5 冬
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後ろ髪を引かれる思いで振り返ったけれど、そこに菅原先輩の姿はなかった。
やっぱり声をかければよかったかな。
そう思ったけれど、今さら「一緒に回りませんか」なんて言うのも変な気がする。
少しだけ残念な気持ちを抱えたまま、私は友達と文化祭を回ることにした。
クレープを食べたり、他のクラスの出し物を見たり。気付けば文化祭も終わりの時間になっていた。
クラスへ戻って片付けをしていると、
「準備も接客も頑張ってくれたし、先に帰っていいよ」と言われる。
ありがたく帰ることにした。
その時、衣装係から猫耳と尻尾を手渡される。
「記念品!」
「いや、これ家でどうしろっていうの……」
思わずそう言ったけれど、せっかく作ってもらったものだ。
捨てるのも申し訳なくて、とりあえず袋に入れて持ち帰ることにした。
下駄箱で靴を履き替えていると、「お疲れ!」
後ろから声がかかった。
振り返る。
そこにいたのは菅原先輩だった。
「お疲れ様です!」
思わず声が大きくなった。
誰かと一緒なのかと思ったけれど、周りには誰もいない。
「先輩、一人なんですか?」
「うん。俺、先に帰っていいって言われたから」
そう言って笑う。
なんとなく、そのまま一緒に帰る流れになった。
少しだけ嬉しい。
ちょうど聞いてみたいこともあった。
「菅原先輩って三年生ですよね。受験もあるのに、まだ部活もやってるじゃないですか。大変じゃないですか?」
「大変!」
即答だった。
「時間全然足りないもん」
「ですよね」
「勉強は隙間時間かな。電車待ってる時とか、休み時間とか」
なるほど、と頷く。
部活を続けながら受験勉強をするのは想像以上に大変そうだ。
それなのに文化祭ではあんなに楽しそうだった。
ちゃんと息抜きもしているんだろうな。
なんだか少し大人に見える。
「頭いいんですね」
ぽろりと口から出る。
すると先輩は目を丸くした。
「え、今褒められた?」
「褒めてますよ」
その反応がおかしくて思わず笑う。
「高校の勉強、思ったより難しくて」
「わかるわかる。苦手な教科とかあるの?」
「全般ですけど……特に古文と英語」
そう答えると、先輩は少し考え込んだ。
それから、
「連絡先交換する?」と聞いてくる。
「え?」
「わかんないところあったら教えるし。過去問とかも残ってるしさ」
ありがたい。
でも。
「いや、流石に悪いです。受験も部活も忙しいのに」
慌てて断ろうとすると、
「大丈夫だって」 先輩は笑った。
「教えるのって復習にもなるし。俺も取りこぼし減るかもしれないしね」
そこまで言われると断りづらい。
ありがたく好意に甘えることにした。
「じゃあ……お願いします」
連絡先を交換する。
そして、ふと思い出して袋から猫尻尾を取り出した。
「これあげます」
「え?」
「家で保管に困るんで」
先輩は一瞬きょとんとした後、大笑いした。
「なんで俺にくれるの!?」
「先輩なら有効活用してくれるかなって」
「しないよ!」
笑いながらも受け取ってくれる。
なんだか申し訳ない。
でも持って帰ってもらえたからよしとしよう。
家に着いてしばらくすると、携帯が鳴った。
『無事家着いた?』
菅原先輩からだった。
思わず少し笑う。
『超無事です!』
そう返してから、少し考えて文章を付け足した。
『何かあっても逆襲してやりますから』
送信して数分後。
返信が届く。
『やめて。女の子なんだから』
その文を見て、思わず携帯を見つめた。
なんだろう。
少しだけ安心する。
ちゃんと女の子として見られていたらしい。
