7 その後
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一年前の文化祭で知り合って、それから一年以上。
会った回数なんて数えるほどしかない。
ほとんどメールだけの関係だった。
それなのに。
私のことを好き?
じゃあ、私は……?
顔にはほとんど感情が出ないのに、メールでは絵文字だらけでよく喋る。
不器用というわけでもない。
でも、どこか放っておけなくて。
そんな川西さんが、少し可愛く見えてしまう。
先輩なのに。
……あ。
そっか。
私も好きなんだ。
異性として。
そう思った瞬間、自分でも驚く。
えっ……私いつから異性として見てたんだろう。
自分の気持ちなのに分からない。
でも、一度意識してしまうともう駄目だった。
目の前にいる川西さんが、さっきまでよりずっと格好良く見える。
……いや。
格好良いとは前から思っていた。
ただ、それ以上考えないようにしていただけなんだ。
このままの関係が心地良かったから。
壊したくなくて、自分の気持ちに蓋をしていた。
頬が熱い。
でも日焼けした肌だから、きっと気付かれない。
そう思っていたのに川西さんは下を向いたままちらりと私を見て、小さく安堵したような表情を浮かべた。
もしかして、もう全部伝わってる?
でも彼は何も言わない。
ただ、私の言葉を待っている。
「……もう察してると思いますけど、言葉にした方がいいですか?」
「うん。」
即答だった。
「ちゃんと言葉が欲しい。」
その一言に、思わず笑ってしまう。
「……私、自分の気持ちに今気付いたばっかりで、ちゃんと言えるか分からないんですけど。」
「告白して良かった。」
そう言って少しだけ口元を緩める。
「……で?」
急かされているようで照れくさい。
「川西さん。」
呼ぶと、真っ直ぐこちらを見る。
「表情変わってないつもりかもしれないですけど……今、絶対ニヤけてますよね?」
言い終わる前に、ぐっと手を引かれた。
そのまま身体が引き寄せられ、気付けば胸の中に包まれていた。
急に距離が近すぎる。
こんなの反則だ。
余裕そうに見えていた川西さん。
でも耳を澄ませば、胸から聞こえてくる鼓動は私よりずっと速かった。
付き合い始めた私たちは、浪人生と受験生だった。だからデートといっても、ほとんどが勉強会。
甘い時間ばかりではない。
それでも同じ大学を目指して机を並べる時間は、不思議なくらい頑張れた。
部活もあるから会えるのは二、三週間に一度。
それでも、付き合う前の一年間ほとんど会えなかったことを思えば、それだけで十分嬉しい。
夏。
地区大会で敗れ、ソフトボール部も一区切りを迎えた。
ここからは本格的な受験勉強。
正直、勉強は辛い。
でも、その分太一くんと会える時間は増えた。
塾も同じになり、帰りは駅まで送ってくれることもある。
少しでも共通の話題が欲しくて、自然と勉強にも力が入った。
……私って、こんなに単純だったかな。
恋愛なんて縁がないと思っていた。
告白されるまで、自分の気持ちにすら気付かなかったのに。今では、太一くんの存在が私の頑張る理由の一つになっていた。
高校三年生になった。
勉強を頑張ったこともあって、私は推薦をもらえた。
嬉しかった。
でも、そのことを太一くんにはすぐに言えなかった。
浪人して受験勉強を続けている彼を差し置いて、一足先に進路が決まったことが、なんだか後ろめたかったから。
黙っていたけれど、結局は気付かれてしまう。
「隠される方が辛い。」
静かにそう言われた。
慌てて謝ると、今度は少し困ったように笑って言う。
「謝られる方がキツい。」
気まずい空気になるかと思った。
でも太一くんはすぐに続ける。
「だから俺、頑張る。応援して。」
その言葉に胸がいっぱいになって、気付けば図書館の中だということも忘れて、そっと頭を撫でていた。
人の目なんて気にならなかった。
受験発表の日。
スマホが震える。
『同級生でーす😄』
相変わらず軽い文面。
でも、そのメールを無表情のまま打っている姿を想像すると、自然と笑みがこぼれた。
学部は違うけれど、同じ大学へ進学した。
周りにも付き合っていることは知られている。
それでも太一くんは相変わらずよくモテた。
声を掛けてくるのは、大人っぽくて綺麗なお姉さんみたいな人ばかり。
太一くんって、そういう人に好かれるんだな。
そう思うたびに、自分が隣にいていいのか少し不安になる。
私は恋愛なんて初めてだった。
付き合うのも太一くんが初めて。
だから不安になって、そのまま気持ちを伝えてしまったことがある。
すると太一くんは、いつも通りの無表情で言った。
「俺は一筋だから。」
