普通の女の子に憧れる姐さん
清庭椿
稲荷崎高校所属。
三年連続で北と同じクラス。
部活必須ではないため、特に所属している部活はない。
色々な部活に混ぜて貰ったり、マネージャーなどの助っ人をしている。
親の転勤で兵庫に移り住んだため、基本的に標準語を話す。
流石に三年目となると、イントネーションなどが関西弁になりつつあり、稀に関西弁が飛び出すことも。
日常生活ではおっとりしているため、クラスメイトからはマスコット扱いを受けている。
そのため「つーちゃん」やら「さにー」やら、好き放題呼ばれている。
前世が凄絶すぎたため、たくさんのものが欠落している。
前世に大切なものを全ておいてきてしまったため、無垢な子供のような部分がある。
取り落としたものを取り戻すために、普通の女の子になりたいと願っている。
前世と比べて平和な世界に身を置いているため、気の抜けた状態で居ることが多い。
そのため、割と無防備でぽやぽやしている。口調も幼い。
大学には殆ど通えなかったので、今世こそは大学まで卒業したい。
愛は知っているけれど、恋は知らないので知ってみたい。
何も奪われず、失わない世界で、何の憂いもなく過ごしてみたい。
そんな願いを胸に、平和な世界を生きている。
………普通になるために頑張ることが、まずおかしいということには気付いていない。
***
清庭椿には、前世の記憶というものがある。歴史改変を目論む輩と、戦争をしていた記憶だ。
その記憶でも、椿は“椿”という仮の名を与えられ、審神者と言う職に就き、大勢の部下を率いる軍師をしていた。部下、もとい刀剣男士という、神の軍勢を率いて、歴史修正主義者なる者達を相手取っていたのだ。
けれど、それは遠い過去の記憶。その記憶は椿にとって何よりも大切で、己の根幹を為すもの。だが、平和な世界においては、不要なものが多すぎた。平和を享受して生きるには、あまりにも血腥さ過ぎたのだ。平穏な日常を、年相応に生きて欲しいと願った、刀剣男士達の願いを叶えるためには。
だから椿は、その記憶を宝箱に仕舞い、大切に大切に保管した。心の奥の、何よりも深いところに。そうすることでようやっと、“普通の女の子“として生きて行く準備が出来たのだ。
……それでもやっぱり、椿は変わった子であったけれど。
学校に着き、自分のクラスに向かって歩いていると、様々な人間に声をかけられる。クラスメイト、隣のクラスの生徒達。お手伝いをしに行った部活の先輩。一人一人に挨拶を返し、教室に入る。ドアを開けた音に気付いたクラスメイト達が、笑顔で椿に手を振った。
「おはよう、つーちゃん。忘れもんしてないか確かめた?」
席に着き、鞄の中身を片付けている椿に声をかけたのは、クラスメイトの中居という少女だ。彼女は下に四人の弟妹がおり、椿のような手の掛かる人間を構わずには居られないのである。椿の髪が顔に掛かっていることに気が付くと、中居が慣れた手つきでさっと直す。弟妹にも同じようにしているのを伺わせる仕草だった。
「おはよう。確かめたけど、問題なかったよ」
「ならええんや」
偉いね、とポンポンと頭を撫でられ、椿が口元を緩める。淡い微笑みを浮かべる椿に、中居もにっこりと微笑んだ。
男子生徒にも劣らない高身長。実は誰が構うことなくとも問題ないしっかり者。むしろ、椿はクラスの中でも大人びた生徒だった。それでも子供のような扱いを嬉しそうに受け入れる姿に、ついついみんなが甘やかしてしまうのだ。
大きいのに怖くなくて。キリリと格好良い見た目なのに穏やかな気性で。クールに見えて、ふにゃりといとけなく笑み崩れる。同い年の女の子なのに、どうしてだか甘やかさなくてはいけない気分にさせるのだ。
「そや、お菓子食べる? これ、おすすめやで」
「食べる」
にぱ、と笑顔の花を咲かせる椿の手に、チョコレートを二つ。早速包みを開けて口に放り込んだのを見て、後ろの席の少年が苦笑した。
「さにー、朝からよう食べるなぁ。朝飯食ってこんかったんか?」
「おかわりしてきた」
「食い過ぎやろ! 腹壊すで!」
ぺしり、と軽く頭を叩かれる。全く力がこもっていなくて、一瞬手を置かれたような感触。けれど椿は、やや大袈裟に痛がってみせた。