変なところで、ほっとしてしまった。
過去問をもらってから、少しだけ日常が変わった。
今まで家ではほとんど勉強なんてしてこなかったのに、帰宅すると机に向かうようになった。
部活で疲れているから長い時間はできない。
それでも少しだけ。
せっかく過去問をもらったのだから解かなければ、という気持ちもあった。
もちろん、一人ではどうしても分からない問題も出てくる。
そんな時は恐る恐る菅原先輩へメールを送った。
受験勉強で忙しいはずなのに、先輩はいつも丁寧に教えてくれる。
本当に面倒見がいい人だなと思う。
ある日
『先輩は今何の勉強してるんですか?』と送ってみた。
すると参考書を開いた写真が送られてきた。
見ただけで難しそうだ。
『これ何分くらいで終わるんですか?』そう聞くと、
『終わったって報告するのが達成感に繋がるかも』と返ってきた。
それなら、と私は返信する。
『じゃあ勉強の監視役ってことで、私を使ってもいいですよ』
送信したあと少しだけ恥ずかしくなったけれど、先輩は笑ってくれた。
そんなやり取りを繰り返しているうちに、秋の冷たい風はいつの間にか本格的な冬の寒さへ変わっていた。
そしてメールのやり取りも、気付けば日常になっていた。
二学期の期末テストでは、自分でも驚くほど成績が上がった。
嬉しくなって結果を報告する。
『すごいじゃん』と先輩も喜んでくれた。
先輩自身の成績も良かったらしい。
連絡のやり取りで邪魔をしていたわけではなかったことに、少しだけほっとする。
冬になるとソフトボール部は雪の影響で体育館を借りて練習することが増えた。
そうなると隣では男子バレー部も練習している。
全国へ行くチームはやっぱり違った。
一球ごとに声が飛び交う。
全員が真剣で、一つひとつのプレーに意味があるように見えた。
この練習のあとに勉強もしているのだから、本当にすごい。
感化されるように私も練習へ打ち込む。
けれど気付けば、視線は時々バレー部へ向いていた。
その日も部活が終わり、帰る準備をしていた。
けれどバレー部はまだ自主練を続けている。
なんとなく帰る気になれなくて、体育館の外で勉強することにした。暗記カードを眺める程度だけれど不思議と集中できる。
体育館から聞こえてくるボールの音が、自分まで頑張らなければいけない気持ちにさせた。
気付けば随分時間が経っていたらしい。
ふと顔を上げると、目の前に菅原先輩が立っていた。
「うわっ!」
思わず声が出る。
先輩は少し驚いたように笑った。
「誰か待ってるの?」
「いえ。なんか頑張ってる音聞いてたら集中できるかなって思って」
そう答えると先輩は吹き出した。
「なんだよそれ」
それから辺りを見回す。
「でももう結構遅いべ?」と少し心配そうに言う。
「偉いけどさ」
そんな風に褒められると少し照れくさい。
「途中まで一緒に帰ろう」
先輩が言った。
「でも邪魔になるし、私強いんで大丈夫ですよ」
「はいはい」と笑われる。
「帰る方向、途中までは一緒なんだから。ほら、行くよ」
そう言って差し出された手。
立ち上がるためのものだと分かっているのに、少しだけ戸惑った。
この人は本当に自然だ。
こういう距離の詰め方が上手い。
変に意識する方がおかしい気がしてしまうくらいに。
久しぶりに直接話せて楽しかった。
メールは毎日のようにしている。
けれど内容は勉強の報告や質問ばかりだ。
並んで歩きながら話すのは文化祭の日以来だった。
冷たい夜風が吹く。
部活終わりの熱もすっかり消えていて寒い。
途中、自動販売機の前で先輩が立ち止まった。
「飲む?」
そう言われて、気付けばコンポタージュを奢ってもらっていた。缶を握りながら言う。