その顔は変わらない。
でも付き合って一年も経てば分かる。
今、嬉しそうなんだ。
それがなんだか悔しくて。
「そういう顔しないでよ。」
少し怒ると、余計に嬉しそうな空気になる。
表情は変わらないのに。
「どうせ私はモテないし。」
拗ねてそう言うと、太一くんはきょとんとしたあと、小さく首を傾げた。
「俺、結構嫉妬深いから。」
「え?」
「他の男に牽制してるんだけど、知らなかった?」
知らない。
そんなの初耳だ。
思わず「知らんわ!」と返してしまう。
でも、その言葉が少しだけ嬉しかった。
大学生活は思っていた以上に楽しかった。
毎日が忙しくて、本当にあっという間に時間が過ぎていく。
気付けば私は就職活動。
毎日説明会や面接で慌ただしい。
一方の太一も就活中だけれど、普段は相変わらず飄々としている。
……ように見えるだけで、実は結構焦っているらしい。
何でもそつなくこなす人なのに、意外と真面目で不器用だ。
感情が表情に出ないから、損をしている気もする。
私はその逆。
すぐ顔に出るタイプだから、羨ましいと思うこともある。
でも就職活動では、熱意や必死さを見せる場面も多い。
私は思っていたより早く内定をもらえた。
勉強が特別できたわけでもない。
もしかしたら、必死さがそのまま顔に出ていたからなのかもしれない。
社会人二年目。
後輩もできて、新人とは言えなくなった。
まだまだ覚えることは多いけれど、その分任される仕事も増えていく。
都内は家賃が高いこともあって、気付けば太一くんと同棲するようになっていた。
仕事から帰ると、冷蔵庫には温めるだけの夕飯が入っている。
電子レンジで温めて食べる毎日。
家事はほとんど太一がやってくれていた。
彼は今、フリーター。
本人は少し気まずそうにしているけれど、仕事で帰りが遅い私よりずっと家のことをしてくれている。
私は今の生活が嫌じゃなかった。
ある日、夕食を食べ終えたあと、太一がぽつりと呟く。
「俺、先が見えないのに、このまま一緒にいていいのかな。」
その言葉に胸が少しだけ締め付けられる。
離れたいってこと?
一瞬そう思った。
でも、離すつもりなんてない。
「人生って八十年くらいあるんだよ?
そんな長いんだから、すぐ答えを出すより悩む時間があってもいいじゃん。それに太一、一人くらい私が養えるように働くし。」
すると彼は困ったように笑った。
「彼女が格好良すぎる。」
少し間を空けて続ける。
「惚れ直すけど……男としての自尊心が。」
「男として、って言葉はあんまり好きじゃないな。」
私は肩をすくめて笑う。
「惚れ直したってところだけ受け取りまーす。」
そう言った瞬間、ぎゅっと抱き締められた。
……私、本当にこういうのに弱い。
でも、抱き締める腕に少しだけ悔しさが混じっていることも分かる。
太一は感情が顔に出ないだけで、本当は誰より熱い人だ。
何でも器用にこなせる。
でも前に立つより、人を支える方が得意。
尽くすタイプとも少し違う。
だからこそ、その良さに気付いてくれる人がもっと増えてほしいと、私はずっと思っていた。
抱き締められたままなのが急に恥ずかしくなって、照れ隠しに話題を変える。
「そういえばさ。」
「ん?」
「私のこと、いつ好きになったの?」
太一がぴたりと固まる。
「……え。急だね。」
「私は太一に告白されてから自分の気持ちに気付いたじゃん。だから太一はいつだったのかなって。」
じっと見つめると、気まずそうにこちらを見返した。
「言わないと、ずっと質問攻めされそう。」
「分かってるなら教えてよ。」
笑いながら脇腹をくすぐる。
するとすぐにやり返されてしまった。
体格差では勝てない。思わず顔をしかめながら距離を取る。
そんな私を見て、太一がぽつりと呟いた。
「その顔。」
「え?」
意味が分からず首を傾げる。
「その表情も、その仕草も。」
少し懐かしそうに笑う。
「小学生の頃から飼ってた猫にそっくりだった。」
「猫っぽいなんて言われたことないけど?」
「高校の文化祭。猫の格好で喫茶店やってたでしょ。あの時、似てるなって思った。」
それから少しずつ昔のことを話してくれた。
寮生活が始まって、大好きだった飼い猫に会えなくなったこと。
その猫は表情が分かりやすくて、甘える時はとことん甘えるのに、爪とぎを始めると周りが見えなくなるくらい夢中だったこと。
姉にからかわれると、前に座って守ろうとするような優しい猫だったこと。
だから、その猫によく似たキーホルダーを見つけた時は本当に嬉しかったらしい。
それを文化祭でなくしてしまった。
諦めかけていたのに私が走って探しに行った。
翌日、「見つかった」と連絡が来た時は本当に嬉しかったこと。
