うしさに
牛島に恋人がいるという話は、彼が中等部に在籍しているときから耳にしていた。中学のときには頭角を現していた牛島は、学園の内外問わず有名人になっており、些細な話題でもセンセーショナルに駆け巡る。告白は牛島からで、高等部に進学した今でも仲良くやっているらしい、なんて下世話な話も、あっという間に広まった。
その話を聞いたとき、鷲匠は少なからず驚いた。ただひたすらにバレーボールに打ち込み、そのために他の全てを置き去りにしたような少年に、そのような存在があったことに。それも、一人の相手と長く続いているというのだから、尚更。
あの朴念仁が、とは思わなくもなかったが、バレーボールに向ける一途さを、人間にも発揮した結果だというならば納得だ。
鷲匠としては、バレーに支障がなければ何を言うつもりもない。相手に染まって素行が悪くなるような生徒ではないし、彼がバレーよりも恋人を優先するような人間には見えない。ただ、恋人が元でメンタルを崩すようなことがなければ良い。彼はこれから、白鳥沢学園バレー部の中心に据えられる。大エースとして、チームを全国へ導く主砲になるのだ。それを邪魔するような人間でなければ、それで十分である。
鷲匠の、低かった『牛島の恋人評』が覆ったのは、割と早い時期だった。
夏の訪れを予感させる空は、部活終了時間になってもまだ明るかった。全国に至らない部活や、熱心でない生徒達はこれで部活を終了させて帰寮するのだが、全国常連の強豪として知られるバレーは、今からが本番とばかりに自主練習に取り組む生徒達が多数存在する。まだまだ練習に励む子供達をコーチの斉藤に任せ、鷲匠はいくつか抱えている書類仕事を終わらせるために教員室に向かう。その道すがら、剣道部や薙刀部が使用する武道館の傍で、彼は足を止めた。一人の生徒が、使用した館内の掃除をしているのが目に付いたのだ。
鷲匠はその女子生徒に見覚えがあった。鷲匠が牛島を白鳥沢にスカウトするために訪れたバレークラブに所属していた少女である。男女混合のチームで、牛島と共に圧倒的な長身とパワーで主砲を務めていた選手で、将来はきっと女子バレー界を牽引する存在になるだろうと思われていた。
しかし、彼女はあっさりとバレー界を去った。彼女にとってバレーは
『椿は本当は、剣道や薙刀に興味があって、そちらに所属したがっていたんです。俺が一緒にバレーがしたくて、無理を言ってクラブに所属して貰っていただけなんです。でも、男女が別れて、同じチームでバレーが出来ないのに、それでもバレーに縛り付けるのは過ぎた我が儘だ』
鷲匠や、周囲の者達と同様に、牛島も椿がバレーを辞めるのを心から惜しんでいるのが窺えた。けれど、彼女にも進みたい道があって、それをこれ以上阻み続けるわけにはいかないのだと、彼はきちんと理解していたのだ。
彼の言葉通り、椿は牛島と共に白鳥沢学園に入学し、薙刀部に入部した。そこでも彼女は活躍した。それこそ、バレークラブに所属していたときよりも、華々しく。好きこそものの上手なれという言葉があるけれど、まさしくそれを体現したような活躍ぶりだった。
彼女との面識はバレークラブを訪れたときに挨拶を交わして、それっきりだ。けれど、何となくその存在が記憶の片隅に刻まれていて、もう三年以上顔を見ていないというのに、その生徒があのときの少女であるとはっきりと分かった。
小学生の時分で、すでに160を越えていた長身は、あのときよりもさらにすらりと伸びている。180に迫ろうかという背丈は、おそらくバレー部やバスケ部に所属する女子生徒達よりも高いだろう。それを羨む気持ちはとっくに薄らいだけれど、やはり惜しいとは思ってしまう。“高さ“というのは、それだけで才能なのだから。
立ち止まって見ていた鷲匠の視線に気付いたのか、少女がふと顔を上げる。その相手が鷲匠であると分かると、軽やかな動きで立ち上がった。
「お久しぶりです、鷲匠先生」
お疲れ様です、と言って、ぺこりと頭を下げる。覚えていたのか、と目を瞠った。
「………お前さんは、椿っつったか」
「はい、清庭椿です。覚えていてくださったんですね」
「お互い様だ」
ふわりと、椿の顔に淡い笑みが浮かぶ。人懐っこいそれは幼く、高校生と言っても、まだまだ子供であることを思い出させた。
「一人で掃除か」
「はい。今日は先生の都合で部活がなかったんですけど、自主練習がしたくて。それで今は後片付けをしていました」
「そうか」