「菅原先輩、あざっす」
缶を握りながら言う。
「先輩風吹かせてみた」
先輩はおどけて笑う。
こういうところがすごい。
相手に気を遣わせない。
「あとな、もう少しなんだ」
温かい缶を手の中で転がしながら先輩が言った。
「正月過ぎたら春高だから」
「知ってます」
すると先輩は少しだけ笑う。
「応援してほしい」
その言葉に、私は即答した。
「東京には行けませんけど、テレビでやりますよね? 応援します。録画もします」
「マジか」
先輩は少し照れたように頭を掻いた。
「俺スタメンじゃないんだけど」
「出るかもしれないじゃないですか」
「じゃあ応援よろしく」
「はい」
力強く頷いた。
そこから別れ道まで、部活の話や最近ハマっている激辛料理の話をした。
たわいもない会話だった。
でも楽しかった。
見上げた夜空には星が瞬いている。
前に住んでいた場所よりも宮城の空はずっと澄んでいて、楽しかった帰り道の余韻と一緒に星を見上げた。
春高は地元テレビで全試合が中継された。
まるで烏野高校を応援しているみたいだった。
私は家のリビングでテレビを見ながら応援する。
同じクラスの日向くんはスタメンとして出場していた。実況の人に「小柄な選手」と言われながらも、高いジャンプで次々と得点を決めていく。
影山くんも何度も名前を呼ばれていた。セッターとしての技術を褒められている。
その様子を見ながら、私は初めて知った。
菅原先輩は控えのセッターだったこと。
三年生最後の大会なのに、一年生の後輩へポジションを譲っていること。
知らなかった。
ただ楽しそうにバレーをしている人だと思っていた。
それでも試合の途中で菅原先輩がコートへ入る。
すると空気が変わった。
味方へ声をかける。
緊張している選手の背中を叩く。
みんなを鼓舞するように笑う。
その姿は、夏の日に私のボールを拾ってくれた時と同じだった。
優しくて、明るくて。
自然と周りを元気にしてしまう。
本当は悔しいはずだ。
嫉妬だってあるはずだ。
それなのにチームのために笑える。
その姿が眩しくて。
少しだけ胸が苦しくなった。
春高が終わったあと、しばらくメールの画面を眺めていた。
何を送ればいいのだろう。
悩んだ末に短く打つ。
『テレビで見ました。家だから声は届かなかったけど、たくさん応援しました。お疲れ様でした』
返信はすぐに来た。
『ありがとう。切り替えてこれから受験だ!』
続けて、『そっちも応援して』と送られてくる。
思わず笑ってしまった。
『頑張ってください』と返しながら、心の中で本気で応援した。
それから二か月ほど。
受験で忙しいだろうし、もうあまり連絡は来ないと思っていた。
けれど時々、忘れた頃にメールが届く。
ある日送られてきたのは一枚の写真だった。
文化祭の日に押し付けた猫尻尾。
『まだ捨てられない』という一言付き。
勉強疲れかな。
そう思いながら、私は近所で見かけた猫の写真を送り返した。
すると、『かわいい』とだけ返ってきた。
そんな何気ないやり取りが少し嬉しかった。
卒業式の日。
ソフトボール部でも三年生の先輩たちへ花束と色紙を渡した。卒業する先輩たちは意外とあっさりしている。
けれど後輩の私たちは違った。二年生の先輩が泣きながら叫ぶ。
「私たちは寂しいのにもっと寂しがってくださいよー!」
すると三年生の一人が即座に返した。
「寂しいより合格発表がまだだから不安なんだよ!」
その言葉に周りは大笑い。
推薦や進路が決まっている人たちは特に楽しそうだった。
なんだか少しだけ未来が見えた気がする。
あと二年後には、私も同じことを思うのだろうか。
帰ろうとしていると、正門の近くで菅原先輩の姿を見つけた。