だから、また会いたくてお礼を口実に誘ったこと。
「本当はパスタの店を予約するつもりだったんだよ。でも嫌いな食べ物あるから先に聞けって。」
「え?」
「あと先輩に『女の子との初デートでハンバーガーはやめとけ』って言われて。」
思わず吹き出す。
「でも○○がハンバーガー食べたいって言うから。」
「そうだったんだ。」
「あの日もデート中もずっと先輩から『どうなった?』『ちゃんと話せてる?』って連絡が来てた。」
そういえば。
初めて二人で出掛けた日、太一は何度もスマホを見ていた。部活の連絡かと思っていたけれど違ったんだ。
「寮でもメールしてたら、先輩にスマホ取られて。」
少しだけ困ったように笑う。
「『会いたい』って勝手に送られた。」
「あれ先輩だったの!?」
高校一年の頃、本気で二重人格なんじゃないかと思った出来事を思い出す。
「その先輩、怖いね。」
二人で顔を見合わせて笑った。
文化祭の日。
落とし物。
一年続いたメール。
初めてのデート。
全部が少しずつ繋がっていく。
「それで?」
私はもう一度聞く。
「結局、いつ好きになったの?」
彼が照れ隠しをするように首の後ろへ手を当てた。
昔から変わらない癖。
少しだけ笑ってしまう。
彼は観念したように答えてくれた。
「俺のキーホルダーを探しに走ってくれた時。」
そこまで言うと声がどんどん小さくなった。
「それからは……積み重ね。」
私は思わず笑顔になる。
「積み重ね?」
「……うん。」
「今でも?」
そう聞くと、太一が照れたように首の後ろをさすった。
その癖を見ながら私はまた笑ってしまう。
そうか。
この仕草は、ずっと照れ隠しだったんだ。
太一は大学を卒業してから今でも居酒屋でアルバイトを続けている。
店長からは何度も「正社員にならないか」と声を掛けられているらしい。
でも、まだ迷っている。
私は無理に答えを出さなくてもいいと思っていた。
やりたいことを探してもいいし、このまま正社員になる道を選んでもいい。
それは彼自身が決めることだから。
ただ本人は将来が見えないことに焦りを感じているみたいだった。
同棲していると、たまにそんな弱音を聞くことがある。
休日の昼下がり。
突然、彼のスマホが鳴った。
電話に出た太一は相変わらず無表情。
でも長く一緒にいる私には分かる。
今、かなり戸惑っている。
何があったんだろう。
私はコーヒーを淹れて隣へ置く。
すると太一は困ったようにスマホを差し出した。
「……代わって。」
「え?」
戸惑いながら受け取ると、すぐに明るい声が聞こえてきた。
『はじめまして〜!俺、天童って言うんだけど、太一の彼女さんだよね?よろしく〜!』
勢いに圧倒される。
『それでさ、太一のこと後押ししてほしいんだよね!』
「は、はじめまして……。」
思わず姿勢を正す。
「後押しって、何ですか?」
『俺、ショコラティエやってるんだけどさ。知ってる?太一から聞いてる?あ、テレビにも出てました〜。』
「はい。太一から聞いてますし、テレビも見ました。」
『ほんとに!?俺、有名人〜!』
電話越しなのにテンションが高い。
思わず笑ってしまう。
『それでね、日本でも催事とか色々やろうと思ってるんだけど、俺ずっとフランスいるから代理みたいな人が欲しくてさ。』
少しだけ声の調子が変わる。
『太一なら俺のやりたいこと分かってくれるし、仕事もできる。だからお願いしたいんだよね。』
最後の「ね?」が妙に可愛く聞こえて、また笑ってしまった。
彼から天童さんの話は何度も聞いていた。
尊敬している先輩。
そして天童さんも、太一をよく理解している人。そんな印象だった。
「それって。」
私はゆっくり口を開く。
「太一の仕事が心配だからじゃなくて、天童さんが太一にお願いしたいってことですよね?」
電話の向こうが一瞬静かになる。
「……天童さん?」
『……思ってた以上に太一のこと好きなんだね。』
少し照れたような声だった。
『うん。俺さ、今日この電話するの結構気合い入れたんだ。後輩に"俺の仕事を手伝ってほしい"って言うの、意外と勇気いるんだよ。』
少し笑って続ける。
『ちゃんと本人に伝える。』
私はスマホを太一へ返した。
ここから先は本人同士の話だ。
……そういえば。
電話の声を聞いていて、急に思い出した。
太一が話していた癖の強い先輩。
デートの相談に乗ったり。
「会いたい」なんて勝手にメールを送ったり。
……あ。
この人だ。
全部繋がった。
ちょうど電話が終わりそうだったので、私は太一からスマホをひょいと奪う。
「天童さん。」
『はいはい?』
「人の携帯で勝手にメール送るのはやめてください。」
