海に夢見る
ジャミルは真っ白なキャンバスの前で大いに頭を悩ませていた。
現在、美術の授業中であるのだが、担当の教師が諸事情で休暇を取ったのである。
そして急遽代理として立てられた教師に「好きなものを描け」と放置されてしまったのだ。
もちろんブーイングの嵐だったが、治安が世紀末と名高いNRCの教師がその程度で意見を覆すわけもなく、教師はさっさと教室を出て行ってしまった。
「好きなものを描け」と簡単に言うが、そのとっかかりもないのが一番困るのである。しかし、提出しなければ容赦なく成績に反映されるのだ。
口には出さず、心の中で盛大に悪態を吐きながら、ジャミルは筆を執った。
さて、何を描くかな、と思考を巡らせる。ここ最近の出来事を振り返って、丁度良さそうな題材を思いつく。
(海の中なんて、初めて描くな………)
楽しげに故郷を語るコバルトブルーの人魚を思い浮かべながら、ジャミルは青い絵の具を手に取った。
***
その絵を見た衝撃は、言葉では言い表せないものだった。
アズールは、美術室に続く廊下に飾られた絵を見て、その衝撃に呼吸を忘れていた。
それはたった一枚の絵。青を基調とした、海の底を描いたものだ。
一目見て分かる。海を知らない生き物が描いた絵だ。生態系なんてあってないようなもの。海の全てを知っているわけではないけれど、こんな魚はいないだろうと思うような姿形をしている。
画力だって、その道を志すものとは比べものにならない。"描けてはいる"という程度。特別目を引く上手さはない。
けれど、どうしてだか、その絵が酷く輝いて見えるのだ。
その理由は明白だった。綺麗な理想と想像を、思いつくままに詰め込んだ、海への憧れをそのまま落とし込んだ絵であるからだ。想像を形にするのが楽しくなって、ついつい筆が乗ってしまったというような、未知の世界をわくわくしながら描いたというのがよく分かる。
これは人の見る夢だ。海の底には楽園が広がっているのだと信じている人間が見る幻想。理解にはほど遠く、けれど確かな“憧れ”と“想い”が詰まっていた。
(だれ、誰だ、こんな……こんな絵を描いたのは)
嬉しいけれど気恥ずかしいような。あるいは胸を締め付けるような一枚。こんな絵を描けるような人物が、果たして同じクラスにいただろうか。
絵の横に付けられたネームプレートを見て、アズールは目を見開く。
―――――ジャミル・バイパー。今一番、アズールの興味を引いてやまない人物の名がそこにあった。
(ずるい、ずるいだろ、こんなの……。普段、あんなに僕たちのことを邪険にするくせに)
声をかければ顔を顰め、近寄れば「あっちへ行け」というジェスチャーを受ける。
事あるごとにオクタヴィネルに転寮するよう勧誘を仕掛けているから、鬱陶しいのはアズールにも分かっていた。だから、そのつれない態度は当然のものだ。
けれど、自分たちの故郷である海そのものには、こんなにも美しい夢を見てくれている。それだけのことなのに、それが何故だか、酷く嬉しい。
(ああ、もう………。こんな絵を見せられたら、無理矢理にでも引きずり込んで、海に沈めてやりたくなるじゃないか)
―――――けれどまずは、この絵を手に入れることから始めよう。
この絵の対価には一体何が相応しいか、そう考えるアズールの顔は照れで頬を赤らめつつも、隠しきれない喜びを湛えていた。