思わず手を振る。
すると先輩も大きく手を振り返してくれた。
まだ合格発表前。
笑っているけれど、本当は緊張しているんだろうか。
そんなことを考えながら見送った。
それからしばらくしたある日。
携帯が鳴った。
表示された名前を見て目を瞬く。
菅原先輩だ。
『来年から大学生!』
短い文章。
でも意味は十分伝わった。
私は慌てて返信を打つ。
『おめでとうございます!』
送信した直後だった。
携帯が震える。
今度は着信。
驚きながら通話ボタンを押した。
『もしもし? 今大丈夫?』
聞き慣れた声が耳元から聞こえる。
なんだか少しだけ不思議だった。
「はい。合格おめでとうございます!」
『どういたしましてー』
先輩らしい返事。
でもそのあと、不意に沈黙が落ちた。
どうしたんだろう。
電波でも悪いのだろうか。
そう思った頃、先輩が口を開く。
『あのさ』
少しだけ言いにくそうな声だった。
『今まで遊べなかったじゃん?』
「そうですね」
『ずっと勉強ばっかだったからさ。なんか遊びたいなーって思って』
その言葉に思わず笑う。
「ですよね」
ちょうど最近、駅前に激辛ラーメン屋ができたことを思い出した。
「そういえば駅前に激辛ラーメンのお店できましたよ」
『あっあの……知らなかった!』
先輩の声が少し大きくなる。
「通ったことはありますけど、入ったことはないです」
『そっかー』
少しだけ間が空く。
そして。
『俺、場所分かんないんだけどさ』
先輩が言った。
『行ってみたいし』
また少し沈黙。
『遊びたい欲求が今すごくて』
どこか照れ隠しみたいな笑い声が聞こえる。
『一緒に行ってくれたりする?』
少し驚いたけど、でも断る理由はなかった。
「いいですよ」そう答える。
「あ、でも奢れませんよ?」
すると電話の向こうで大笑いする声が聞こえた。
『奢らせもしないって』
そう言う先輩の声が楽しそうで。
そのまま二人で待ち合わせの日を決めた。
待ち合わせ場所は駅の改札前だった。
家を出るまでは特に何も考えていなかった。
けれど駅へ向かう途中で、ふと気付く。
これって。
二人きりじゃない?
今さらだった。
受験が終わったお祝いみたいなものだと思っていたし、激辛ラーメンの話ばかりしていたから全く意識していなかった。
でも改めて考えると、休日に二人で遊ぶ約束をしている。
それって。
もしかしてデートなんだろうか。
いやいや。
違う違う。
受験の息抜きに付き合ってほしかっただけだ。
そう結論づけて、慌てて気持ちを後輩モードへ切り替える。
待ち合わせより少し早く着いた私は、改札近くで時間を潰していた。
ふと近くの看板に映った自分が目に入る。
今日は動きやすい格好を選んだ。
でも、もう少しちゃんとした服の方が良かっただろうか。
そんなことを考えていたら聞きた慣れた声がかけられた。
「ごめん!」
振り返る。
菅原先輩が小走りでこちらへ向かってきていた。
「待った?」
「いえ。時間通りですよ」
私は笑って答える。
「先輩を待たせちゃいけないと思って少し早めに来ただけです」
すると先輩は呆れたように笑った。
「先輩だからって遅れてきていいわけじゃないべ」
そう言いながら歩き出す。
私もその隣を歩き始めた。
向かう先は駅前にできた激辛ラーメン店。
まだ開店前だったから、それほど並ばずに入れるだろうと思っていた。
でも。
「先輩、場所知らないって言ってませんでした?」
気付けば先輩は迷いなく進んでいる。
「調べた」
即答だった。
思わず吹き出す。
「知らないって言ってたのに」
「行きたい店は調べるタイプなんだよ」
ちょっと気まずそうな顔してた先輩。調べて来たことが気まずかったのかな?
