深海の月






 モストロ・ラウンジを開店してしばらく、物珍しさがなくなった頃のことである。固定客がつき、店の売り上げが一定になってきたアズールは、新規顧客の獲得のために頭を悩ませていた。


「イグニハイドの生徒を呼び込めれば、更なる利益が見込めるんですが………」


 殆どの寮に一定以上の顧客が存在するが、対人関係が苦手なイグニハイドだけは、ラウンジを利用する生徒の数が極端に少ない。彼らの意見に耳を傾けると、ただでさえ外に出るのも億劫なのに、オシャレな空間に気後れするという意見が聞こえてくる。けれど彼らのためだけにラウンジの景観を変えるわけにはいかない。


「イグニハイドか………。店内のインテリアを増やして、周りから見えにくい席を用意するのは?」


 アズールの呟きを聞いたルナが、困ったように眉を下げる。
 ルナもイグニハイドの生徒の来店率が低いことが気になっていたのだ。


「それも考えましたが、すでに完成された店内です。これ以上インテリアを増やせば、景観を損ねかねない」
「そうか………」


 確かに店内はアズールがこだわり抜いて、美に重きを置くポムフィオーレの寮生達も唸るような美しさをしている。そこに余計な手を加えれば無粋な印象を与えかねない。


「もう少しイグニハイドの来店頻度が上がれば、ハードルも下がるんでしょうが………」


 難しい顔をして米神を押さえるアズールを、ルナがじっと見つめていた。



***



 モストロ・ラウンジの入り口付近で、不審な動きをする生徒がいた。青と黒の腕章―――――イグニハイドの生徒である。
 その生徒に気付いたラウンジのスタッフ―――――ルナがぱっと顔を輝かせてラウンジの扉を開けた。


「来てくれたんだな。いらっしゃいませ」


 端正な顔をほころばせたルナを見て、イグニハイドの生徒がぽっと顔を赤らめた。


「う、うん。せ、せっかく誘って貰ったから………」
「人が多いところは苦手なのに誘って悪かったな。来てくれて嬉しいよ。ありがとう」
「い、いや、そんな………! ま、前から来てみたいと思ってて………!」
「なら良かった。では、お席に案内しますね」
「よ、よろしく………」


 弾んだ声で、嬉しそうにコロコロと笑うルナに、内向的な生徒も口元を緩める。
 ラウンジに興味があったのは本当だが、彼がここに来たのはルナに会いたかったからである。
 好意を寄せている相手の満面の笑みに、勇気を出してよかったとイグニハイドの生徒はすでに多大な満足感を得ていた。

 こっちこっち、と他の客にはしないような気安さで袖口を引かれて席に案内される。
 スキンシップになれていない男はあわあわと慌てるが、ルナはご機嫌で気付いていないようだった。


「端っこの方で悪いな。みんな水槽の方を見るから、あまり視線が向かない場所を選んだんだが……。もっと水槽の見やすい席の方が良いか?」
「う、ううん! ここからでも十分見れるし、注目されるの苦手だから、有り難いよ………」
「なら良かった」


 メニュー表を差し出して、ルナがニコニコと笑う。メニュー表を受け取った生徒がもごもごと口を動かして、意を決してルナを見上げた。


「あ、あの、」
「うん?」
「お、オススメってある? ぼ、僕、オシャレな料理って、あんまり分からなくて………」
「俺のオススメで良ければ」
「う、うん」
「がっつり食べたい? 軽食の方が良いか?」
「け、軽食で………」


 メニュー表を開いたルナが、写真を示しながら料理の説明をしていく。


「なら、季節の魚介のジュレがオススメだな。この時季の新鮮な食材を使用しているんだ。見た目も綺麗だし、口当たりが良くて食べやすいんだ」
「あ、お、美味しそう………」
「もしくは、かぼちゃときのこのキッシュだな。確か、かぼちゃが好きだったよな?」
「え? お、覚えててくれたの………?」
「もちろん」
「え、あわ………」


 自分の好みを覚えていてくれたことに顔が熱くなる。
 動揺して挙動が可笑しくなっている自覚はあったが、ルナはたいして気にした様子はない。自分を否定しないところも、好ましいポイントだった。


「それで、注文はどうする? もう少し悩みたいなら、後で聞きに来るが」
「あ、え、お、おお、オススメ、両方で!」
「ふふ、ご注文ありがとうございます。飲み物はいかがなさいますか? 期間限定の酸味の利いたザクロのジュースがオススメですよ」
「じゃ、じゃあそれで………」
「かしこまりました。では、復唱させていただきます」