「痛い。絶対たんこぶ出来た。いしゃりょうをヨーキューします」
「めっちゃ棒読みやんけ! ボケるんならちゃんとボケェ!」
「そう言いつつ慰謝料払っとるんやから、ボケが渋滞しとるで」
慰謝料こと、小さなクッキーを受け取って、ぱきりと半分に折る。一口で口に入るサイズに割って、欠片を口に収めた。まだ食うんかい、と後ろの席の品川は、力なく突っ込んだ。
そこに、バレー部の朝練を終えた北が、椿の隣の席に腰を下ろす。三人のやり取りを聞いていたのか、その口元には笑みが浮かんでいた。
「おはよう。何や、朝からええもん貰ったんやな?」
「うん、おいしい」
「でも、ちゃんとした飯食わなアカンで?」
「食べとるよ。私が大食いなん、知っとるやろ?」
「そうやぞ、北! こいつ、朝からおかわりまでしとるんやぞ!」
「食わんよりええやろ」
それにしたってやなぁ、と品川が言い募ろうとするのを遮って、中居が高い声を上げる。
「ていうか、何やの、その取って付けたような関西弁! つーちゃんやなかったら許さへんで!」
「すまない。使ってみたかったんだ」
「ええよ! そのまま関西弁に染まり!」
「うん」
親の転勤で兵庫に来て半年。まだまだ関西弁には馴染みがない。方言や聞き慣れない表現に首を傾げること多数。けれど、スポーツ推薦で全国から生徒を集めるだけあって、そういう生徒は存外多く、分からない事を聞きやすい環境であった。また、クラスメイトが落ち着いた生徒が多いというのもあるだろう。聞けば教えてくれて、それを嫌がられないというのは、他所の県から来た生徒には大変心強いことだった。
良いクラスに入れたなぁと椿が笑えば、釣られたように、北達も笑った。
***
前世の椿は、それだけを見ていればよかった。それだけを見ていたいと思うものがあった。けれどそれらは、全て過去に置いてきてしまった。
今世の自分は、何を見つめれば良いのだろう。それだけを、刀剣男士だけを見ていればよかった過去とは違う世界で。彼等が居ない世界で。
前世の椿は、彼等と共に在れればよかった。そのためならどんな苦難だって乗り越えられた。けれどそれらは、今世にはないもの。
今世の自分は、一体何がしたいのだろう。彼等と共に居るために戦いに明け暮れる前世と違って、この世界はあまりにも平和だ。彼等が居なくとも回る世界で、一体何をしたら良いのだろう。
やってみたいことが無いわけではない。普通の女の子になってみたい。前のときはきっと、そうではなかったから。けれど、普通の女の子ってどうやったらなれるのだろう。
(春霞さんや撫百合さんは、きっと私より普通の女の子に近かった)
おっちょこちょいで、ほんのちょっぴり怖がりで、でも明るく優しい女の子だった春霞。おしゃれが好きで、パステルカラーのマニキュアがよく似合っていたのを覚えている。彼女は加州や乱とよく万屋に出掛けていて、かわいらしい持ち物で溢れていた。
誰もが振り返るような美しさを持っていて、けれど謙虚で努力家だった撫百合。真っ赤な口紅が白い肌によく映えていて、いつまでも見ていたくなるような少女だった。けれど、彼女が一番可憐だったのは、恋に瞳を潤ませて、頬を薔薇色に染めたときだった。
どちらも、椿にはないものをたくさん持っていた。椿が取り落としたものを、彼女達は大事に抱えていたのだ。それが出来るだけの強さを、彼女達は持っていた。それは、椿にはなかったものの一つだ。
(おしゃれをしたり、恋をするのは、きっと私くらいの年齢なら普通のことだ)
けれど椿は、その経験が無かった。前世の椿は、刀剣男士への愛で満たされていたから。
かつての椿が向けていた愛は、今世ではどこへも向けようがない。何せ彼等は椿の元には居ないのだから。故に、向けるとしたら別の何かに向けるしかない。
けれど、何に向けたら良いのだろう。今世の椿には、何もない。
(そう言えば、彼は凄く綺麗な目をしているよなぁ……)
つい、と視線を動かす。その先には、一人の少年が座っていた。毛先の黒い銀色の髪。色素の薄い瞳。バレー部に所属する、北信介である。彼はたまに、椿を見て目を細めるのだ。眩しいものを見るような、尊いものを見るような。見られているこちらが、面映ゆい気持ちになってしまうような眼差しで。
