SAN値直葬系ジャミル成り代わり






 前世の記憶というものが存在することを、信じられるだろうか。
 信じられないという人が殆どだろう。仮に信じていたとしても「あったら凄い」と他人事でしかないだろう。現に俺もそうだった。
 しかし、信じられないことに。否、信じたくないことに、俺の中には前世の記憶というものが存在する。

 前世の俺は、奇跡も魔法もない平凡な世界の住人だった。
 小石に躓くような不運はあれど、絶望するような不幸はない。ひやりとする瞬間はあれど、「もう駄目だ」と諦めるようなことはない。
 特筆すべき所などない、平凡とか平和を形にしたような生活を送る学生だったのだ。

 けれど、今世は違う。
 今世の俺は、とある砂漠の国の従者の家系に産まれたのだ。

 今世の名をジャミル・バイパー。仕える家名は「アジーム」。王族の血すら流れる由緒ある商家だ。

 この世の贅を集めたような大きな屋敷。うずたかく積まれた金銀財宝。傅く従者たちに、国中から集められた、見惚れるような美しい女たち。
 きらびやかな陽光の裏では醜い嫉妬と下卑た欲望が蔓延り、陰謀と策略が錯綜する。
 拉致に監禁、毒に暗殺。
 誰がどんな目的で近づいてくるのかを常に警戒していなくてはいけなくて。飲食物には何が混ぜられている分かったものではないから、気兼ねなく食べるようなことは出来なくて。
 特にアジームの頂点に立つ資格を有する者達は、そんな薄汚い人間達によって命の危険に晒されるのだ。

 俺の主人であるカリム・アルアジームは、不運なことにアジーム家の長子として産まれた。
 俺と同い年で、丁度良いからと俺はカリムの世話役に決められたのだ。
 本当なら俺も両親の世話を受けているような年齢であるのに、同い年の子供のお世話をしなければならなくて。ただの兄弟のようなお世話ならばまだ良いけれど、カリムは主人であるから、兄弟のように気安く接することは出来ない。
 その上、ただの子供ではないから、少しでも粗相をすれば叱られるし、酷いときには折檻もある。彼より優秀になってはいけないと押さえ付けられて、したくもない我慢を強いられることも。
 更に彼は危険な目に遭うことも多いのだ。彼を誘拐して身代金を得ようとしたり、彼を暗殺しようとする輩に狙われることもある。自分の子供を当主にしたいと考えるものに毒を盛られることも少なくはない。俺自身も、それに巻き込まれたことは数知れず。
 命の危機なんて数えるのも億劫なほど身近にあって。アジームの人間を守るために呆気なく死んでいく人を何人も見てきた。

 それが当たり前で、それを当然のことと捉えられたなら、俺は普通に生きられたのだと思う。
 けれど俺には記憶があった。誘拐なんて程遠いところにあって、暗殺なんて想像もつかないような、平和で幸せな記憶。周囲の人間がいつ裏切るか分からなくて、食事も満足に楽しめないような、そんな残酷なこととは隔絶された世界に住んでいたあたたかな日常の記憶。
 だからアジーム家と、アジーム家を中心に渦巻く過酷な環境に、恐怖と拒絶を覚えてしまったのだ。

 ―――――俺は、誰かのために死ぬことは出来ない。

 アジーム家を守ることを至上とする家族が理解できなくて。暗殺や誘拐を日常のように捉えるアジーム家が悍ましくて。悪意も殺意も全部受け止めて、それでも笑っていられるカリムが恐ろしい。

 カリムは強い子供だった。いつだって太陽みたいに輝いていた。いつ殺されるか分からない恐怖に付き纏われながらも、絶対に笑顔を絶やさないのだ。
 それは俺には出来ないことだった。地獄のような場所で笑うことは出来なかった。彼のように強く在れなかった。

 彼の笑顔を見るたびに、自分の弱さを突きつけられているようで。誰かのために命を掛けられない自分が酷く小さく思えて、どうしようもなく苦しくなった。いっそ泣き喚いて、死にたくないと怯えてくれたら、俺は彼を理解できただろうし、もっと頑張ることが出来ただろう。
 けれど彼は泣いてくれなかった。怖いと言ってくれなかった。苦しいと言ってくれなかった。
 だから俺は余計に、死の足音に怯える自分が惨めに思えて、どうしようもなく情けなくなってしまったのだ。誰かに殺されるくらいなら、そうなる前に自分の意思で死にたいと、そう思ってしまうくらいに。

 そんなときにカリムの食事に毒が盛られていて、毒見役だった俺が毒を食んでしまった。
 何日も生死の境を彷徨って、それがきっかけとなって、俺はついに「逃げたい」と思ってしまうくらいに追い詰められたのだ。
 だから死にかけの身体に鞭を打って、鏡を潜った。
 行き先がどこかなんて知らない。行く当てなんてなくて、そもそもどこでも良かったのだ。自分を知る者なんて存在しない、祖国と遠く離れた場所であるならば。

 行き着いた先は祖国の砂漠とは真逆の、酷く寒い場所だった。雪こそ積もっていないものの、吐く息は白く、身体の芯から凍えるような冷たさだ。
 祖国から遠く離れた場所というのはすぐに分かった。祖国である熱砂の国の周辺は冬でも雪に縁がない。自分の望み通りの場所に来られたことにほっとした。

 走って。走って。走って。ようやく辿り着いたのは切り立った崖。眼下には轟々とうねる海が広がっていた。
 ここから飛び降れば、きっともう二度と上がってくることはないだろう。死ぬのは確実だろう。そう理解したのに、俺の身体は何の戸惑いもなく、自ら宙を舞っていた。

 固い地面のような水面。上も下も分からない激しい海流。痛くて苦しくてたまらないのに、ようやく終われるのだという開放感の方がずっと勝っていた。多幸感すらあった。

 今世で海に来たのは初めてのことだ。けれど、この海を非常に好ましく感じた。
 海はあらゆる生き物の原点であり、数多の生き物の還る場所だ。どんな場所よりも死を身近が感じられて恐ろしいけれど、それと同時に命に包まれている安心感があるのだ。

 ―――――俺はずっと、ここに来たかったんだ。
 そう感じるくらいに、俺にとってはあたたかな場所だった。

 流れに身を任せていると、いつの間にか海流を抜けていた。下へ下へと流されていたようで、太陽の輝きは遙か彼方のものとなっている。
 身を焦がすような光から解放された安心感から、ほっと息を吐く。ごぼり、と肺から空気が失われた。
 遠のく意識の中、海の底で、優雅に揺蕩うひらめきを見た気がした。




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