開店と同時に入店し、目当ての激辛ラーメンを注文する。
辛いものは嫌いじゃない。でも『激辛』と名前が付くと少し怖い。恐る恐る食べ始めたけれど、思った以上に美味しかった。
辛い。
でも旨味もある。
なんとか完食すると、向かいの先輩は平然とした顔でスープを飲んでいた。
しかも辛さ増し。
「よく平気ですね……」
「美味いじゃん」
本当に辛いものが好きらしい。
店を出ると、外はまだ寒いはずなのに全然寒くなかった。
むしろ暑い。
ラーメンの効果はすごい。
「まだ時間ある?」先輩が聞く。
「はい!」即答すると「体育会系の返事だなぁ」と笑われた。
そのまま身体を動かしたいと言う先輩に連れられて、二人でラウンドワンへ向かう。
バッティングセンターでは私の方が打てた。
「部活の成果です」
少しだけ得意げに言う。
「悔しいなぁ」
そう言いながら笑う先輩。
ボウリングでは二人揃ってガーターを出した。あまりにも下手すぎて笑いが止まらない。
クレーンゲームにも挑戦したけれど、狙っていたぬいぐるみは取れなかった。
お金だけが消えていく。
「絶対取れそうだったのに」
「それ言うの何回目ですか?無理だったじゃないですか。」
そんなことを言いながら笑っているうちに、気付けば外は暗くなっていた。
街灯が灯り始めている。
思っていたより長く遊んでいたらしい。
帰り道も他愛のない話をしながら駅へ向かう。
けれど駅が近付くにつれて、先輩の歩く速度が少しだけ遅くなった。
疲れたのかな。
そう思って私も自然と歩調を合わせる。
改札の少し手前。
先輩が立ち止まった。
「今日は楽しかった」
そう言って笑う。
「私もです」
答えると、先輩は少しだけ視線を落とした。
それから続ける。
「今日だけじゃなくてさ」
いつもと違う声だった。
自然と息を飲む。
「受験は自分のためにやってたけど、ずっと一人で勉強してると結構しんどくて」
先輩は少し照れたように笑う。
「でも苗字ちゃんとのメールがあったから頑張れたんだよね」
その言葉が嬉しくて、私は素直に答えた。
「邪魔してなくて良かったです。少しでも役に立てたなら嬉しいです」
すると先輩は小さく首を横に振る。
何か言いにくそうにしている。
「たぶん苗字ちゃんが思ってる感じとは違うんだけど」
その言葉に胸がざわついた。
なんだろう。
急に空気が変わった気がする。
先輩を見る。
先輩も真っ直ぐこちらを見ていた。
その表情を見た瞬間。
なんとなく分かってしまった。
心臓がうるさい。
でも何も言えない。
ただ見つめ返すことしかできなかった。
「好き」
はっきりと告げられた言葉に息が止まる。
先輩は目を逸らさなかった。
「後輩としてじゃなくて。恋愛感情として」
少しだけ困ったように笑う。
「気付いてなかったかな」
そして。
「好きなんだ」
ごまかしも冗談もない。
だからこそ。
私も答えを出さなければいけないと思った。
【選択してください】
・告白を受ける → 7、その後⑤へ
・告白を受け取らない → 7、その後⑥へ
やっぱり声をかければよかったかな。
そう思ったけれど、今さら「一緒に回りませんか」なんて言うのも変な気がする。
少しだけ残念な気持ちを抱えたまま、私は友達と文化祭を回ることにした。
クレープを食べたり、他のクラスの出し物を見たり。気付けば文化祭も終わりの時間になっていた。
クラスへ戻って片付けをしていると、
「準備も接客も頑張ってくれたし、先に帰っていいよ」と言われる。
ありがたく帰ることにした。
その時、衣装係から猫耳と尻尾を手渡される。
「記念品!」
「いや、これ家でどうしろっていうの……」
思わずそう言ったけれど、せっかく作ってもらったものだ。
捨てるのも申し訳なくて、とりあえず袋に入れて持ち帰ることにした。
下駄箱で靴を履き替えていると、「お疲れ!」
後ろから声がかかった。
振り返る。
そこにいたのは菅原先輩だった。
「お疲れ様です!」
思わず声が大きくなった。
誰かと一緒なのかと思ったけれど、周りには誰もいない。
「先輩、一人なんですか?」
「うん。俺、先に帰っていいって言われたから」
そう言って笑う。
