を見て目を瞠っていた。何が見えるのかと、牛島も必死で目を凝らす。そうしてやっと、そこに美しい男が座っているのが見えた。
 藍色がかった濡れ羽色の髪。しゃらり、と金の房飾りが揺れている。月が浮かんだ夜空のような瞳。人とは思えないような、圧倒的な美貌。いっそ暴力的なまでの美しさを誇る男だった。
 否。きっと人ではない。向こう側が透けているようにすら見える、淡い存在だった。けれど、同級生達が怖がるような、幽霊や化け物の類いとは思えない。どちらかと言えば神様のような、本来ならば手の届かない存在の類いに見えた。
 片割れの瞳から、ぽろりと涙がこぼれ落ちる。はくはくと開かれた口からは吐息ばかりが漏れるばかりで、言葉になることはない。それでも何かを伝えたいと言わんばかりに伸ばされた手に、男がそっと手を差し伸べた。硝子越しに、二人の手が重なる。大粒の涙をこぼす片割れを、男が愛おしそうに見つめていた。


『あなや。俺の姿が見えているのか』
「ぁ……、っ、ああ……っ! 見えて、いるとも……。ひ、ひっ、瞳の中に、月がある……っ!」
『おお、それはそれは……』


 男が破顔する。あたたかいものだけを集めたような、柔らかい微笑み。時折、父と母が自分たちに向ける笑みと似ている気がした。
 男が何者なのか気にはなったが、それより気掛かりだったのは泣いている片割れのことだ。片割れが涙を流すことは殆どなく、こんなにも泣きじゃくっている姿を見るのは初めてだった。声をかけて慰めるべきか。けれども、この得も言われぬ光景に水を差すようなことは避けるべきか。そんなことをぐるぐる考えていると、片割れがふんわりと微笑んだ。花が咲いたような、牛島の大好きな、優しい笑みだった。


「会いたかったんだ、ずっと。会えてよかった、三日月宗近」
『そうか。俺も、おぬしに出会えてよかった』


 ―――――三日月宗近。後に判明することであるが、彼は刀に宿る思念体。付喪神という存在であった。
 そのときの牛島は、片割れの幸せそうな顔を見て、邪魔立てするような真似はするまいと、その光景を見つめることを選択した。なかなか戻ってこないことを心配した父が探しに来るまで、愛しげに細められた眼差しを、ずっと。







「どうしたの、若利くん。ずーっと刀ばっか見てるけど」


 聞き覚えのある声に声をかけられ、牛島は急速に現実に引き戻された。あの日のように展示された刀を見て、牛島はまだ幼き日の、遠い記憶を思い出していたのだ。随分と長いことそうしていたようで、学友でありチームメイトの天童が、心配そうに牛島を見つめていた。


「………天童」
「なぁに、見惚れてたの?」


 かっこいいもんネェ、と天童が声を潜めて笑う。場所が場所であるだけに、その笑みは微かなものだった。
 この日の白鳥沢学園の生徒達は、仙台市にある美術館に来ていた。美術の授業の一環として行われる、美術・芸術鑑賞を行うためである。この授業では美術品の鑑賞の他に、美術館で行われている創作体験に参加し、作品を作ることも含まれている。そして、その日の体験を通して得たものを感想文にまとめるまでが活動の一環であった。
 創作活動は二回に分けて行われ、先に先品作りを終えた牛島達は館内を見回り、展示品を眺めていたのだ。その中に、懐かしい思い出を想起させるものがあったから、牛島はそれに魅入ってしまっていた。
 あのときの、三日月宗近という刀ではない。けれど、あの日見たものと同じように、研ぎ澄まされた鋼は美しいと感じさせるものだった。
 懐かしさがそうさせたのか、隣にいるのが天童であるからか、牛島はゆっくりと口を開いた。


「……家族との思い出を、思い出していた」
「………それって、お父さんとの思い出?」
「いや、片割れとの思い出だ」
「……………片割れ?」
「ああ。俺の双子の姉の話だ」


 隣で刀を眺めていた天童の顔が、牛島の横顔を見つめる。大きな瞳がさらに大きくなっていて、こぼれ落ちてしまいそうだった。


「………若利くん、双子だったの?」
「ああ」
「……初めて聞いたんですケド」
「誰にも言っていないからな」


 キョウダイの有無を聞かれたこともない、と言う牛島を、天童は何とも言えない顔で見上げる。教えてよ、と拗ねた子供のような感情が生まれる。けれど、牛島は聞かれてもいないことを自分から話すようなタイプではない。それに、彼は「誰にも言っていない」と言った。「聞かれたこともない」と言う前に。それはつまり、意図して片割れの存在を隠していたと言うことになる。


「………仲悪いの?」
「いや、仲は良い。だが、片割れは父に引き取られたので、ここ数年会ったこともなければ、話したこともない」
「そうなんだ………」


 それは問われても返事に困るからだろうか、と考えて、それは否だと判断する。聞かれて困ることでも、彼は隠し立てしたりしない。そもそもとして、聞かれて困るということが殆どないのだ。後ろ暗いことなど何一つないと言わんばかりに、何事にも超然としているのが牛島若利という男だった。
 仲が悪い訳ではない。けれど、誰にもその存在を告げてはいない。それには一体、どのような意味があるのか。
 けれど、それは聞くべきではないと思った。知りたくないわけではないけれど、自分の好奇心を満たすために聞いても良いことではないと、それだけははっきりと分かったから。聞くならばもっと別のことだ。いつになく柔らかい眼差しを曇らせるような、無粋な事を尋ねてはいけない。


