SAN値直葬系ジャミル成り代わり2
(なんだか、凄いことになったなぁ……)
ジャミル・バイパーは自殺を図った崖のそばに建てられた小屋から海を眺めて肩をすくめた。
ここ数日の怒涛の日々を思い返していたのだ。
アジーム家の従者であることに嫌気がさして、誰かのために死にたくなくて。誰かに殺されるくらいなら自分の意思で終わらせたくて、海に身を投げたのだ。
光の存在が程遠い暗闇に安心感を覚えて目を閉じた。次第に意識が遠のいて、そのまま永遠の眠りにつくものと思っていたのに、双子の人魚に救われてしまった。ジャミルが要らないと捨てた命を、彼らは自分たちのものとして拾い上げたのだ。
二人が海の底へと誘う光景を思い出す。子供がお菓子をねだるような、あるいは共に行こうと手招く掌を。歓迎を示す歌うような言葉たちを。
人魚たちの歓待は、海のあたたかさを知ってしまったジャミルには酷く魅力的だった。広大で寛大な海ならば、自分を縛るものなど何もないように感じられたから。
太陽の光が届かないというのも良い。ずっと光の化身のような子供のそばにいたから、酷く疲れてしまったのだ。
また、彼らの気質もジャミルには心地よかった。彼らにはいつも自分を苦しめた、理解なんてできないくせに寄り添おうとする姿勢はない。地獄すらも照らして見せると言わんばかりの笑顔もない。むしろ氷のような無慈悲さを覗かせる彼らの冷たさが、太陽の光で爛れた肌にはちょうど良かった。
(まぁでも、ちょうど良かったな。別に死にたかったわけではないのだし)
死にたかったわけではない。逃げたかったのだ。地獄のような境遇から。理解できない主人から。
けれど親の庇護下にある自分では。何の力も持たない子供では、できることなんて限られている。そんな自分の精いっぱいの対抗手段があの世への逃避で、それ以上の最善を思いつかないくらいに追い詰められていたのだ。
(でも、光の届かない海の底なら………)
光の射さない深海なら。人の手が届かない場所でなら。息をひそめて、ひっそりと生きることができるのではないだろうか。
(早く、迎えに来てくれないかな………)
日差しが眩しくて、目が眩むようで、一刻も早く解放されたいような心地なのだ。
身を切るような冷たい優しさが恋しい。無慈悲なくせに寛大な海に還りたい。
―――――もういっそ、自分から飛び込んでしまおうか。
小屋を出て、誘われるようにふらふらと崖の淵を目指す。崖下は相変わらず荒れていて、波が岩肌を削っていた。
ここから飛び降りれば、またあの多幸感を味わえる。そう考えるだけで胸が高鳴った。
勢いをつけて、ジャミルは崖から飛び降りた。
水に飛び込んだ瞬間の、地面に叩きつけられるような痛みはあまり好きではない。けれど次の瞬間には、空を飛んでいるような開放感に包まれた。
―――――ああ、やっぱり、海はいいな。
酷く心が安らいで、ゆっくりと目を閉じる。体が下へ下へと流されて、光が遠ざかっていくのを瞼の裏で感じ取る。
このまま海底まで落ちていけたらいいのに。そんなことを思いながら、海の流れに身を任せる。
「な、何してるんだ!!!!!」
突然、鋭い声が耳朶を打つ。ぐっと強い力で体を引き寄せられ、閉じていた目を開く。そこには黒と紫の人魚がいた。
人間とは違った、冷たい体に抱き寄せられる。しっかりと抱えられ、海面へと向かっていく。そこにさらに二つの影が加わって、上へ向かう速度が上がった。
ざぱん、と海面に浮上する。冷たい風が頬を叩き、酷く肌に痛かった。やっぱり海の方があたたかいなと溜息をつくと、吸い込んだ空気の冷たさに思い切り咳き込んだ。
「お、おい、大丈夫か? 水を飲んだのか? 肺に水が入ったらまずいって本に……!」
けほけほと幾度か咳を繰り返すと、心配そうに顔を覗き込まれる。よく似た顔が二つと、初めて見る銀色の髪の少年だ。
ジェイドとフロイドに頬やら髪をなでられ、大丈夫だと示すためにその手に擦り寄った。
それが嬉しかったのか、二人が輝くような笑みを浮かべた。
「もぉ~! ジャミルってば気がはやぁい! オレ達が迎えに行くの待っててよ~!」
「全くです。約束を反故にするなんて許しませんよ?」
頬を膨らませて起こっていることをアピールしているが、二人とも喜びを隠しきれていない。頬が緩み切っていた。
文句を言いつつ嬉しそうな二人の言葉に、ジャミルがぽつりぽつりと拗ねたような言葉を告げた。
「だって……待ちくたびれたんだ…………」
一緒に行こうと言ったくせに、全然連れて行ってくれない。歓迎するといったのに、なかなか招いてくれない。
想像を膨らませるような話ばかりされて、深海に行くのはずっとお預けされていたのだ。もうずっと、我慢していたのに。もう我慢なんてしたくないのに。
「だから……自分から、行こうかなって…………」
まだ連れて行ってくれないのかと、ねだるような瞳がフロイド達を見上げる。