彼にはきっと、大切なものがある。かつての自分が持っていたような、何物にも代えがたいもの。けれど、彼の眼差しは撫百合がかつての自分に向けていたものによく似ていて、大切だけれど、己が抱えていたものとは種類が違う。
椿の視線に気付いたのか、北が顔を上げる。彼は椿と目が合って、僅かに目を瞠った。けれど、その目はすぐに柔らかく弧を描き、口元にもささやかな笑みが浮かぶ。
「どないした?」
「うん、君の瞳を見たくて」
「ひとみ?」
「うん」
子供みたいないとけない返事をして、椿がじっと北の瞳を見つめる。気になるものを見つけた幼子のような無垢な瞳に、北は僅かに仰け反った。キラキラと輝く黒い宝石の瞳に見つめられると、気圧されるような、緊張するような、何とも言えない心地にさせられるのだ。思わず目を伏せると、きゅ、と袖口を掴まれる。人一人通れる分だけの間隔を開けた隣の席は、手を伸ばせば簡単に届くのだ。
指を引っかけるように掴まれた袖は、少し腕を動かせば簡単に解けるだろう。けれど、そんな指先をどうすることも出来ず、オニキスの瞳ともう一度目を合わせた。
「そ、そんな気になるもんか……?」
「うん。君は何だか、綺麗な目で私を見るなぁと思って」
―――――嬉しいから、もっと見たい。
そう言って、椿の顔がほころぶ。無邪気で純粋な笑みは、野花を思わせるものだった。
ぶわ、と北の顔が赤く染まる。冷静沈着を絵に描いたような北とは思えない顔色に、けれど椿は気にも留めない。
「さにーはほんま、人たらしやなぁ……」
「椿ちゃんってば、罪作りなんやから……」
「北も大変やなぁ……」
二人のやり取りを見ていた周囲は、盛大にため息をついた。
クラスメイト達は、北のバレバレな好意を心の底から応援しているのである。何せ彼は、とても良い人なので。
***
北信介は、厄介な相手に恋をしている。想いを寄せる相手は、同じクラスの清庭椿という少女である。
彼女は男子生徒すらも見下ろしてしまう長身で、平均身長より少しばかり高い北よりも目線が上だった。切れ長の目元が涼しげで、美形と呼んで差し支えない容姿。その上、透き通るような声がとんでもなく美しいと来た。清庭椿という少女は、高嶺の花と呼ぶに相応しい存在だった。
しかし、そのような見た目であるにも関わらず、中身は酷く無垢でいとけない。この世にはびこる穢れなど知らないというような、犯しがたい純粋さを持っていたのだ。
出来る女の見本のように見えて、実はおっとりとしたのんびり屋さんで。クールに見えて甘やかされるのが好きで。おやつを与えれば無邪気に喜んで。子供のように扱っても素直に受け入れて。けれど、その実誰よりも達観していて、円熟の境地に至ったような顔を見せるときがある。
あまりにもチグハグ。噛み合わない属性。けれど、それら全てを内包しているのが椿だった。北が気になって仕方がない少女だった。
(何なんやろうなぁ、あの子は……)
最初に椿に目を向けたのは、そのギャップの凄まじさだったような気がする。中性的な美形。聞き心地のよい声。けれど、ちょっとした仕草が酷く幼くて、笑った顔がいとけなくて。ダイエットなんて知らないと言わんばかりによく食べて。髪を撫でると嬉しそうに目を細めて。
そうして目で追っているうちに気付く姿勢の良さ。字の綺麗さ。所作の美しさ。子供のようなのに、けれど誰よりも大人びた少女だった。
花が生けられた花瓶の水を替えたり、消し忘れられた黒板を消したり。体調が悪い生徒に真っ先に気付くのは、いつだって彼女だった。困っている人が居たら、何の躊躇いもなく声をかけるのも、いつだって彼女が一番始め。彼女が動いて、ようやく周りが気付くことが多かった。
(ほんま、綺麗な子なんよなぁ……)
見た目も、中身も。彼女は清く正しくて、北はそっと息をついた。感嘆の混じったため息だった。
彼女はクラスでは、マスコットのような存在として扱われている。大きくて、のんびりしていて、食べることが大好きで。甘やかされるのが大好きで、それを表に出せる素直さを持っている。そんな子供のような一面を、誰もが微笑ましいものとして受け入れているのだ。