ぴしゃりと言うと、
『あはははは!』
電話の向こうで大笑いされた。
その笑い方がなんだか悔しくて、思わず頬を膨らませる。
そんな私を見て、太一まで少しだけ笑っていた。
あの日の電話をきっかけに、太一は天童さんの仕事を手伝うことになった。
日本での催事や仕事が増え、毎日忙しそうに飛び回っている。
以前より一緒に過ごせる時間は減った。
それでも私は、不思議と寂しいとは思わなかった。
ようやく彼が、自分の進みたい道を見つけた気がしたから。
天童さんの仕事を手伝うようになってから、太一は日本とフランスを行き来する生活になった。
忙しくなっても表情が変わらないから周りには余裕そうに見えるらしい。
仕事を理由に近付いてくる女性も増えた。
それに会えない時間が増えるたび太一は少しだけ不安そうな顔をする。
そんなある日、ぽつりと告げられた。
「結婚してほしい。」
迷う理由なんてなかった。
ホテルの式場。
披露宴の会場で、私は思いきり顔をしかめていた。
「太一くんとは高校時代に出会いまして〜。最初は先輩後輩として仲良くしてましたが、今では仕事でも先輩後輩。人との出会いって本当に縁なんですよね〜。」
よくそんなにスラスラ喋れるな。
壇上でマイクを握っている天童さんを睨みつける。
仕事を任せて、太一と会えない日を増やした張本人。
無茶振りみたいな仕事ばかり押し付けて。
太一は文句も言わず、淡々と全部こなしていたけれど、本当はすごく大変だった。
全部、あの人のせいだ。
そんな私の視線に気付いているのか、太一は隣で少しだけ落ち着かない様子だった。
表情はいつも通り変わらない。
でも私には分かる。
「最後に。」
天童さんが満面の笑みを浮かべる。
「ウエディングケーキは俺から二人へのプレゼントです。新婦様が喜んでくれると嬉しいな〜。」
……そういうところ。
憎めないのが余計に腹立たしい。
ファーストバイト。
私はわざと大きく口を開けてチョコレートケーキを頬張った。
口元にもクリームが付く。
白いウエディンググローブにもチョコレートが付いてしまったけれど、そんなの知ったことじゃない。
チョコレートケーキなんて選んだ人が悪い。
クリーニング代は天童さんに請求しよう。
まだ少し不機嫌なままケーキを食べていると、太一がそっと顔を近付け、小さな声で囁いた。
「怒ってる顔も可愛いけど。」
少しだけ目を細める。
「今日は俺を見て。」
その一言に思わず笑ってしまう。
……嫉妬?
可愛い。
やっぱり私は太一が好きだ。
新婚旅行は、天童さんの計らいで二週間。
「恩情だからね〜」なんて笑っていたけれど、きっと太一くんが頑張っていたご褒美なんだと思う。
旅先で私は前からずっと伝えたかったことを話した。
「フリーターのままでも、お金がなくても、私は太一と一緒に人生を歩きたかったよ。」
そう言うと太一くんは少しだけ笑う。
「フリーターだった俺でも?」
「うん。」
すると、意外なことを聞かされた。
実はフリーター時代から、それなりに貯金はあったらしい。
家賃も生活費も半分ずつ出してくれていたし、お金に困っている様子はなかったのを思い出す。
投資も少しずつ続けていて、着実に資産を増やしていたという。
……本当に、この人は堅実だ。
器用で、計画的で、ちゃんと先を見ている。
新婚旅行から帰ったあと、通帳を見せてもらって私は固まった。
天童さんの仕事を始めてから収入が増えたことは知っていた。
でも驚いたのは、それ以前からの貯金額だった。
私が何年もかけてコツコツ貯めてきた金額が、急に可愛く思えてしまう。
そして思い出す。
『太一くんなら私が養えるし。』
昔、自信満々に言ったあの言葉。
恥ずかしさで顔を覆う私を見て、太一くんが静かに笑った。
「養えるしって言われた時、すごく嬉しかった。」
追い打ちだった。
恥ずかしくて、その場でしゃがみ込みたくなる。
お金や肩書きだけが、その人の価値じゃない。
仕事が忙しすぎて、「少し休めばいいのに」と思うこともある。
それでも太一は、人から頼られることが好きだ。
必要とされることが嬉しい人なんだ。
そんな彼だから、私はこれからも応援したいと思う。
……ただ一つだけ。
あの上司の笑顔を思い出すと今でも少し腹が立つ。
苛立ちを紛らわせるように趣味のネイルをしようと爪を整えていると、彼がくすっと笑った。
「その仕草。昔、大事にしてた猫のキーホルダーを思い出す。」
文化祭の日。
落とし物。
一本のメール。
あの日から始まった私たちの縁は、今も変わらず続いている。
〈終〉
会った回数なんて数えるほどしかない。
ほとんどメールだけの関係だった。
それなのに。
私のことを好き?