もう待てないのだと口を引き結ぶジャミルに、彼が海に魅入られていることを確信した二人は、口角を釣り上げて喜んだ。
ほの暗い喜びに歪む口元は、とてもジャミルに見せられるものではない。それが分かっている二人は、とっさに口元を隠した。
突然の行動にジャミルは首を傾げたが、二人を熟知している少年が思い切り顔を顰めた。
「喜んでるんじゃない!!!」
今までほとんど無言だった少年が、双子の頭を思い切り叩いた。少年の力が強いのか、双子が大袈裟なのか、ジェイド達が叩かれた部位を抑えながら悶絶した。
二人の恨めし気な視線を完全に無視し、少年はジャミルに向き直る。
「お前もお前だ! 僕がせっかく作った魔法薬を無駄にするような真似をするんじゃない!」
ずい、と蛸足の装飾のついたガラス瓶を差し出される。虚を突かれたジャミルが目を瞬かせ、少年とガラス瓶を交互に見やる。少年は無言で瓶を差し出し続け、ジャミルがそれを受け取ると、それでいいと言わんばかりに少年が深く頷いた。
「それねぇ、ジャミルの人魚化薬だよ~。アズールに作ってもらったんだぁ」
「アズールは錬金術が得意でして、魔法薬の効果は僕たちが保証します」
アズール、と口の中で反芻して、目の前の少年を見やる。アズールと呼ばれた少年はタコの人魚のようで、複数の脚が揺らめいている。
「ありがとう、アズール」
これで海の世界に迎え入れてもらえると思うと、ジャミルの顔が自然と笑みを象る。ふわりと花のような柔らかい表情を向けられたアズールが面食らった。じわじわと、頬の辺りの色味が増した。
「べ、別に、大したことじゃないし………。そ、それより早く飲めよ。人間は体を冷やしすぎるのも良くないんだろ?」
そっぽを向いて、アズールが魔法薬を飲むように促す。彼の言葉でぼんやりとしていた体の感覚が戻ってきたような気がした。確かに寒い。それ以上に痛い。
確かにこのままでは死んでしまうだろうな、と他人事のように思いながら、震える手で瓶を開けた。
魔法薬がまずいのを知っているから、できるだけ味わわないように一気に喉に流し込む。舌に残った強烈な味わいに吐き気を催しつつも、せり上がってくる内容物を吐き出さないように必死に飲み込んだ。
「はぁ……っ! ぐ、ぅ………っ!」
魔法薬を飲み切ると同時に、強烈な違和感が全身を走った。
痛みはないのに脇腹が裂け、腕や指の皮膚が引っ張られるような感覚。足が溶けて固まるような気持ち悪さを感じて、吐き気が込み上げる。
せっかく飲んだ魔法薬を吐き出したくなくて、口元を抑えて必死に耐える。そのうち体の違和感が消え、それと同時に吐き気も収まった。
「…………大丈夫か?」
心配そうな、控えめな声に顔を上げる。無意識のうちに、アズールに縋り付いていたらしく、至近距離で揺れる瞳と目が合った。
大丈夫、とほとんど唇だけで答える。アズールは胡乱な目を向けたが、ジャミルの言葉を信じて、彼を支えていた手足を離した。
手を離されても、体が沈むことはなかった。いつの間にか、海に潜っていたのだ。
暗いと感じていたはずの海中が、酷く明るく見渡せる。人間とは異なった視界だ。
自分の体に目を向ける。よくあるイメージの人魚とは少し違う。けれどジャミルにとっては一番見慣れたシルエット。大きな鰭はなく、シュッとした蛇のような印象の姿。―――――双子の人魚と同じ、ウツボのそれだった。
「黒い、ウツボ………」
ジャミルの鱗は漆黒だった。深海の色に溶け込んでしまいそうな、深い深い黒だ。所々に発光体があり、泳ぐたびに煌めいていた。
「すごい………」
―――――本当に、人魚になってる。
ほぅ、と感嘆の息が漏れた。
海の中で息ができる。閉ざされていた視界が開けている。凍てつくような冷たさも、この体なら心地いい。
―――――ああ、やっと。海に受け入れてもらえた。
この暗く深い海で、自分は生きていくのだ。そう思うと、胸に熱いものが込み上げてくる。
「ありがとう、アズール………。本当に、ありがとう………」
嬉しい、という声は、感極まって震えていた。
笑み崩れるジャミルに、ますますアズールが頬を染める。
「ジャミルの鰭、超いいね! 黒くてきれ~!」
「ええ、本当によくお似合いです」
「ああ、俺も気に入ったよ」
両側から、コバルトブルーの人魚たちがジャミルを抱きしめる。
フロイドがするりと髪を撫でる。髪飾りが外されるが、ジャミルは気づかずに自分の尾鰭を見下ろしていた。
「さぁ、行きましょう、ジャミル。僕たちの故郷へ」
「最初はうまく泳げねぇと思うから、オレが手ぇ握っててあげるね」
「お前らなぁ………。そんなことより、言うことがあるだろ」
「分かってるって!」
「ふふ、では声を合わせて………」
「「「ようこそ、珊瑚の海へ!」」」
海に歓迎された幸せを嚙み締めるジャミルは気づかない。フロイドの手を離れた赤い羽根の髪飾りが、海の底に沈んでいったことに。
美しいものを手に入れた人魚たちが、酷薄とした笑みを浮かべていた。