けれど、北のように特別な好意を寄せるものも確かに居るのだ。彼女の良さに気付く人間はごく僅かだったが、気付かれたら最後、誰もが彼女に魅了されてしまう。クラスメイトの中にライバルが居ないことが唯一の救いだった。
(来年も同じクラスやとええんやけど……)
まだまだ残暑が厳しい季節のことである。それでも、たった三年間しかない高校生活を、少しでも長く好きな人と過ごしたい。そう願うのは至極当然で、傍にある未来を願うのに、早いも遅いもないのである。
***
「清庭さん、流石にこれは断ってもええと思うで?」
北と椿は、数学の授業で使用した教材と、提出物を持って廊下を歩いていた。彼等の授業を受け持つ数学教師は、授業は分かりやすいけれど、生徒にお使いを頼むという難点があるのだ。次の授業で教室を移動しなければならないときや、体育が控えていてもお構いなしに使い走りを頼むので、「それさえ無ければ」と生徒達に愚痴を吐かれている教師であった。
今回の授業終わりも、教師は大量の提出物の運搬と、教材の返却を命じて自分はさっさと教室を出て行ってしまった。指名されたのは椿一人で、彼女も簡単に引き受けてしまったのである。たいした手間ではない、と。一度で運べないなら往復すれば良い、と。そんな彼女を見かねて手伝いを申し出たのが北だったという話である。
北と椿の二人がかりでようやく運べる量の運搬は、男子生徒でも些か厳しいものがあった。それを女子生徒一人に任せるのはどうなのだと、北が僅かに眉を寄せる。けれど椿は、なんてことないようにほけほけと笑っている。
「別に運ぶだけだし、大したことじゃないよ。でも、手伝ってくれてありがとう」
「大したことやで。どう見ても一人で運べへんもんを、女子一人に任せるんは、許容したらアカンことやろ」
「そっか」
憤りを滲ませた言葉に、椿は僅かに眉を下げ、目尻を緩めた。
「あんまり女の子扱いされないから、何だか新鮮だなぁ。ふふ、変な感じがする」
「清庭さんは女の子やろ」
「ふふふ、ありがとう」
確かにそうかもしれない、と北はクラスでの様子を振り返る。彼女の扱いは“女子生徒”と言うよりも、“キャラクター”の扱いだ。テーマパークの着ぐるみを愛でるように、清庭椿というマスコットをかわいがっている。それは確かに“女の子扱い”ではなくて、北が椿にした対応は、珍しいものなのかもしれない。
自分は違うぞ、と言いたかった。自分は彼女がそういう風に愛されるキャラクターを獲得する前から、ずっと女の子として見ていたのだから。
「北くんにとって私は、女の子なんだな」
―――――そうやで。他の奴らみたいに、マスコット扱いなんてしてへんからな。
そう言いたい北だったけれど、好いている人からの指摘は何だか恥ずかしくて、言葉を口にする余裕なんてなかった。赤くなっているであろう顔を見られまいと、ほんの少し俯くことしか出来ない。
そんな北に気付いているのかいないのか、椿は、いつものように朗らかに笑っていた。
***
北が危機感を覚えたのは、部活終わりの雑談で「清庭さんってどんな子?」と聞かれたときだった。尋ねたのは赤木で、それは同じクラスの北に向けられたものだった。
「………清庭さんがどないしたん?」
「俺がどうって訳やないんやけど、クラスの奴がええ子や言うてたから気になってな」
清庭さんが好きなんやろうなぁ、と赤木が朗らかに笑っていた。けれど、椿に想いを寄せる北は笑えない。
椿が密かに人気があるのは知っていた。けれど、誰それに告白をされただとか、そう言った話題が聞こえてきたことはなかったのだ。だから、危機感と言うほどの焦燥を覚えたことがなかったのだ。彼女が誰かのものになることはない、と。
「うちのクラスにもおるで。清庭さんのこと、ええなぁ言うてる奴」
「俺も聞いたことあるで」
「なんや、結構人気なんやなぁ」
「よう見たら結構美人やで。俺は背ぇ低い子が好きやで、対象外やけどな」
対象外という言葉にほっとする。少なくとも、この場に椿に気があるものは居ないようだった。
けれど、少しモヤモヤする。自分のクラスのものを応援する素振りを見せる者や、好奇心が首を擡げる様子を見せる者がいたからだ。
誰かを応援するのは別に構わない。誰かの後押しがあろうとなかろうと、結局選ぶのは椿なのだ。彼女に「いいな」と思われるかどうか。それが全てである。