じゃあ、私は……?
顔にはほとんど感情が出ないのに、メールでは絵文字だらけでよく喋る。
不器用というわけでもない。
でも、どこか放っておけなくて。
そんな川西さんが、少し可愛く見えてしまう。
先輩なのに。
……あ。
そっか。
私も好きなんだ。
異性として。
そう思った瞬間、自分でも驚く。
えっ……私いつから異性として見てたんだろう。
自分の気持ちなのに分からない。
でも、一度意識してしまうともう駄目だった。
目の前にいる川西さんが、さっきまでよりずっと格好良く見える。
……いや。
格好良いとは前から思っていた。
ただ、それ以上考えないようにしていただけなんだ。
このままの関係が心地良かったから。
壊したくなくて、自分の気持ちに蓋をしていた。
頬が熱い。
でも日焼けした肌だから、きっと気付かれない。
そう思っていたのに川西さんは下を向いたままちらりと私を見て、小さく安堵したような表情を浮かべた。
もしかして、もう全部伝わってる?
でも彼は何も言わない。
ただ、私の言葉を待っている。
「……もう察してると思いますけど、言葉にした方がいいですか?」
「うん。」
即答だった。
「ちゃんと言葉が欲しい。」
その一言に、思わず笑ってしまう。
「……私、自分の気持ちに今気付いたばっかりで、ちゃんと言えるか分からないんですけど。」
「告白して良かった。」
そう言って少しだけ口元を緩める。
「……で?」
急かされているようで照れくさい。
「川西さん。」
呼ぶと、真っ直ぐこちらを見る。
「表情変わってないつもりかもしれないですけど……今、絶対ニヤけてますよね?」
言い終わる前に、ぐっと手を引かれた。
そのまま身体が引き寄せられ、気付けば胸の中に包まれていた。
急に距離が近すぎる。
こんなの反則だ。
余裕そうに見えていた川西さん。
でも耳を澄ませば、胸から聞こえてくる鼓動は私よりずっと速かった。
付き合い始めた私たちは、浪人生と受験生だった。だからデートといっても、ほとんどが勉強会。
甘い時間ばかりではない。
それでも同じ大学を目指して机を並べる時間は、不思議なくらい頑張れた。
部活もあるから会えるのは二、三週間に一度。
それでも、付き合う前の一年間ほとんど会えなかったことを思えば、それだけで十分嬉しい。
夏。
地区大会で敗れ、ソフトボール部も一区切りを迎えた。
ここからは本格的な受験勉強。
正直、勉強は辛い。
でも、その分太一くんと会える時間は増えた。
塾も同じになり、帰りは駅まで送ってくれることもある。
少しでも共通の話題が欲しくて、自然と勉強にも力が入った。
……私って、こんなに単純だったかな。
恋愛なんて縁がないと思っていた。
告白されるまで、自分の気持ちにすら気付かなかったのに。今では、太一くんの存在が私の頑張る理由の一つになっていた。
高校三年生になった。
勉強を頑張ったこともあって、私は推薦をもらえた。
嬉しかった。
でも、そのことを太一くんにはすぐに言えなかった。
浪人して受験勉強を続けている彼を差し置いて、一足先に進路が決まったことが、なんだか後ろめたかったから。
黙っていたけれど、結局は気付かれてしまう。
「隠される方が辛い。」
静かにそう言われた。
慌てて謝ると、今度は少し困ったように笑って言う。
「謝られる方がキツい。」
気まずい空気になるかと思った。
でも太一くんはすぐに続ける。
「だから俺、頑張る。応援して。」
その言葉に胸がいっぱいになって、気付けば図書館の中だということも忘れて、そっと頭を撫でていた。
人の目なんて気にならなかった。
受験発表の日。
スマホが震える。
『同級生でーす😄』
相変わらず軽い文面。
でも、そのメールを無表情のまま打っている姿を想像すると、自然と笑みがこぼれた。
学部は違うけれど、同じ大学へ進学した。
周りにも付き合っていることは知られている。
それでも太一くんは相変わらずよくモテた。
声を掛けてくるのは、大人っぽくて綺麗なお姉さんみたいな人ばかり。
太一くんって、そういう人に好かれるんだな。
そう思うたびに、自分が隣にいていいのか少し不安になる。
私は恋愛なんて初めてだった。
付き合うのも太一くんが初めて。
だから不安になって、そのまま気持ちを伝えてしまったことがある。
すると太一くんは、いつも通りの無表情で言った。
「俺は一筋だから。」
その顔は変わらない。
でも付き合って一年も経てば分かる。
今、嬉しそうなんだ。
それがなんだか悔しくて。
「そういう顔しないでよ。」
少し怒ると、余計に嬉しそうな空気になる。