なんとなく、そのまま一緒に帰る流れになった。
少しだけ嬉しい。
ちょうど聞いてみたいこともあった。
「菅原先輩って三年生ですよね。受験もあるのに、まだ部活もやってるじゃないですか。大変じゃないですか?」
「大変!」
即答だった。
「時間全然足りないもん」
「ですよね」
「勉強は隙間時間かな。電車待ってる時とか、休み時間とか」
なるほど、と頷く。
部活を続けながら受験勉強をするのは想像以上に大変そうだ。
それなのに文化祭ではあんなに楽しそうだった。
ちゃんと息抜きもしているんだろうな。
なんだか少し大人に見える。
「頭いいんですね」
ぽろりと口から出る。
すると先輩は目を丸くした。
「え、今褒められた?」
「褒めてますよ」
その反応がおかしくて思わず笑う。
「高校の勉強、思ったより難しくて」
「わかるわかる。苦手な教科とかあるの?」
「全般ですけど……特に古文と英語」
そう答えると、先輩は少し考え込んだ。
それから、
「連絡先交換する?」と聞いてくる。
「え?」
「わかんないところあったら教えるし。過去問とかも残ってるしさ」
ありがたい。
でも。
「いや、流石に悪いです。受験も部活も忙しいのに」
慌てて断ろうとすると、
「大丈夫だって」 先輩は笑った。
「教えるのって復習にもなるし。俺も取りこぼし減るかもしれないしね」
そこまで言われると断りづらい。
ありがたく好意に甘えることにした。
「じゃあ……お願いします」
連絡先を交換する。
そして、ふと思い出して袋から猫尻尾を取り出した。
「これあげます」
「え?」
「家で保管に困るんで」
先輩は一瞬きょとんとした後、大笑いした。
「なんで俺にくれるの!?」
「先輩なら有効活用してくれるかなって」
「しないよ!」
笑いながらも受け取ってくれる。
なんだか申し訳ない。
でも持って帰ってもらえたからよしとしよう。
家に着いてしばらくすると、携帯が鳴った。
『無事家着いた?』
菅原先輩からだった。
思わず少し笑う。
『超無事です!』
そう返してから、少し考えて文章を付け足した。
『何かあっても逆襲してやりますから』
送信して数分後。
返信が届く。
『やめて。女の子なんだから』
その文を見て、思わず携帯を見つめた。
なんだろう。
少しだけ安心する。
ちゃんと女の子として見られていたらしい。
変なところで、ほっとしてしまった。
過去問をもらってから、少しだけ日常が変わった。
今まで家ではほとんど勉強なんてしてこなかったのに、帰宅すると机に向かうようになった。
部活で疲れているから長い時間はできない。
それでも少しだけ。
せっかく過去問をもらったのだから解かなければ、という気持ちもあった。
もちろん、一人ではどうしても分からない問題も出てくる。
そんな時は恐る恐る菅原先輩へメールを送った。
受験勉強で忙しいはずなのに、先輩はいつも丁寧に教えてくれる。
本当に面倒見がいい人だなと思う。
ある日
『先輩は今何の勉強してるんですか?』と送ってみた。
すると参考書を開いた写真が送られてきた。
見ただけで難しそうだ。
『これ何分くらいで終わるんですか?』そう聞くと、
『終わったって報告するのが達成感に繋がるかも』と返ってきた。
それなら、と私は返信する。
『じゃあ勉強の監視役ってことで、私を使ってもいいですよ』
送信したあと少しだけ恥ずかしくなったけれど、先輩は笑ってくれた。
そんなやり取りを繰り返しているうちに、秋の冷たい風はいつの間にか本格的な冬の寒さへ変わっていた。
そしてメールのやり取りも、気付けば日常になっていた。
二学期の期末テストでは、自分でも驚くほど成績が上がった。
嬉しくなって結果を報告する。
『すごいじゃん』と先輩も喜んでくれた。
先輩自身の成績も良かったらしい。
連絡のやり取りで邪魔をしていたわけではなかったことに、少しだけほっとする。
冬になるとソフトボール部は雪の影響で体育館を借りて練習することが増えた。
そうなると隣では男子バレー部も練習している。
全国へ行くチームはやっぱり違った。
一球ごとに声が飛び交う。
全員が真剣で、一つひとつのプレーに意味があるように見えた。
