SAN値直葬系ジャミル成り代わり
その人間を見つけたのはコバルトブルーの人魚達であった。
およそ人の寄りつかない切り立った崖の下。荒れ狂う渦が命を飲み込む死の海域。人間も人魚も忌避するような危険地帯。そこはスリルを好む双子の人魚の遊び場だった。
今日も今日とて、危ない場所で遊んでいた双子達。きゃらきゃらと片割れと笑い合っていると、無粋な水音が辺りに響き渡ったのだ。
ごく稀に、行き場をなくした者や、生気のない陸の生き物が、安らぎを求めてこの場所にやってくることがある。今日も眠りにつきたい生き物がやってきたのだろう。そう思って派手な音を立てた方を見ると、思った通り、一人の人間が海流に乗って、下へ下へと流されていく。
「おやおや」
「よくやるよねぇ、苦しいだけなのに」
生きて子孫を残すことが尊ばれる海の生き物たちは、何故地上の生き物が身を投げるのかが分からない。
呆れたような顔で落ちてきた生き物を見て、人魚達ははっと息を呑んだ。
珊瑚の海の近海では見掛けない褐色の肌。海に溶けるような色合いが多い珊瑚の海では非常に珍しい黒髪。
彼らは、踊るように靡く髪の美しさに目を奪われていた。
「すっげ………」
「ええ………」
人魚の美の基準の中で、最も重要視されるのは歌声と髪の美しさである。
故に、髪を宝物のように扱う人魚達は、美しい髪というものに見慣れていた。
けれど、そんな彼らの目から見ても、その黒髪は魅力的だった。
ごぼり、と人間の口から空気が吐き出されるのを見て、人魚達は我に返った。
生かさねば、と人魚達が海に飛び込んできた人間を掬い上げる。
早く早く、と懸命に海面へと泳いでいく。
だってこんなに美しい生き物、興味が湧かないわけがないのだ。このまま溶けてなくなってしまうなんて、もったいないにも程がある。
海から顔を出して、腕の中の人間を見つめた。
顔に張り付いた髪を払う。顕わになったかんばせはこれまた整っていて、美しいものを尊ぶ人魚達好みであった。
けれど唇の色は青ざめていて、心臓は動いているようだが、呼吸は止まっていた。
このままでは危険だと判断した人魚達が近くの砂浜を目指して泳いでいく。
ずるずると長い尾びれを引きずって、波の届かない砂の上へと乗り上がる。
柔らかい砂の上に人間を寝かせて、ペチペチと頬を叩く。けれど、美しい人は中々目を覚まさない。
「起きないねぇ」
「起きませんねぇ」
身体を揺すって目を覚ますように促すと、苦しげに眉が寄せられた。わずかな変化を感じ取った人魚達がもう一度頬を叩く。すると黒髪の人間ががほ、と大量の水を吐き、息を荒げながらもゆっくりと目を持ち上げた。
「あっ、起きたぁ!」
「おはようございます。お加減はいかがですか?」
「………?」
顔に掛かる髪を手で梳きながら、双子の人魚がにこにこと笑う。
黒髪の人間はまだ意識がはっきりしていないのか、虚ろな目で双子を見上げていた。
「名前分かる? オレねぇ、フロイド!」
「僕はジェイド・リーチです。あなたのお名前は?」
「………じゃみる」
フロイドとジェイドと名乗った双子の人魚は、ジャミルと名乗った美しい人が、声も自分たち好みであることに頬を上気させた。
「ふふ、ジャミルさん、ですね」
「ジャミルはどこから来たのー? ここらの人じゃないよね?」
「………熱砂、」
「おやおや、随分と遠いところから来たのですね」
人魚達の質問に、ジャミルは端的に答える。冷たい印象を受ける対応だが、双子は自分好みの人間とお話しできて満足げだ。
周囲を見渡す余裕が生まれたのか、ジャミルがゆっくりと視線を動かす。空ばかりが見える視界に自分が外にいることだけを把握したジャミルは、最後に視線をフロイド達に固定した。
「………にんぎょ?」
「そうだよぉ。オレ達ウツボの人魚なの」
「初めて、見た」
「驚きましたか?」
笑みを深めたジェイドに、ジャミルはゆっくりと首を振る。
「きれい、だと思う」