 注文を復唱して、間違いが無いことを確認する。それが終わったら、ルナはひらりと手を振って、オーダーを通すために足早に去って行った。
 そしてしばらくしてテーブルに運ばれた料理はルナがオススメするだけあって、非常に美味だった。
 どれもこれも見た目がよく、味もいい。とても学生が経営するものとは思えないほどの完成度だ。
 料理に舌鼓を打って、綺麗に完食したタイミングで、ルナが男に声をかけた。


「どうだった? 結構いけるだろ?」
「う、うん。ど、どれも美味しかったよ……。と、特にキッシュがす、好きだったな……」
「はは、やった。キッシュのメニュー開発には、俺も関わってるんだ。気に入って貰えてよかったよ」
「そ、そうなんだ。す、凄いね」
「ありがとう」


 少しだけ雑談して、会計を頼む。レジへと案内され、会計を済ませる。


「あ、そうだ。今はメニューにないけど、もう少し寒くなってきたらコーンポタージュも扱うから、そのときにはまた声をかけさせて貰うな?」
「え? あ………」
「これも好きだったよな?」


 ほんの少しだけ不安を滲ませた表情で控えめに笑いかけられる。
 ちょっとした雑談で口にしたことを覚えていてくれたという衝撃と、自分だけに笑みを向けてくれるという喜びで、男はこくこくと何度も頷いた。
 するとルナはほっとしたように微笑みに、男の胸を締め付ける。


「君は甘めの野菜が好きなんだな」
「こ、子供舌で悪かったね………」
「そんなことないさ。ふふ、かわいい」


 ほんのりと頬を染めて柔らかく微笑むルナは、伝説に伝え聞く春の女神のようだった。


「またのご来店をお待ちしております」


 夢見心地で店を後にした男は、またここに来ようと心に誓って、自寮に続く鏡を潜った。


「ルナァ………」


 イグニハイドの生徒を見送るルナを見ていたフロイドが、困ったように眉を下げてルナに声をかけた。


「ん? どうした、フロイド」
「そういうのやめな? かわいいけどぉ……変なの寄ってきちゃうからさぁ」


 むぅ、とむくれて「不機嫌です」と言う顔を隠しもしないで告げるフロイドに、ルナがくすくすと上品に笑う。


「ふふ、大丈夫だよ。ちゃんと人を選んでやってるから」
「ホント?」
「ああ。あいつは手に入らないからこそ美しいものを好んでいる。自覚はないようだが、触れてしまえば高嶺の花でなくなってしまうことを本能で理解している。それを自ら壊すような真似はしないさ」
「………よく分かんねぇ」
「俺は俺に触れたくてたまらないやつには触らせない。俺はそんなに安くはないからな」
「………ふぅん。じゃあ、オレはいいわけ?」
「ふふ、」


 「気に食わない」という感情に、ほんの少しだけ心配を滲ませるフロイドを見て、ルナが背伸びをして耳元に唇を寄せる。


「フロイドは特別。フロイドに触れられるのは嫌じゃないから」
「―――――」
「これ、兄さんには内緒にしろよ? 兄さん、絶対怒るから」
「………………はぁぁぁぁぁぁぁ~~~……」


 腹の底から空気を吐き出して、フロイドがぎゅっとルナを抱きしめた。


「ああもう、ムカつく~! どうせジェイドとかにも言ってんでしょ? でもかわいいから許す~~~!」
「まぁ、ジェイドも特別だからな。でも、これを言ったのはフロイドが初めてだぞ?」
「んぐ………、ムカつくけど嬉しいのが勝ってて、それが更にムカつく」
「ふふっ、何だそれ」


 ぐりぐりとルナの髪に頬をすり寄せる。
 明らかに拗ねていることが分かっているのに、そんなフロイドを見てルナは可笑しそうに笑っている。
 一人だけ憤慨しているのが更に面白くなくて、抱きしめる腕に力を込めた。


「はぁぁぁもぉぉぉぉぉ! もういいし! 今日はずっとぎゅっとしてるから!」
「ふ、ふははっ! じゃあ今日は一緒に寝ようか」
「寝る~! 一緒に寝る~!! アズールとジェイドはぶって二人で寝るんだかんね!」
「良いけど、怒られそうだな」
「知らね。今日は二人でいちゃいちゃすんの。じゃねぇと今週シフト入んねぇから」
「それは困るな。分かったよ。二人で寝ような」
「んふふ、決まりっ!」


 ルナの頬に口付けたフロイドはようやくルナを解放し、さっさと仕事に戻っていく。
 その後ずっと機嫌の良かったフロイドは閉店後すぐにルナを浚ってVIPルームに立てこもり、アズールとジェイドをはぶって二人で眠りについたのだった。
 ちなみにハブられた二人は盛大にキレ散らかし、寮生を怯えさせていたのだが、それは別のお話。




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