深海の月






 オクタヴィネルでのルナの仕事は、ラウンジの営業以外は裏方に回ることが多い。ステゴロは苦手だと印象付けるためだ。実際には魔法や武器ありでの戦闘も、徒手空拳もお手の物であるのだが。
 けれど、能力を隠す事も有効なのだ。相手の油断を誘うことが出来る。それがアズール達の行動を円滑に進めることに繋がる。故にルナは基本的に非力を装う。
 そうして誘った油断を見逃さず、付け入る隙として活用するのが、ルナの最も得意とする戦法なのだ。


「なぁ、今から情報屋さんに会いに行くんだが、ついてきてくれるか?」


 油断の隙間を縫って懐に入り込み、懐柔する。それは普段、敵を追い詰めるために使われるが、自分のために動く手駒を作り上げるときにも使われる。
 その理由は様々だ。欲しいものを手に入れるためだとか、単なる暇潰しだとか。理由はともかく、ルナは自分の快楽のために手駒を作り、使い物にならなくなるまで使い潰す。
 そんな手駒の一人から、ずっと欲しかった情報が手に入ったという連絡があったのだ。

 成果には報酬を。内容に応じて対価を与えるために、ルナは手駒のもとに直接赴いて、情報を精査する。
 一人でも問題なく行える作業ではあるのだが、過去にルナを手籠にしようとした不埒者がいたために、アズール達の誰かを連れて行くことを約束させられているのだ。
 過去を思い出したのだろう。一瞬だけ空気がピリついたものの、次の瞬間には二人はいつものように破顔した。


「いいよぉ。丁度暇してたし」
「ええ。僕もお供致します」
「ふふ、ありがとう二人とも」


 楽しげに口角を釣り上げるウツボの人魚たちに、ルナもまた、楽しげな笑みを浮かべた。



***



 モンロースマイルと言うものを知っているだろうか。
 複雑な家庭環境や悲しい境遇を背負った子供が、愛されるために知らず知らずのうちに身につける笑顔のことである。
 それは非常に魅力的で、他者を惹きつけることに特化している。


「よしよし、いい子いい子」


 ルナは、その笑みを作り出すことのできる人間だった。
 その笑みに陥落したものが、ルナの手足となって情報を仕入れてくる。


「いい情報をありがとう。とっても助かるよ」


 足元の地面に膝をついた男が、恍惚とした表情でルナを見上げる。
 椅子に座ったルナは、犬を撫でるように男の髪をかき混ぜた。


「次も期待してるからな」


 そう言って殊更柔らかい笑みを浮かべると、男は天使でも垣間見たかのように目を細め、眩しそうにルナを見上げた。
 その時、男がルナの膝に触れた。
 神聖なものを前に畏れ多くなる気持ちを持つ者も居れば、邪な心を持つ者もいるのである。男は後者であった。
 ルナの背後に控えていた二つの気配が、ざわりと不安な空気を醸し出す。

 その瞬間、男の首が飛んだ。男はそう錯覚した。それほどの力で、ルナが男の頬を張り飛ばしたのである。


「誰の許可を得て膝に手を置いている? お前からの接触なんて許してないんだが?」


 体が吹き飛び、硬い地面に強かに肩をぶつける。
 けれどそれ以上に痛みを感じるのは頬だ。ジンジンと頬が尋常ではない熱を持つ。鞭打ちになったように首が痛む。
 けれどそれに文句を言える口はなく、男は呆然とルナを見上げた。

 女神のようなあたたかい眼差しが、一瞬で氷のような冷やかなものに変わっていた。
 鳩尾に冷たいものを押し付けられたような心地がする。けれど、それと同時に奇妙な高揚が沸き起こる。
 怖気が走る程に恐ろしい視線なのに、妙な色香を感じるのだ。そんな視線が向けられている事に、はっはっと興奮で息が上がっていく。
 殴打されただけではない熱で顔が沸騰し、下腹がずぐんと重くなったのを感じた。
 男の変化を如実に感じたルナが、訝しげな表情で男を見下ろした。
 そして男の股間が膨らんでいるのに気付き、僅かに目を瞠る。次いで、その目がゆっくりと細められた。


「ほっぺたを叩かれて勃起したのか?」


 軽蔑を含んだ鋭い視線が、男を射抜く。それにすら感じ入っているのか、男の呼吸が更に荒くなる。
 ルナはその事実に端正な顔を歪め、侮蔑を含んだ眼差しで見下ろし、嫌悪の色を滲ませた声で吐き捨てた。


「気持ちが悪い」


 ふぅふぅと家畜のような息遣いで息をしていた男が、短い呻き声を上げる。
 しっとりと湿ったスラックスと、ほんのり香る栗の花の匂い。
 射精したのだ、と分かってしまったルナはこの世に存在してはいけないものを見てしまったような顔をした。


「始末してくれ」
「「仰せのままに」」


 胸に手を当てて、後ろに控えていた咬魚達が恭しく首を垂れた。



***



「ルナ、大丈夫ですか?」


 気遣わしげな表情で、ジェイドが控えめに声を掛けた。
 労るように髪を撫で、他の者には見せないような心配の色を乗せた瞳にルナを映す。


「有り得ないよねぇ、あの男。オレでも気持ち悪かったもん」


 うへぇ、と舌を出し、フロイドが顔を顰める。
 こちらもまた、片割れと同じように心配している素振りを見せた。

 二人はルナを庇護の対象として見ている。護られるだけの弱者でないことは理解しているが、初めてルナと対面したときの印象が抜け切らないのだ。まだまだ稚魚に分類される自分たちより小さくて、脆く柔らかかった、幼い頃のルナの印象が。
 成魚に近付いても、ルナはあまり大きくならなくて、いつだって自分達を見上げていて。あの頃から変わらずに傷付きやすくて、簡単に壊れてしまいそうで。
 二人はルナを気に入っている。アズールと同じくらいに。だからルナが損なわれるのは許し難い。故に、どうしたって過保護になってしまうのだ。
 それを正しく理解しているルナは、心底嬉しそうに、鈴のように笑った。


「ありがとう。でも大丈夫。後ろに二人がいてくれたし、相手はただの犬畜生だからな」


 ―――――発情期の犬を見たのは初めてで、ちょっと驚いただけだよ。
 そう言って笑うと、フロイド達が面食らう。次いで、二人揃って吹き出した。


「あっははは! ルナってばひっでぇ〜!」
「ふっ、ふふふ……! さ、最高です……!」
「ええ? 人相手に誤作動しちゃうような可哀想なモノを持ったわんちゃん相手でも去勢しないような慈悲深さを持っているのに?」
「「あっはははははははははは!!!」」


 ふるふると肩を振るわせる二人に、さも不満ですと言わんばかりの表情で、ルナが唇を尖らせる。
 しおらしい素振りで外道のようなことを宣うルナに、とうとう耐え切れないとばかりに、二人揃って大口を開けて笑い出す。
 二人の笑い声に釣られるように、ルナも可笑しそうに声を上げて笑った。




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