「……聞いてもいい?」
「ああ、なんだ」
「若利くんの片割れちゃんってどんな子?」
「………一緒に暮らしていたときのことなら答えられるが、今、どのように育ったかは分からない」


 牛島が目を伏せる。彼の両親が離婚したのは、まだ小学生の頃だった。何が理由で二人が別れ、双子がバラバラになったのかは分からない。けれど、何となく自分たちに理由がある気がしていた。そうであるから、牛島は母に父と片割れの所在を聞けずにいた。漠然と、海外にいることくらいしか分からない。故に、今の彼女がどんなものを見て、どのように風に生きているのかまるで分からない。ただ、健やかであれば良いと願っている。自分の知る彼女は、どこでだって生きていけるし、何にだってなれる人間だから。
 目を閉じて、言葉を探している牛島を、天童はじっと待っていた。やがて、牛島の瞼が持ち上がり、オリーブの瞳が天童を捉えた。


「だが、一つだけ変わらないだろうと確信しているものがある」
「それって、どんな?」
「諦めの悪さだ。それだけはきっと、どんなことがあっても変わらないだろうな」


 そう言って細やかな笑みを浮かべた牛島に、天童が僅かに目を瞠る。ぽかんと半開きになっていた口元が、ゆるゆると弧を描く。


「……ふふ、頑固な子なんだろうネ」
「ああ。あいつは、自分の“好き”に嘘がつけない。己の愛するものを諦められない。そうやって自分を貫く姿勢は、天童と似ているかも知れない」


 牛島の家は、そこそこ歴史のある家だ。由緒正しい、という枕詞が付くような家である。そのためかは分からないが、少しばかり古くさい考え方が根付いている家でもあった。嗜むならば華道。趣味は料理に裁縫。女の子は女の子らしく。奥ゆかしい大和撫子であるべき。そう言った考えを持つ者も少なくはなかった。故に、姉が刀に興味を示すことをよく思わない大人は大勢いたのだ。けれど、牛島の片割れはいくら諭されても、叱られても、刀を好きでいることを止めなかった。
 叱られて、部屋で反省するように言われた姉の元をこっそりと尋ねたとき、「上手くやれなくてすまない」と彼女が苦笑したのを覚えている。けれど、それ以上に印象的だったのは「“好き”に嘘をつけない」と、まっすぐに牛島を見つめていた力強い眼差しだ。誰に何と言われても諦められないのだと、刀を愛することを止められないのだと、光り輝く瞳が美しかった。
 自分の気持ちの良いバレーがしたい。そのためにここに来た。あのときの姉の眼差しと、バレー部に入部した当初、そう宣言した天童の眼差しが重なって見えたのだ。確固たる信念を持った、強い人間の瞳。その瞳を見て、酷く高揚したのを、まるで昨日のことのように思い出せる。


「買いかぶり過ぎじゃない? 確かに、俺は俺のこだわりを曲げることはしないケドさ」
「誰かに否定されても、誰に受け入れられなくても、一つ決めたことを曲げない強さは、誰もが持てるものではない」


 誇って良い、と言外に言われた気がした。
 否、牛島が、そんな自分を誇ってくれている。仲間として、同じコートに立てることを喜んでくれている。キラキラと輝く瞳は、この美術館に展示されている数々の美術品にだって負けない美しさを誇っていた。


「諦めないというのは、口で言うほど簡単なことではない。周囲が砕こうとしてくる中で、それでも尚、折れずにいられる精神は、稀有で尊いものだ」


 白鳥沢に来るまで、天童はあまり周囲と馴染めていなかったのだと言うことは、鈍いと言われる牛島にも分かった。リードブロックを推奨されている現代において、ゲスブロックをする選手はいい顔をされないのだ。レシーブの邪魔になるだとか、ハイリスクであるとか、そう言った理由で敬遠されている。
 けれど天童は、そんな周囲の圧を押しのけてここに来た。出る杭を打とうとする人々に屈せず、自分の強さを示したのだ。それは彼が、自分の信念を、自分の好きなバレーを諦めなかったからに他ならない。


「天童。諦めないでいてくれてありがとう。―――――俺と出会ってくれて、ありがとう」
「わ、わかとしくん……」


 彼と出会えたことで、己は成長できた。彼を通して得た知識は、自分の世界を広げてくれた。天童が与えてくれなければ、ただ通り過ぎていくだけだったもの。自分だけだったら気付かないまま置き去りにしてしまっていたはずのものを、彼は一つ残らず拾い上げて、牛島の手の中に収めてくれたのだ。
 彼と出会えたことは、牛島の人生の中でも屈指の幸運だ。天童は牛島の心に残る、父の言葉を証明しているような存在だった。


「それは、こっちの台詞だよ……」


 目頭が熱くなるような感覚を覚えながら、天童が言葉を絞り出す。


「俺、白鳥沢に来てよかった。俺と出会ってくれてありがとう、若利くん」


 そう言って笑う天童に、牛島の胸にあたたかなものが宿る。くすぐったいような、照れくさいような。けれどきっと、大切にするべきもの。
 その気持ちがなんなのかはまだはっきりとしないけれど、そう遠くない未来に、その正体を知る日がやってくる。そうしたら名前を付けて、大切に育むのだ。


「片割れちゃんにも会ってみたいな。若利くんの大切な子」
「ああ。俺も、是非会って欲しい」


 いつか片割れに、天童を紹介したい。自分の大切な人に、自分の特別な人を、たくさんのものを与えてくれた人を知って欲しい。
 二人は自分が笑えば同じように笑ってくれる人達だから、三人で笑い合えたら、きっと幸せだろう。そんな未来が来ることを想像して、牛島は笑った。




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