この練習のあとに勉強もしているのだから、本当にすごい。
感化されるように私も練習へ打ち込む。
けれど気付けば、視線は時々バレー部へ向いていた。
その日も部活が終わり、帰る準備をしていた。
けれどバレー部はまだ自主練を続けている。
なんとなく帰る気になれなくて、体育館の外で勉強することにした。暗記カードを眺める程度だけれど不思議と集中できる。
体育館から聞こえてくるボールの音が、自分まで頑張らなければいけない気持ちにさせた。
気付けば随分時間が経っていたらしい。
ふと顔を上げると、目の前に菅原先輩が立っていた。
「うわっ!」
思わず声が出る。
先輩は少し驚いたように笑った。
「誰か待ってるの?」
「いえ。なんか頑張ってる音聞いてたら集中できるかなって思って」
そう答えると先輩は吹き出した。
「なんだよそれ」
それから辺りを見回す。
「でももう結構遅いべ?」と少し心配そうに言う。
「偉いけどさ」
そんな風に褒められると少し照れくさい。
「途中まで一緒に帰ろう」
先輩が言った。
「でも邪魔になるし、私強いんで大丈夫ですよ」
「はいはい」と笑われる。
「帰る方向、途中までは一緒なんだから。ほら、行くよ」
そう言って差し出された手。
立ち上がるためのものだと分かっているのに、少しだけ戸惑った。
この人は本当に自然だ。
こういう距離の詰め方が上手い。
変に意識する方がおかしい気がしてしまうくらいに。
久しぶりに直接話せて楽しかった。
メールは毎日のようにしている。
けれど内容は勉強の報告や質問ばかりだ。
並んで歩きながら話すのは文化祭の日以来だった。
冷たい夜風が吹く。
部活終わりの熱もすっかり消えていて寒い。
途中、自動販売機の前で先輩が立ち止まった。
「飲む?」
そう言われて、気付けばコンポタージュを奢ってもらっていた。缶を握りながら言う。
「菅原先輩、あざっす」
缶を握りながら言う。
「先輩風吹かせてみた」
先輩はおどけて笑う。
こういうところがすごい。
相手に気を遣わせない。
「あとな、もう少しなんだ」
温かい缶を手の中で転がしながら先輩が言った。
「正月過ぎたら春高だから」
「知ってます」
すると先輩は少しだけ笑う。
「応援してほしい」
その言葉に、私は即答した。
「東京には行けませんけど、テレビでやりますよね? 応援します。録画もします」
「マジか」
先輩は少し照れたように頭を掻いた。
「俺スタメンじゃないんだけど」
「出るかもしれないじゃないですか」
「じゃあ応援よろしく」
「はい」
力強く頷いた。
そこから別れ道まで、部活の話や最近ハマっている激辛料理の話をした。
たわいもない会話だった。
でも楽しかった。
見上げた夜空には星が瞬いている。
前に住んでいた場所よりも宮城の空はずっと澄んでいて、楽しかった帰り道の余韻と一緒に星を見上げた。
春高は地元テレビで全試合が中継された。
まるで烏野高校を応援しているみたいだった。
私は家のリビングでテレビを見ながら応援する。
同じクラスの日向くんはスタメンとして出場していた。実況の人に「小柄な選手」と言われながらも、高いジャンプで次々と得点を決めていく。
影山くんも何度も名前を呼ばれていた。セッターとしての技術を褒められている。
その様子を見ながら、私は初めて知った。
菅原先輩は控えのセッターだったこと。
三年生最後の大会なのに、一年生の後輩へポジションを譲っていること。
知らなかった。
ただ楽しそうにバレーをしている人だと思っていた。
それでも試合の途中で菅原先輩がコートへ入る。
すると空気が変わった。
味方へ声をかける。
緊張している選手の背中を叩く。
みんなを鼓舞するように笑う。
その姿は、夏の日に私のボールを拾ってくれた時と同じだった。
優しくて、明るくて。
自然と周りを元気にしてしまう。
本当は悔しいはずだ。
嫉妬だってあるはずだ。
それなのにチームのために笑える。
その姿が眩しくて。
少しだけ胸が苦しくなった。
春高が終わったあと、しばらくメールの画面を眺めていた。
何を送ればいいのだろう。
悩んだ末に短く打つ。