表情は変わらないのに。
「どうせ私はモテないし。」
拗ねてそう言うと、太一くんはきょとんとしたあと、小さく首を傾げた。
「俺、結構嫉妬深いから。」
「え?」
「他の男に牽制してるんだけど、知らなかった?」
知らない。
そんなの初耳だ。
思わず「知らんわ!」と返してしまう。
でも、その言葉が少しだけ嬉しかった。
大学生活は思っていた以上に楽しかった。
毎日が忙しくて、本当にあっという間に時間が過ぎていく。
気付けば私は就職活動。
毎日説明会や面接で慌ただしい。
一方の太一も就活中だけれど、普段は相変わらず飄々としている。
……ように見えるだけで、実は結構焦っているらしい。
何でもそつなくこなす人なのに、意外と真面目で不器用だ。
感情が表情に出ないから、損をしている気もする。
私はその逆。
すぐ顔に出るタイプだから、羨ましいと思うこともある。
でも就職活動では、熱意や必死さを見せる場面も多い。
私は思っていたより早く内定をもらえた。
勉強が特別できたわけでもない。
もしかしたら、必死さがそのまま顔に出ていたからなのかもしれない。
社会人二年目。
後輩もできて、新人とは言えなくなった。
まだまだ覚えることは多いけれど、その分任される仕事も増えていく。
都内は家賃が高いこともあって、気付けば太一くんと同棲するようになっていた。
仕事から帰ると、冷蔵庫には温めるだけの夕飯が入っている。
電子レンジで温めて食べる毎日。
家事はほとんど太一がやってくれていた。
彼は今、フリーター。
本人は少し気まずそうにしているけれど、仕事で帰りが遅い私よりずっと家のことをしてくれている。
私は今の生活が嫌じゃなかった。
ある日、夕食を食べ終えたあと、太一がぽつりと呟く。
「俺、先が見えないのに、このまま一緒にいていいのかな。」
その言葉に胸が少しだけ締め付けられる。
離れたいってこと?
一瞬そう思った。
でも、離すつもりなんてない。
「人生って八十年くらいあるんだよ?
そんな長いんだから、すぐ答えを出すより悩む時間があってもいいじゃん。それに太一、一人くらい私が養えるように働くし。」
すると彼は困ったように笑った。
「彼女が格好良すぎる。」
少し間を空けて続ける。
「惚れ直すけど……男としての自尊心が。」
「男として、って言葉はあんまり好きじゃないな。」
私は肩をすくめて笑う。
「惚れ直したってところだけ受け取りまーす。」
そう言った瞬間、ぎゅっと抱き締められた。
……私、本当にこういうのに弱い。
でも、抱き締める腕に少しだけ悔しさが混じっていることも分かる。
太一は感情が顔に出ないだけで、本当は誰より熱い人だ。
何でも器用にこなせる。
でも前に立つより、人を支える方が得意。
尽くすタイプとも少し違う。
だからこそ、その良さに気付いてくれる人がもっと増えてほしいと、私はずっと思っていた。
抱き締められたままなのが急に恥ずかしくなって、照れ隠しに話題を変える。
「そういえばさ。」
「ん?」
「私のこと、いつ好きになったの?」
太一がぴたりと固まる。
「……え。急だね。」
「私は太一に告白されてから自分の気持ちに気付いたじゃん。だから太一はいつだったのかなって。」
じっと見つめると、気まずそうにこちらを見返した。
「言わないと、ずっと質問攻めされそう。」
「分かってるなら教えてよ。」
笑いながら脇腹をくすぐる。
するとすぐにやり返されてしまった。
体格差では勝てない。思わず顔をしかめながら距離を取る。
そんな私を見て、太一がぽつりと呟いた。
「その顔。」
「え?」
意味が分からず首を傾げる。
「その表情も、その仕草も。」
少し懐かしそうに笑う。
「小学生の頃から飼ってた猫にそっくりだった。」
「猫っぽいなんて言われたことないけど?」
「高校の文化祭。猫の格好で喫茶店やってたでしょ。あの時、似てるなって思った。」
それから少しずつ昔のことを話してくれた。
寮生活が始まって、大好きだった飼い猫に会えなくなったこと。
その猫は表情が分かりやすくて、甘える時はとことん甘えるのに、爪とぎを始めると周りが見えなくなるくらい夢中だったこと。
姉にからかわれると、前に座って守ろうとするような優しい猫だったこと。
だから、その猫によく似たキーホルダーを見つけた時は本当に嬉しかったらしい。
それを文化祭でなくしてしまった。
諦めかけていたのに私が走って探しに行った。
翌日、「見つかった」と連絡が来た時は本当に嬉しかったこと。
だから、また会いたくてお礼を口実に誘ったこと。