「―――――そんで、実際のとこどうなん?」
再度、赤木が北に声をかける。この年頃の者ならば至極当然なのだが、異性に対する興味が見て取れる。それを見るのが嫌で、北はそっと目を逸らした。
「そやなぁ……」
逡巡する。彼女の良いところなんて、誰にも教えたくはない。きっと自分以外にも椿の良いところを知っている人は居るだろうけれど、それをわざわざ広めたくはない。
逡巡する。けれど、これは良い機会なのではないかとも考える。自分が、彼女に想いを寄せていることを示唆するのに都合が良いのではないか、と。
僅かな沈黙の後、北が微かに笑みを浮かべた。
「綺麗な子やで。スラッと背が高くて、姿勢が良くて。困ってる人が居たら手ぇ貸してるのもよう見るな」
「信介から見てもええ子なんやな」
「そやな。のんびりしてて、食べるのが好きで、甘やかされるのが好きで。そんで、笑った顔がかわええんよ」
―――――俺も好きやで、あの子のこと。
恋とも、友愛とも取れるように、何でもないことのように告げる。気付いたものは驚きに目を瞠り、少しばかり鈍いものは困惑したような顔をしていた。
ずるいことをしている自覚はあった。これから先、彼等の中にも椿に好意を持つ者が出てきても、自分の顔がちらつくように願って言ったのだから。北信介という男が彼女を見ているのだと、それを理由に足踏みしてくれるだろうことを計算に入れて宣言したのだから。
「さ、そろそろ帰ろや。鍵当番の先輩が困ってまうさかいな」
そう言って着替えを促すと、バレー部の面々は慌てて着替えを手に取った。
***
バレー部の面々と昼食を摂り、教室に戻ってきた北は、既に自席に着席している椿をチラリと伺った。椿はいつもにこにこしているけれど、昼食を摂る前よりも機嫌が良さそうで、何かあったのだろうか、と内心首を傾げる。何か嬉しいことでもあったのだろうか。そうであるならば、何故自分はその現場に居合わせることが出来なかったのだろう、と少しだけ落胆する。好きな子の笑顔は、いくら見たって良いものなのだ。花が開くように笑み崩れる様は、何度だって見たいと思わせる。
思い切って理由を聞いてみようか、と椿の方を見て、ふと指先の変化に気が付いた。
「あれ、清庭さん、爪に何か塗ってるんか?」
「あ、気付いた? 実はしのちゃんが塗ってくれたんだ」
北の指摘に、椿の顔がぱっと輝く。それから品川のさらに後ろの席を示す。しのちゃんこと東雲がにこりと笑ってピースサインを向けた。
東雲はおしゃれ好きな女の子である。特にマニキュアを塗るのが好きで、将来はネイリストになりたいと考えているのだとか。いつも誰かしらに「爪を塗らせて欲しい」と頼み込んでは自分の考えたデザインで爪先を彩る。センスも良いので、なかなかに好評だった。今回彼女の目に留まったのは椿で、椿もそれを受け入れたという話である。もちろん校則違反なので、教師に見つかったら怒られてしまうのだが、華の女子高生はおしゃれが最優先なのだ。
見てみて、と言わんばかりに、椿が北に指先を見せる。椿の爪はベージュがかったピンク色で塗られており、両手の薬指だけ、白い花が描かれていた。
椿には珍しく、はにかむような笑みだった。ほんのりと頬が色づいていて、かわええなぁ、と北の口元が綻んだ。
「よう似合てるよ。清庭さんは赤色のイメージあったけど、こういう色もええなぁ」
「ありがとう」
ふふ、と小さく笑った椿の頬の色味が増したような気がして、北は思わず椿の髪をわしゃわしゃと撫でた。そうでもしないと、緩みきった顔を見られてしまいそうだったので。
***
夏の名残が過ぎ去り、寒さが目立つようになってきた頃、稲荷崎の生徒達は体育館に集合していた。所謂、全校集会というやつである。体育館には秋の冷たい空気が入り込み、生徒達は身を寄せ合って暖を取り合っていた。
「うぅぅ……。なんでこんな寒い中で集会なんてせなあかんのや……。校内放送でやればええやろ……」
「確かに寒いなぁ……。まだ暦の上では秋なのに……」
暖を取るためにこっそりと順番を入れ替わり、女子生徒は女子生徒で、男子生徒は男子生徒で塊を作る。椿もクラスメイトと肩を寄せ合い、手を握り合っていた。
