深海の月






 ―――――カツカツカツ。
 苛立たしげな足音が廊下から聞こえてくる。聞き覚えのある足音の、嫌に乱れた歩みに本を読んでいたルナは顔を上げてドアの方に顔を向けた。


「ただいま戻りました」
「おかえり、兄さん」
「ええ、」


 バン、といつもより大きめの音を立てて、アズールが部屋に入ってくる。
 ハットと上着を脱いで、椅子に引っ掛ける。タイを緩め、シャツがしわになるのも厭わずにベッドに飛び込んだ。


「もうやだ~~~! なんっっって勝手な奴らばかりなんだ!!! 完璧に契約を遂行したのに文句ばかり垂れやがって!!!」


 ボスボスと枕を殴りつけながら、足をバタつかせる。子供のような仕草に「相当キテるなぁ」と苦笑しながらルナが本を閉じた。
 ベッドサイドに本を置き、頭からシーツを被る。


「アズール、アズール」


 シーツの中から顔を出し、指先でアズールを手招く。
 ルナの呼びかけに顔を上げたアズールがのそのそと起き上がり、ルナのベッドに乗り上げた。
 ルナの胸に顔を埋め、細い背中に手を回す。それを確かめて、ルナがマジカルペンを振って部屋の照明を消した。
 アズールの頭を抱きかかえ、ゆらゆらと体を揺らす。海の中を揺蕩うような心地に、アズールがほっと息を吐いた。


「アズール、お疲れ様。今日は疲れたな」
「………ええ。契約者がいちゃもんを付けてきて、ポイントカード分の代金を返せと暴れて、大変だったんです」
「アズールは完璧に依頼をこなしていたのにな」
「ええ、本当に、勝手なものです」


 深い溜息をついて、ルナの胸に額を擦り付ける。


「僕が、愚図でのろまなタコじゃなかったら、こんな風に、対価を払うに値しないって無下にされることはなかった………」


 ぽつりと落とされた呟きに、それはどうだろう、とルナは眉を下げる。この学園の生徒なら、自分だけが得をするために動くことは必定だろう。だからきっと、“アズールだから”というわけではないのだ。そんなNRCの残念な当たり前すら忘れてしまっているアズールに、ルナは苦笑した。
 柔らかい髪をふわふわと撫でながら、ルナはまろい声で言葉を紡ぐ。


「アズールが凄いのは俺が一番よく知ってるよ。常識すら失った俺を、こんな名門校でトップを張れるまでに引き上げてくれたのはアズールだ」
「それは、ルナががんばったからで………」
「違うよ、アズール」


 何度も諦めたくなった。けれどアズールがルナを諦めなかったのだ。ルナが高みを目指し、いずれそこに至ることを。
 だからルナは努力したのだ。アズールが見捨てずにいてくれたから。


「空っぽの俺にたくさんのものを与えてくれて、いっぱいになるまで満たしてくれた人。それがアズール。俺の兄さん」
「ルナ………」
「だからアズール、そんな風に言わないでくれ」


 アズールの頬を両手で優しく包んで、目を合わせる。真摯な眼差しで、切実な言葉を落とす。


「アズールの価値も計れないような奴のせいで、傷付かないでくれ」


 ―――――アズールの価値は、俺が正しく理解している。
 そう言ってアズールに笑いかけるルナは、その名を体現するように、柔らかく包み込むような、淡い光を纏っているような気がした。







 昨夜は嵐の海のように荒れていたアズールが、今日は一転してご機嫌だ。陽気な海の小魚たちのように歌い出しそうな様子に、腐れ縁の双子が顔を見合わせて笑い合う。
 アズールがこうも絶好調になるのは、ルナが機嫌を取ったときだけだ。彼はどん底に堕ちても自分で這い上がれるだけの強さがあるが、それでも底に居たことを引きずってしまって、しばらくは本調子でなくなってしまう。
 双子もアズールの機嫌を取ることは出来る。けれども双方共に素直な性分ではないので、どう頑張っても剣呑なやり取りになってしまいがちだ。それを何の陰りもなく元に戻せるのは、ルナを置いて他にはいない。


「あはっ、アズールってばご機嫌じゃぁん」
「昨日はあんなにボロボロでしたのに。さすがはルナですね」
「ふふ、アズールが自分で這い上がってきたんだよ」


 鈴を転がすように笑うルナに、双子が口角を釣り上げる。
 ルナのことが好きだ。アズールとは別ベクトルで、彼と同じくらいに面白いから。
 また、アズールの価値を、アズールという娯楽を、自分たちと同じくらい、あるいはそれ以上に理解しているから。


「今日はどんなものを見せてくれるかな?」


 そう言って笑うルナの瞳には、愉悦に浸る悪魔のような輝きが宿っている。
 その光は恐れを抱かせるのに、どうしようもなく惹き付けられる。
 ゾクゾクと寒気のような、武者震いのような、どちらとも付かない震えが体に走った。

 ―――――ああ、これだから、この兄弟の側を離れられないのだ。


「今日も楽しみましょうね」
「まぁ楽しくなくても、俺が楽しくしてやるよ」
「あはぁ♡ それ最高じゃん」


 三人は笑い合い、少し先を行くアズールの背中目掛けて一斉に駆け出すのだった。
 三人に飛びかかられたアズールの怒号が響くまで、あと数秒。
 深海の生き物たちの、平和な日常の風景である。




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