「本当はパスタの店を予約するつもりだったんだよ。でも嫌いな食べ物あるから先に聞けって。」
「え?」
「あと先輩に『女の子との初デートでハンバーガーはやめとけ』って言われて。」
思わず吹き出す。
「でも○○がハンバーガー食べたいって言うから。」
「そうだったんだ。」
「あの日もデート中もずっと先輩から『どうなった?』『ちゃんと話せてる?』って連絡が来てた。」
そういえば。
初めて二人で出掛けた日、太一は何度もスマホを見ていた。部活の連絡かと思っていたけれど違ったんだ。
「寮でもメールしてたら、先輩にスマホ取られて。」
少しだけ困ったように笑う。
「『会いたい』って勝手に送られた。」
「あれ先輩だったの!?」
高校一年の頃、本気で二重人格なんじゃないかと思った出来事を思い出す。
「その先輩、怖いね。」
二人で顔を見合わせて笑った。
文化祭の日。
落とし物。
一年続いたメール。
初めてのデート。
全部が少しずつ繋がっていく。
「それで?」
私はもう一度聞く。
「結局、いつ好きになったの?」
彼が照れ隠しをするように首の後ろへ手を当てた。
昔から変わらない癖。
少しだけ笑ってしまう。
彼は観念したように答えてくれた。
「俺のキーホルダーを探しに走ってくれた時。」
そこまで言うと声がどんどん小さくなった。
「それからは……積み重ね。」
私は思わず笑顔になる。
「積み重ね?」
「……うん。」
「今でも?」
そう聞くと、太一が照れたように首の後ろをさすった。
その癖を見ながら私はまた笑ってしまう。
そうか。
この仕草は、ずっと照れ隠しだったんだ。
太一は大学を卒業してから今でも居酒屋でアルバイトを続けている。
店長からは何度も「正社員にならないか」と声を掛けられているらしい。
でも、まだ迷っている。
私は無理に答えを出さなくてもいいと思っていた。
やりたいことを探してもいいし、このまま正社員になる道を選んでもいい。
それは彼自身が決めることだから。
ただ本人は将来が見えないことに焦りを感じているみたいだった。
同棲していると、たまにそんな弱音を聞くことがある。
休日の昼下がり。
突然、彼のスマホが鳴った。
電話に出た太一は相変わらず無表情。
でも長く一緒にいる私には分かる。
今、かなり戸惑っている。
何があったんだろう。
私はコーヒーを淹れて隣へ置く。
すると太一は困ったようにスマホを差し出した。
「……代わって。」
「え?」
戸惑いながら受け取ると、すぐに明るい声が聞こえてきた。
『はじめまして〜!俺、天童って言うんだけど、太一の彼女さんだよね?よろしく〜!』
勢いに圧倒される。
『それでさ、太一のこと後押ししてほしいんだよね!』
「は、はじめまして……。」
思わず姿勢を正す。
「後押しって、何ですか?」
『俺、ショコラティエやってるんだけどさ。知ってる?太一から聞いてる?あ、テレビにも出てました〜。』
「はい。太一から聞いてますし、テレビも見ました。」
『ほんとに!?俺、有名人〜!』
電話越しなのにテンションが高い。
思わず笑ってしまう。
『それでね、日本でも催事とか色々やろうと思ってるんだけど、俺ずっとフランスいるから代理みたいな人が欲しくてさ。』
少しだけ声の調子が変わる。
『太一なら俺のやりたいこと分かってくれるし、仕事もできる。だからお願いしたいんだよね。』
最後の「ね?」が妙に可愛く聞こえて、また笑ってしまった。
彼から天童さんの話は何度も聞いていた。
尊敬している先輩。
そして天童さんも、太一をよく理解している人。そんな印象だった。
「それって。」
私はゆっくり口を開く。
「太一の仕事が心配だからじゃなくて、天童さんが太一にお願いしたいってことですよね?」
電話の向こうが一瞬静かになる。
「……天童さん?」
『……思ってた以上に太一のこと好きなんだね。』
少し照れたような声だった。
『うん。俺さ、今日この電話するの結構気合い入れたんだ。後輩に"俺の仕事を手伝ってほしい"って言うの、意外と勇気いるんだよ。』
少し笑って続ける。
『ちゃんと本人に伝える。』
私はスマホを太一へ返した。
ここから先は本人同士の話だ。
……そういえば。
電話の声を聞いていて、急に思い出した。
太一が話していた癖の強い先輩。
デートの相談に乗ったり。
「会いたい」なんて勝手にメールを送ったり。
……あ。
この人だ。
全部繋がった。
ちょうど電話が終わりそうだったので、私は太一からスマホをひょいと奪う。
「天童さん。」
『はいはい?』
「人の携帯で勝手にメール送るのはやめてください。」