「大丈夫か? 顔色悪いで?」
「心配してくれてありがとう。体調は悪くないから、大丈夫だよ」
「そうか? 体調悪なったら、早めに言うんやで?」
「うん」
前に座る北が椿を振り返り、寒さで白んだ顔色を指摘する。もともと色白なこともあって、血色が悪くなると、より一層その白さが際立ってしまう。具合が悪いのかと不安になってしまいそうな顔色に、北が思わず手を伸ばす。指先で頬を撫でると、その肌色に見合った冷たさで、眉間に皺が寄る。再度体調について尋ねようとしたとき、椿の手が北の手に重なり、そのまま頬に押し付けられた。
「あったかい……」
滑らかな頬の感触が手のひらにダイレクトに伝わる。細い指先が北の手に添えられている。微かな吐息が手のひらをくすぐった気がして、ヒュッと息を呑んだ。
―――――これは流石にアカンのとちゃうか。そう思うけれど、振り払える訳もない。
ふにゃふにゃに緩んだ顔があまりにも無防備で。けれど、安心しきった子供のような表情をしていて。振り払うことはもちろん、咎めることも出来ない。集会が終わるまでの数十分、北はひたすらにカイロに徹し続けたのだった。
***
それは12月に入ってすぐにことだった。登校してきて、机の中に教科書を入れようとした椿がふと首を傾げた。見覚えのないものが混じっていて、机の中に手を入れて取り出す。出てきたのは、一通の手紙だった。
表と裏を交互に見てみるが、宛名は書かれていない。本当に自分宛のものだろうか、と手紙を見下ろしていると、世話焼きの中居が近寄ってきたのが目についた。おはよう、と挨拶を交わし、中居が前の席に腰を下ろす。前の席のクラスメイトはいつも予鈴が鳴る頃に来るので、座っていても問題ないのだ。
「つーちゃん、どうしたん?」
「何か入っていたんだ」
これ、と手紙を見せると、中居は驚いたように目を見開く。その正体を椿も察してはいるけれど、宛名もないものを開けることは出来ない。困ったなぁ、と眉を下げると、中居がその手紙を手に取った。
「………机の中に入ってたん?」
「うん」
「他にはなんも入ってない? 逆に盗られたもんは?」
「他には何も。盗られたものもないと思う」
「ならええんやけど……。開ける?」
「ううん、辞めておく。宛名もないのに、開けられない」
流石にそれがラブレターと呼ばれるものだという予想は付くけれど、表に名前を書けないような人の言葉など聞く価値もない。そもそも、時期的に考えて、クリスマスに向けて彼女を作りたいと考えたものの仕業だろう。彼氏がいない女子生徒に声をかけて、あわよくばというやつだ。何かしらのイベントが近づくとラブレターを貰ったり、告白を受けるけれど、大抵が恋人達のイベントを一人で過ごしたくないという見栄によるものだ。中には本気の告白というものもあったけれど、殆どが前者である。今回もそれだろうなぁ、と椿が小さく苦笑した。
中居が、先程とは別の意味を持って驚いた。
「見てみんの?」
「うん。だって、誰が寄越したのか分からないものなんて怖いだろう?」
「まぁ、せやね……」
そう考えると確かに怖い、と中居が納得する。では、これをどうするか、と考えていると、後ろの席の品川と、隣の席の北が連れたって教室に入ってきた。運動部に所属する二人は、朝練を終える時間帯が同じで、教室に来る途中で良く一緒になるのだ。二人は椿と中居が難しい顔をしているのに気付き、挨拶もそこそこに事の次第を伺った。
「ここで見てみんって選択を取るのがさにーって感じするわ……」
「まぁ、気持ちは分からんでもないな」
す、と北が手紙を持ち上げ、光に当てる。透けて見えた中身は、便箋らしきものしか入っていないようだった。
「俺等で確認するか? さにーが開けるんは怖いんやろ?」
「ううん。先生に渡す」
「……おん!?」
「だって、名前書かれてないのに開けちゃ駄目だろうし、私のじゃなかったら申し訳ないから。だから、先生に対処して貰う」
そう言ってかわいらしく笑った椿に、品川は盛大に顔を引きつらせた。逆に、斜め前のクラスのマドンナは目を輝かせて椿を見つめた。彼女は学年一かわいいと言われている女子生徒で、この手のラブレターにはほとほと手を焼いていて、対処に困っていたのである。先生に丸投げする、と言う発想は目から鱗が落ちる思いだったのだ。