練習相手も居ない中、それでも薙刀を振るうのは、彼女がその競技を心から愛しているからだろう。楽しかった、と言わんばかりの笑みを見せられて、鷲匠が苦笑する。むしろ、こんな笑顔を浮かべるほど好きなものがあるのに、よくもまぁ、六年間も牛島に付き合ってバレーが出来たものだと感心する。けれど、彼はこの顔を知っているから、それ以上引き留めることが出来なかったのだろう。
ふと、足下の影が妙に長いことに気が付いた。世界はすでに赤く染まり、太陽が地平線の向こう側に落ちていこうとしている。そろそろ、夜がやってくる。
初夏と言っても、本格的な夏と比べれば、日が落ちるのは早い。空はまだ明るいと言っても、掃除と着替えを済ませる頃には辺りは暗くなっているだろう。
「…………一緒に帰る奴は居んのか」
「若利が送ってくれるというので、それに甘えます」
「……あの若利がなぁ」
「彼、意外と心配性なんですよ」
好いた女相手なら誰だってそうだろうよ、と鷲匠は苦笑した。彼女の存在を思い出して、自然と椿が若利の恋人であると、そう思ったのだ。
それは鷲匠が抱いた、そうであったらいいという願望だ。幼い頃から共に過ごした相手ならば、お互いの気質だって十分に知っているだろう。彼女ならば、きっと牛島をよく理解している。彼がいかにバレーを愛しているのかを、彼女ならば。
「……お前さんが恋人なら、あいつのメンタルが崩れることは無さそうだな」
「若利に何かありましたか?」
小さく呟いた言葉に否定を返されず、鷲匠は内心でほっとした。
「ああ、いや。恋人がいるっつう話を耳にしてな。情けねぇことに、振られただの何だので調子を崩す奴も居るんだわ」
「なるほど。確かに、部活にかまけて振られたという話を、私も聞いたことがあります」
「まぁ、甲斐性がねぇと思われちまう方にも問題はあるんだろうが、承知の上で付き合って欲しいもんだ」
「そうですね。私には、何よりも大切なものがあるのに、それを差し置いて、自分を優先して欲しいという考えが分かりません」
「…………自分を優先して欲しいとは思わねぇのか」
「まったく」
恐ろしいほどにきっぱりと言い切った椿に、鷲匠は言葉を失った。
『私と仕事、どっちが大事なの?』なんて言われて、そのまま別れ話に発展してしまうなんて、そこら中に溢れかえっている話だ。けれど、椿はそんなことを微塵も考えていない。いっそ自分を蔑ろにしているとすら思うほどの潔さに、鷲匠は言葉も出ない。
「そも、私は若利に私のことを一番に考えて欲しいわけではありません。私の優先順位は、むしろ最下位でも良いくらいだ」
夕日に照らされ、赤みを帯びた世界の中、椿の声だけが響く。
「私は若利に、自分の一番向き合いたいものに向き合っていて欲しい。在りたい自分で在って欲しい」
背筋を伸ばし、凜と佇む椿の圧倒的存在感は、泥を突き破って顔を出す蓮のような、幾度となく叩かれて鍛え上げられた鋼のような印象を抱かせた。
「私のことは、彼が跳べなくなってからでいい。バレーに満足したらで良い。いや、彼がきっとバレーに満足することはないから、一生そのときが来ることはないかもしれません。けれど、私はそれでも構いません」
「………そりゃあ、お前……」
「信頼があります。それで十分でしょう」
それはきっと、とんでもない愛の言葉だ。
「…………とんだ豪傑だな」
「ありがとうございます」
光を湛えた強い瞳に、鷲匠は感服した。
思わず畏敬の念を抱いてしまいそうな程の、どこまでも深い包容力。全てを捧げると言わんばかりの、未来を見据えたその覚悟。腹をくくった女の、何と強く美しいことよ。
―――――まったく、いい女を見つけたもんだ。
幼い頃からこんなにも強く美しい少女が隣にいたならば、他の少女など目に入らないだろう。よくもまぁ射止めたものだと、鷲匠は感心した。
ザリ、と地面を踏みしめる音が聞こえた。二人揃って振り返ると、そこには制服に着替えた牛島が立っていた。鷲匠が居ることにきょとんと目を瞬かせながらも、鷲匠に挨拶を述べる。
「え、もう終わったのか?」
「オーバーワークになると言われて、早めに終わることになったんだ」
「すまない。すぐに着替えてくる」
「慌てなくて良い。焦って転ぶなよ」
「私は子供か?」
「天童がそれでこけそうになっていた」
「………気を付けよう」
失礼します、と鷲匠に頭を下げて、椿は掃除用具を片付けて、ロッカールームへと駆けていった。その後ろ姿を見送って、鷲匠が牛島に声をかける。
「若利、お前、いい女見つけたな」
「……鷲匠先生も、そう思われますか」
「そうだな。あんな女傑は滅多にいねぇ。離すんじゃねぇぞ」
「はい、もちろんです」
それだけを告げて、鷲匠はその場を後にした。若者達の輝かしい未来を願いながら。