ぴしゃりと言うと、
『あはははは!』
電話の向こうで大笑いされた。
その笑い方がなんだか悔しくて、思わず頬を膨らませる。
そんな私を見て、太一まで少しだけ笑っていた。
あの日の電話をきっかけに、太一は天童さんの仕事を手伝うことになった。
日本での催事や仕事が増え、毎日忙しそうに飛び回っている。
以前より一緒に過ごせる時間は減った。
それでも私は、不思議と寂しいとは思わなかった。
ようやく彼が、自分の進みたい道を見つけた気がしたから。
天童さんの仕事を手伝うようになってから、太一は日本とフランスを行き来する生活になった。
忙しくなっても表情が変わらないから周りには余裕そうに見えるらしい。
仕事を理由に近付いてくる女性も増えた。
それに会えない時間が増えるたび太一は少しだけ不安そうな顔をする。
そんなある日、ぽつりと告げられた。
「結婚してほしい。」
迷う理由なんてなかった。
ホテルの式場。
披露宴の会場で、私は思いきり顔をしかめていた。
「太一くんとは高校時代に出会いまして〜。最初は先輩後輩として仲良くしてましたが、今では仕事でも先輩後輩。人との出会いって本当に縁なんですよね〜。」
よくそんなにスラスラ喋れるな。
壇上でマイクを握っている天童さんを睨みつける。
仕事を任せて、太一と会えない日を増やした張本人。
無茶振りみたいな仕事ばかり押し付けて。
太一は文句も言わず、淡々と全部こなしていたけれど、本当はすごく大変だった。
全部、あの人のせいだ。
そんな私の視線に気付いているのか、太一は隣で少しだけ落ち着かない様子だった。
表情はいつも通り変わらない。
でも私には分かる。
「最後に。」
天童さんが満面の笑みを浮かべる。
「ウエディングケーキは俺から二人へのプレゼントです。新婦様が喜んでくれると嬉しいな〜。」
……そういうところ。
憎めないのが余計に腹立たしい。
ファーストバイト。
私はわざと大きく口を開けてチョコレートケーキを頬張った。
口元にもクリームが付く。
白いウエディンググローブにもチョコレートが付いてしまったけれど、そんなの知ったことじゃない。
チョコレートケーキなんて選んだ人が悪い。
クリーニング代は天童さんに請求しよう。
まだ少し不機嫌なままケーキを食べていると、太一がそっと顔を近付け、小さな声で囁いた。
「怒ってる顔も可愛いけど。」
少しだけ目を細める。
「今日は俺を見て。」
その一言に思わず笑ってしまう。
……嫉妬?
可愛い。
やっぱり私は太一が好きだ。
新婚旅行は、天童さんの計らいで二週間。
「恩情だからね〜」なんて笑っていたけれど、きっと太一くんが頑張っていたご褒美なんだと思う。
旅先で私は前からずっと伝えたかったことを話した。
「フリーターのままでも、お金がなくても、私は太一と一緒に人生を歩きたかったよ。」
そう言うと太一くんは少しだけ笑う。
「フリーターだった俺でも?」
「うん。」
すると、意外なことを聞かされた。
実はフリーター時代から、それなりに貯金はあったらしい。
家賃も生活費も半分ずつ出してくれていたし、お金に困っている様子はなかったのを思い出す。
投資も少しずつ続けていて、着実に資産を増やしていたという。
……本当に、この人は堅実だ。
器用で、計画的で、ちゃんと先を見ている。
新婚旅行から帰ったあと、通帳を見せてもらって私は固まった。
天童さんの仕事を始めてから収入が増えたことは知っていた。
でも驚いたのは、それ以前からの貯金額だった。
私が何年もかけてコツコツ貯めてきた金額が、急に可愛く思えてしまう。
そして思い出す。
『太一くんなら私が養えるし。』
昔、自信満々に言ったあの言葉。
恥ずかしさで顔を覆う私を見て、太一くんが静かに笑った。
「養えるしって言われた時、すごく嬉しかった。」
追い打ちだった。
恥ずかしくて、その場でしゃがみ込みたくなる。
お金や肩書きだけが、その人の価値じゃない。
仕事が忙しすぎて、「少し休めばいいのに」と思うこともある。
それでも太一は、人から頼られることが好きだ。
必要とされることが嬉しい人なんだ。
そんな彼だから、私はこれからも応援したいと思う。
……ただ一つだけ。
あの上司の笑顔を思い出すと今でも少し腹が立つ。
苛立ちを紛らわせるように趣味のネイルをしようと爪を整えていると、彼がくすっと笑った。
「その仕草。昔、大事にしてた猫のキーホルダーを思い出す。」
文化祭の日。
落とし物。
一本のメール。
あの日から始まった私たちの縁は、今も変わらず続いている。
〈終〉