「それええなぁ! 宛名ない手紙なんて怖いし、嫌がらせの手紙の時もあるし、怖くてよう開けられんよなぁ! うちもそれ真似してええか!?」
「もちろん。でも、嫌がらせの手紙が入っていたときは、ちゃんと回りに言って欲しかったな」
「気にせんで。直接言えへんような輩なんて怖ないわ。でも面倒くさいねん。処分するのにも気を遣うし」
マドンナこと南雲はそう言って肩を竦める。かわいらしい見た目と裏腹に、なかなかに気の強い少女である。
「まぁ、それが一番ええやろ。学校内での事は、学校側に責任もって貰えばええ」
「そやな。先生が把握してくれてるんなら、安心やしな」
北と中居が賛同し、丁度ホームルームの為に教室に入ってきた担任に目を向ける。一斉に視線を向けられた担任教師は何事かと目を丸くした。そうして押し付けられる手紙に頭を抱える事になるまで、あと五秒。
***
北がその光景を見たのは、とある休日のことだった。監督やコーチの都合で午前中のみで練習を終えた日、いつもより早い時間に帰路に着いた北は、帰り道の途中で見知った顔ぶれを見掛けたのだ。自身の祖母と、クラスメイトの椿である。
一体何があったのか。一体どういう組み合わせなのか。そもそも何故椿がここにいるのか。流石の北もこれには動揺し、視線を彷徨わせる。
「あれ、北くんだ」
どうしたものか、と狼狽えていると、北に気付いた椿が明るい声を上げた。椿の言葉に振り返った祖母の結仁依が、パチリと目を瞬かせる。
「あらぁ、信ちゃん。こちらのお嬢さんとお知り合いなん?」
「ばあちゃんこそ、どないしたんや」
「それがねぇ、ご近所さんとおしゃべりしてたら、みんなぎょうさんお土産くれはってな。大荷物で困っとったときにこの子が通りかかってくれてなぁ。荷物持つの手伝ってくれたんよ」
にこにこと笑う祖母の言葉に椿を見れば、確かに大きな荷物を抱えている。小柄な祖母では抱えるのも大変だろう。困っている人を放っておけない椿ならば、声をかけてしまうのが容易に想像できた。
「そうやったんやな。すまんな、清庭さん。うちのばあちゃんが世話になったわ」
「気にしないで。それより、北くんのおばあちゃんだったんだな」
「荷物は俺が持つわ。重いやろ?」
「大丈夫だよ。おばあちゃんがまだ荷物を持っているから、そっちを持ってあげて」
椿は平気そうな顔で朗らかに笑うけれど、北とて年頃の男の子である。好きな子の前で格好付けたい男心があるのだ。椿の手から荷物を取り上げ、結仁依の手から荷物を受け取る。自分の荷物もあるから、流石に少し重かったけれど、持てない重さではなかった。
突然軽くなった腕に椿が目を瞬かせ、結仁依があらあらと上品に微笑んだ。
「信ちゃん、力持ちになったねぇ。ありがとう」
「ええよ。清庭さんもありがとうな」
「いや、私は別に……。部活の荷物もあるのに、重くないか?」
「このくらい平気やで」
「おお……」
ぱちぱち、と小さな拍手が送られる。やっぱり重かったのかな、という申し訳なさと気恥ずかしさが同時に沸き起こる。
椿はちょっとしたことでも、すぐに相手を褒めるからいけない。確かにそれは事実かも知れないけれど、勘違いしてしまいそうになるのだ。実は自分が凄い人間なのではないか、とか、自分に気があるのではないか、とか。
また、椿は人の長所を見つけるのも上手い。自分でも知らない良いところを見つけてくれるのだ。それだけ自分のことを見てくれているような気になって、より深みに嵌まってしまうのだ。椿に他意はないと言うのに。
「信ちゃん、そろそろお嬢さんを紹介してくれへん?」
「あ、ああ、せやったな。この子は同じクラスの清庭椿さん」
「初めまして、清庭椿です。北くん……信介くんにはよくお世話になっていて、仲良くして貰っています」
「信介の祖母の結仁依です。こんなええ子が信介の友達なんて嬉しいわぁ」
「信介くん、凄くしっかりしてて、頼りになる人なんです。私の方こそ、友達になれて嬉しいです」
「嬉しいわぁ。良かったら、ちょっとうちに遊びに来ぉへん? お礼もしたいしね」
