「ウミヘビくん、あのね」
スカラビアの副寮長であるジャミル・バイパーはオクタヴィネル寮に建設されたカフェ『モストロ・ラウンジ』に来ていた。
副寮長会議用の資料に不備があったと言うことで、ハーツラビュルの副寮長であるトレイ・クローバーから、新たな資料を配付されたのである。そのときに、オクタヴィネルの副寮長であるジェイド・リーチに資料を届けて欲しいと頼まれたのだ。
「ウミヘビくんだ~。いらっしゃいませ~!」
新たな来客の気配を察して出迎えに現れたのは、ジェイドの双子の片割れであるフロイドだ。
フロイドは垂れ目を更に垂れさせて、柔らかい笑みを浮かべていた。
「悪いが、客としてきたんじゃない。ジェイドに用があるんだ。次の副寮長会議について話がしたい」
「う~ん、ジェイドは今日キッチン担当だから、ちょっと時間かかるかも。席の方に案内するから、そっちで待ってて貰って良い?」
「ああ、頼むよ」
「は~い」
珍しいくらいに機嫌の良いフロイドが案内したのは、少しばかり奥まった席だった。けれど、水槽がしっかりと一望でき、なかなかに良い席であることが窺えた。
客としてきたわけでもないのに良い席を陣取るのはいかがなものか、とフロイドを見上げる。
しかしフロイドはジャミルの肩を押して席に座らせた。
「今飲み物持ってくんね。オレのオススメ作ってあげる」
「いや、そんなに長居する気は……」
「ジェイドにウミヘビくん来たこと伝えてくるから、いい子で待っててね~」
そう言って、フロイドはジャミルの意見も聞かずに厨房へと消えていった。
彼が人の話を聞かないのはいつものことであるが、今日は少し毛色が違うような気がする。浮かれている、と言うのが近いだろうか。
何か良いことでもあったのだろう。ジャミルは肩を竦め、大人しく席で待つことにした。
フロイドを待つ間、ジャミルはこの店の雰囲気を楽しむことにした。
ジャミルはモストロ・ラウンジ自体は気に入っているのだ。しかし、経営者が気に入らないために訪れることは殆どない。
だからその滅多にない機会を楽しむことにしたのだ。
ジャミルの故郷である熱砂の国にも海はある。しかしジャミル達の暮らす地域からは離れており、海に関わることは少ない。
また、海に住まう生き物も違う。熱砂の国は温暖な海だ。モストロ・ラウンジの水槽は、珊瑚の海のように冷たい海の生き物が多い。見たこともない生き物ばかりで、酷く興味をそそられた。
「お?」
美しい魚たちを眺めていると、一匹の魚が近寄ってくる。ひょろ長いシルエットはウミヘビのように見えた。
けれどそれはウミヘビではなく、ウツボの稚魚であった。
そのウツボは水槽の縁を行ったり来たりして、ジャミルの正面に来ると、かぱりと口を大きく開けた。
「………大きいと少し怖いが、小さいと可愛いもんだな」
ふっ、と口元を緩める。かぱりと口を開けているのは空腹からだろうか。
ちょいちょいと指先を水槽に近づけると、小さなウツボが近づいてくる。
「ふふ、可愛いな」
ダンッ! とすぐそばで大きな音が立った。
振り返ると、いつの間にかドリンクを運んできたフロイドが、トレイごとドリンクがテーブルに叩き付けられたようだった。幸いにも溢れるようなことはなかったが、美しい青色のジュースが大きく波打っている。状況を飲み込めない脳が、綺麗だな、と場違いな思考を展開した。
戻ってきたフロイドは、先程までの上機嫌はどこへやら、最高に不機嫌な様子だった。
この短時間に一体何が、と驚いていると、フロイドの口がぐわりと開く。鋭い牙がずらりと並んでいるのが見えた。のどの奥にある、咽頭顎まではっきりと。
初めて見る捕食者の牙に息を呑む。どうやら自分ではなく、水槽の稚魚を睨み付けているようだが、間近で見るには少しばかり勇気の要る代物だった。何せ腕くらいなら食いちぎられてしまいそうな鋭さをしていたので。
「フロイド?」
ほんの少し顔を覗かせた恐怖心を隠しつつ、ジャミルがフロイドに声をかける。
けれどフロイドは水槽の稚魚と睨み合っており、ジャミルが声をかけたことにも気付いていないようだった。
どうしたものか、と肩を竦めていると、くすくすと楽しげな笑い声が聞こえた。キッチンが一段落したらしいジェイドだ。
「フロイドは水槽のおませさんに嫉妬しているのですよ」
「………? どういうことだ?」
「それを僕の口から説明するのは野暮というものです。フロイドの言葉を待つか、ご自身で気付いてやって下さい」
―――――教える気はないと言うことか。
楽しげに口角を上げるジェイドに、ジャミルは小さく嘆息する。
「………いずれ分かるなら今は良いさ」
「おや、意外とあっさりしているのですね」
「まぁな。それより、さっさと用事を終わらせたい」
「ええ、分かりました」
何故だか分からないが、フロイドが教えてくれるというのなら、それを待っていたいのだ。
けれどそれをジェイドに言うと面倒なことになりそうなので、興味がないフリをしてここに来た目的を果たすべく、会議の資料を差し出すのだった。
ちなみに、この時の嫉妬の意味をジャミルが理解するのは、そう遠くない未来の話である。