想い人のためならば
「自信が付いた」とジャミルが微笑んだその日から、ジャミルは髪の手入れに力を入れているようだった。フロイドが綺麗だと褒めたからか、意中の相手がジャミルの髪を気に入っているのかは定かではない。けれど、明らかに艶の増した黒髪は、酷く魅力的だった。さらりと風に揺れる長髪は、誰もが振り返る美しさを誇っている。
特に目を奪われているのはオクタヴィネルとポムフィオーレに所属する生徒達だ。
人魚姫の物語に、人魚姫の姉たちが美しい髪を対価に魔女と取引をしたという逸話がある。故に海の世界で美しい髪というのはそれだけで価値があるのだ。
ジャミルに利用価値を見出している幼馴染みも表面上はいつも通りを装っているが、その視線は背中に流れる黒髪に釘付けだ。自身の片割れもジャミルを見掛けることがあれば、その姿を追いかけていた。
美を重んじるポムフィオーレは言わずもがな。あんな美しい髪を手に入れたいと、羨望と嫉妬の目を向けながら、自分を磨き上げるために努力を重ねている。
そんな風に視線を集めるジャミルは、視線の主達が自分の髪を見つめていることを自覚している。手入れの成果が出ているのが嬉しいのか、時折口元が緩んでいるのが窺えた。
ご機嫌なジャミルは文句なしにかわいいが、より視線を集めてしまうのが気に入らない。
「ウミヘビくんの髪、前より綺麗になったねぇ」
「ん、君もそう思うか?」
「うん。艶々サラサラで、触ってみたくなる感じ」
「人魚の君にそこまで褒めてもらえるとはな」
ジャミルがくすくすと、嬉しそうに笑う。
ジャミルも人魚が美しい髪に価値を見出していることを知っているようで、人魚たちの視線が自分の髪に集まっていることを自覚して、以前よりも自信を持ったようだった。
「好きな奴にも、褒めてもらえた?」
「―――――ああ」
褒められた時のことを思い出したのか、ジャミルが頬を薔薇色に染め、はにかむような笑みを見せた。その笑みが酷く魅力的で、自分には到底引き出せるようなものではなくて、フロイドはそっと目を伏せた。
―――――諦めちゃった方が、きっと楽だな。
告白を阻止することはできるだろう。意中の相手への恋心をへし折ることはできるだろう。けれどその方法は最悪なもので、あまり高くないジャミルからの評価が、覆ることもないほどに最低なものになることは明白だ。
奪うことはできる。けれどそれをしてしまったら、一生与えられることはなくなってしまう。巻き返しなんて出来なくなってしまう。それだけは嫌だった。彼の視界に入ることすら許されなくなることだけは。
(オレって、こんな殊勝なこと考えられたんだ………)
ジャミルを好きになる前だったら、好きな相手が自分以外に想いを寄せていたら、どんなことをしてでも手中に収めることを優先しただろう。それがもとで相手が壊れてしまっても。手に入ってしまえばこちらのものだと、そのように考えていた。
けれど恋を知って、その考えが一変した。そんなことをして手に入れても、ただ虚しいだけなのだと。きっとどちらも傷つくだけ傷ついて、何も残らないのだろうと。
「―――――恋ってすげぇね」
「え?」
「ウミヘビくんのこと、こんなに綺麗にしちゃったり、考え方を変えちゃったりとかさ」
美しさを増した髪を撫でると、指通りの良い髪は逃げるように滑り落ちていく。
きっと努力したのだろう。もともと見た目には気を遣っている素振りは見せていたが、そこから更に磨きをかけ、ここまでの美しさに仕上げたのだから。
その努力が自分のためだったなら、どれほど幸せなことだったろう。この男が自分以外の誰かのものになるために己の時間を使うだなんて、考えたくもない。絶望以外の、何物でも無い。
美しい髪を引きちぎってやりたい。その恋を踏みにじってやりたい。この男のすべてを犯し尽くして、見るも無惨な姿に変えてやりたい。
けれど恋に狂わされてしまった今のフロイドには、そんな残酷なことは出来やしないのだ。
「……っ、ふ、フロイド………ッ!」
「ん?」
「これは、流石に……っ」
無意識とは恐ろしいもので、髪を撫でていた手のひらは、いつの間にかジャミルの頬を撫でていた。それは恋人や伴侶を相手にするような仕草で、頬に手を添えられたジャミルが困惑の表情を浮かべていた。
「………ごめん、つい」
「いや………」
妙な沈黙が落ちる。
惜しいな、と思いつつ、手を離す。本当はもっと触っていたかったけれど、これ以上触れるのは、特別仲の良い友人にしたって近すぎる。悲しいことに、ジャミルにとってフロイドはそこそこ仲の良い同級生という関係性でしかない。己の気分や状況によっては近寄りたくない相手と認識されるときすらあるのだ。必要以上の接触は、今まで以上に距離を取られかねない。片思いの相手が居る現状でなら、なおさら他人との距離に気を遣うだろう。好きな相手に別の誰かを好いていると勘違いされるなんて、堪ったものではないのだから。
「…………なぁ」
「…………なぁに?」
「“つい”って何だ?」
沈黙を破って落とされたジャミルの疑問に、しくじった、とフロイドは頭を抱えたくなった。好いた相手に触れたくなるのは当然で、“つい”うっかり距離を見誤ったのだ。
なんと言い訳をしたものかと、フロイドが頭を悩ませる。ジャミルは俯いていて、フロイドからはその顔色を伺うことは出来ない。
気持ち悪いと思われていないといいなと思いつつ、上手く誤魔化せるような理由を探す。けれどそんなものは見つからなくて、沈黙を貫くしかすべはない。
そんなとき、俯いていたジャミルの顔が、ほんの少しだけ持ち上がった。
「俺に、触りたくなった、とか……?」
正解を叩き出したジャミルに、フロイドが瞠目した。
なんで、どうして、と狼狽していると、ジャミルがフロイドを見上げた。
そして、その顔を見て、フロイドの呼吸が止まった。
(何で、そんな顔してんの………?)
フロイドを見つめるジャミルの顔は、りんごのように赤く染まっていた。グレーの瞳は羞恥と期待に潤んでいて、思わず息を呑んでしまう。くらりと目眩を起こすような色気を孕んでいたからだ。
「まさかそんな」という否定と、「でもこれは」という期待で心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅くなる。火がついたように熱い顔は、見なくとも真っ赤になっていることが明白だ。
「………脈あり、と思っても?」
感極まって涙ぐむジャミルの声は震えていた。真っ赤な顔は確かな笑みを象っており、フロイドがジャミルを想っていることを喜んでいるのがよく分かる。
ジャミルが自分と同じ想いを抱いていた驚きとか、自分のために頑張ってくれていたという愛おしさとか、様々な感情が湧き上がり、混ざり合い、複雑に絡まって溢れ出す。
―――――取り返しのつかないことをする前で良かった。諦める前で、好きなままで良かった。
驚きと歓喜と安堵と、どうしようもない愛しさで胸が苦しい。その痛みが涙となってこぼれ落ちていく。
「お、オレから、言っても良い………?」
「ん、」
「あ、あのね、オレ、ずっと前からウミヘビくんのことが―――――」
そうして告げた愛の言葉に、ジャミルは世界一美しい笑みを持って答えた。