突然の名前呼びに心臓を痛めていると、結仁依がとんでもない提案を口にする。祖母の言葉にぎょっとしていると、椿が口ごもっていることに気が付いた。困ったように眉を下げ、助けを求めるような目が北を見つめた。
「ばあちゃん、清庭さんが困っとるやろ? それに、クラスメイトとは言え、男の家に来い言うんはハードル高いやろ」
「いや、えっと、私は別に構わないんだけど、北くんは嫌じゃないのかなって」
「俺は別に構わんよ。俺も、お礼はしたいしな」
「ならええやんなぁ。サニワさんやっけ、うちおいでや」
「あ、はい。じゃあ、お邪魔させていただきます」
ふにゃ、と椿の顔がほころび、結仁依も嬉しそうに笑う。三人で連れたって北の家に向かって歩き出す。いつもは聞こえない美しい声が隣から聞こえてくる帰り道は、何だか景色が違って見えた。
***
椿を客間に案内し、荷物を置きに居間へと向かう。お茶の準備をしている祖母を手伝おうと台所に顔を覗かせると、「お客さんの相手せなあかんよ」と追い払われる。結仁依の言葉に従って客間に戻ると、椿は窓から見える庭先を見つめていた。
(何やろ、清庭さんがうちに居るの、めっちゃ緊張すんな……)
特に何かあるというわけでもないのに。祖母のお客さんとして立ち寄っただけなのに。それでも込み上げてくるものがある。
北が戻ってきたことに気付いた椿が、視線を庭先から北へと移す。オニキスのような瞳が北を捉え、緩く弧を描いた。
「お庭綺麗だね。水仙と、山茶花?」
「せやで。ばあちゃんが手入れしとってな」
「北くんのおばあちゃんって感じする。凄く丁寧なところ」
ふわふわとした笑みは、いつも見ているはずなのに雰囲気が違って見える。どうしてだろう、と内心で首を傾げていると、椿の肩にさらりと黒髪が流れ落ちた。それを見て、椿が髪を下ろしていることに気付く。いつもは一つに束ねている髪を、今日は下ろしているのだ。それも当然である。本日は休日で、学校は休み。平日と同じ装いで居る必要はなく、当然私服だった。名前呼びに意識を持って行かれていたが、そのことを意識したら、心臓がさらにうるさくなった。好きな子の私服姿を、彼は初めて見たのだ。
上着とマフラーはきちんと畳まれた状態で自分の隣に置かれている。その下はハイネックの細身のセーター。冬服ながら何となく身体のラインが窺えて、北は見過ぎないように視線を落とした。正直に言えば、見たくてたまらないけれど。
「そ、そう言えば、用事とか大丈夫なんか? うちのばあちゃん、ちょっと強引やったんやない?」
「大丈夫。することもなくて散歩していただけだから。私こそ、急にお邪魔することになってしまったけれど、良かったのかな?」
「それは全然構わんよ。ばあちゃんを助けてくれてありがとう」
「どういたしまして」
結仁依の持ってきたお茶とお茶菓子をつまみながらしばらく話し込んで、椿は結仁依に持たされたお礼の品を持って帰って行った。その間中ずっと心臓がうるさくて、胸が苦しくてたまらなかった。けれど、何でもない一日が特別な日になってしまうのだから、恋というのは凄いものである。
***
結仁依「今日なぁ、信介の彼女さんに会うたんよ」
弟くん「兄ちゃん彼女おったん!?」
お姉さん「やるやん、信介!」
北「ちゃう。クラスメイトや」
お姉さん「何や、つまらん……」
結仁依「背の高い美人さんでなぁ。モデルさんやろか?」
北「ちゃうけど、まぁ、出来そうではあるな」
お姉さん「信介がそないなこと言うなんて珍しない? そんな美人さんなんや?」
結仁依「そうなんよぉ。あと、声も綺麗でなぁ。湧き水みたいに透き通ってて、声のお仕事も出来そうやねぇ」
北「せやな」
弟くん「声が綺麗ってよう分からんのやけど、歌手とか出来そうな人ってこと?」
結仁依「そうよぉ。それに、ええ子でなぁ。ばあちゃんが困ってたら声かけてくれてな。また、うちに来て貰い」
お姉さん「へぇ、そらええ子やなぁ。うちも見てみたいわ」
北「やめぇや。彼女でもない、ただのクラスメイトをうちに呼ぶとかおかしいやろ」
結仁依「ばあちゃんなぁ、あんな子が信介のお嫁さんやとええなぁ思とるんよ」
北「ばあちゃん」
結仁依「ばあちゃん、今から楽しみやわぁ」
北「ばあちゃん!!!」