ぽつり、と小さな声で感想を述べて、ジャミルが体を起こそうとする。けれど、腕が萎えきっているのか、上手く起き上がることが出来ない。
二人の腕が背中に差し込まれ、二人の力を借りて、ジャミルはゆっくりと身を起こした。
「助けて貰って悪いんだが、あの、俺、溺れていたわけでは………」
「うん、知ってるよ。ジサツってやつ、しようとしてたんでしょ?」
「でも、ごめんなさい。お話ししてみたかったので、助けちゃいました」
にこにこと、悪びれることなく笑みを浮かべる二人の人魚。
興味が湧かなかったら助けなかったのかな、と首を傾げて、それからふるふると首を振った。
「別に、死にたかったわけじゃないんだ」
「おや、そうなのですか?」
「死にたくねぇのに飛び込んだの? なんで?」
「誰かに殺されるくらいなら、自分の意思で死にたかったんだ」
二人が揃って首を傾げる。
続きを促すようにじっと見つめられ、ジャミルは仕方なく口を開いた。
「仕事で、命を張らなくちゃいけなくて。でも、それは俺の意思じゃなくて」
太陽のような笑顔が脳裏を過ぎる。自分よりも死に近いくせに、いつだって笑っていた子供。
泣いて、喚いて、怯えてくれたら、どれほどよかっただろう。どれほど救われただろう。
けれど彼はそう在ってくれなかった。周囲を照らす光のように、慈愛に満ちた顔をして、何でも無いことのように日々を過ごしていた。
もっと、自分に近しい人間だったら、きっと共感することが出来た。彼のために頑張ることが出来た。
けれど、彼は共感できる人物ではなかった。得体の知れない恐怖を煽る相手であった。
―――――そんな人間のために、命を賭けられない。
立場を省みるならば、それは自分勝手でわがままな意見だろう。
けれど、自分の命を賭けても良いと思えるような人物ではなかったのだ。少なくとも、ジャミルにとっては。
「自分の命は自分のために使いたいのに、立場がそれを許してくれない。だから鏡を潜って、故郷から遠く離れて、右も左も分からない場所で、崖から飛び降りたんだ。それが、俺に残された最後の手段だったから」
結局は死に損なってしまった。逃げることは出来なかった。
ジャミルの主人はジャミルを気に入っていたから、きっとジャミルのことを探すだろう。放っておいてはくれないだろう。
主人や、様々なしがらみから逃れるためには、死ぬ以外の選択肢がない。だから、死にたくなくても、それがジャミルに残された唯一の対抗手段だったから、ジャミルは何の戸惑いもなく海へと身を投げたのだ。
けれど、もう一度身を投げるのは、この人魚達が許さないだろう。
―――――出来れば、海で死にたいんだけどなぁ。
海は、死に近い。けれど、命に包まれている安心感がある。ここが命の還る場所だというあたたかさがある。
下へ下へと沈んでいって、その泣きたくなるほどのあたたかさを知った。全てを受け入れてくれる広大な愛を知った。
ここに還りたい。ここで眠りたい。そう思わせる、包むような優しさを感じたのだ。
「最後の手段が失敗して、その命はどうなんの?」
「………さぁ、ここで終わろうと思っていたから、考えてなかったよ」
「ならさぁ、オレ達にちょうだい?」
「え?」
フロイドの言葉に、ジャミルが目を瞠る。
フロイドがニコニコと手を差し出せば、その隣でジェイドがニィ、と口角を釣り上げた。
「最後の手段として命を捨てたのだから、捨てた後であるそれは、もう要らないものですよね?」
「まぁ、そうだが………」
「捨てるもんなら、貰って良いでしょ?」
「捨てたのなら、もうあなたのものでは無いはずです。拾った僕達が、好きにしても良いでしょう?」
フロイドに続いて、ジェイドもジャミルに手を伸ばす。幼い子供が“ちょうだい”とお菓子をねだるように。あるいは、共に行こうと手招くように。
「一緒に行こうよ。海の底へ」
「僕達が歓迎しますよ」
歌うようなその言葉に、誘われるように、ジャミルは二人の手を取った。