『テレビで見ました。家だから声は届かなかったけど、たくさん応援しました。お疲れ様でした』
返信はすぐに来た。
『ありがとう。切り替えてこれから受験だ!』
続けて、『そっちも応援して』と送られてくる。
思わず笑ってしまった。
『頑張ってください』と返しながら、心の中で本気で応援した。
それから二か月ほど。
受験で忙しいだろうし、もうあまり連絡は来ないと思っていた。
けれど時々、忘れた頃にメールが届く。
ある日送られてきたのは一枚の写真だった。
文化祭の日に押し付けた猫尻尾。
『まだ捨てられない』という一言付き。
勉強疲れかな。
そう思いながら、私は近所で見かけた猫の写真を送り返した。
すると、『かわいい』とだけ返ってきた。
そんな何気ないやり取りが少し嬉しかった。
卒業式の日。
ソフトボール部でも三年生の先輩たちへ花束と色紙を渡した。卒業する先輩たちは意外とあっさりしている。
けれど後輩の私たちは違った。二年生の先輩が泣きながら叫ぶ。
「私たちは寂しいのにもっと寂しがってくださいよー!」
すると三年生の一人が即座に返した。
「寂しいより合格発表がまだだから不安なんだよ!」
その言葉に周りは大笑い。
推薦や進路が決まっている人たちは特に楽しそうだった。
なんだか少しだけ未来が見えた気がする。
あと二年後には、私も同じことを思うのだろうか。
帰ろうとしていると、正門の近くで菅原先輩の姿を見つけた。
思わず手を振る。
すると先輩も大きく手を振り返してくれた。
まだ合格発表前。
笑っているけれど、本当は緊張しているんだろうか。
そんなことを考えながら見送った。
それからしばらくしたある日。
携帯が鳴った。
表示された名前を見て目を瞬く。
菅原先輩だ。
『来年から大学生!』
短い文章。
でも意味は十分伝わった。
私は慌てて返信を打つ。
『おめでとうございます!』
送信した直後だった。
携帯が震える。
今度は着信。
驚きながら通話ボタンを押した。
『もしもし? 今大丈夫?』
聞き慣れた声が耳元から聞こえる。
なんだか少しだけ不思議だった。
「はい。合格おめでとうございます!」
『どういたしましてー』
先輩らしい返事。
でもそのあと、不意に沈黙が落ちた。
どうしたんだろう。
電波でも悪いのだろうか。
そう思った頃、先輩が口を開く。
『あのさ』
少しだけ言いにくそうな声だった。
『今まで遊べなかったじゃん?』
「そうですね」
『ずっと勉強ばっかだったからさ。なんか遊びたいなーって思って』
その言葉に思わず笑う。
「ですよね」
ちょうど最近、駅前に激辛ラーメン屋ができたことを思い出した。
「そういえば駅前に激辛ラーメンのお店できましたよ」
『あっあの……知らなかった!』
先輩の声が少し大きくなる。
「通ったことはありますけど、入ったことはないです」
『そっかー』
少しだけ間が空く。
そして。
『俺、場所分かんないんだけどさ』
先輩が言った。
『行ってみたいし』
また少し沈黙。
『遊びたい欲求が今すごくて』
どこか照れ隠しみたいな笑い声が聞こえる。
『一緒に行ってくれたりする?』
少し驚いたけど、でも断る理由はなかった。
「いいですよ」そう答える。
「あ、でも奢れませんよ?」
すると電話の向こうで大笑いする声が聞こえた。
『奢らせもしないって』
そう言う先輩の声が楽しそうで。
そのまま二人で待ち合わせの日を決めた。
待ち合わせ場所は駅の改札前だった。
家を出るまでは特に何も考えていなかった。
けれど駅へ向かう途中で、ふと気付く。
これって。
二人きりじゃない?
今さらだった。
受験が終わったお祝いみたいなものだと思っていたし、激辛ラーメンの話ばかりしていたから全く意識していなかった。
でも改めて考えると、休日に二人で遊ぶ約束をしている。
それって。
もしかしてデートなんだろうか。
いやいや。
違う違う。
受験の息抜きに付き合ってほしかっただけだ。
そう結論づけて、慌てて気持ちを後輩モードへ切り替える。
待ち合わせより少し早く着いた私は、改札近くで時間を潰していた。
ふと近くの看板に映った自分が目に入る。
今日は動きやすい格好を選んだ。
でも、もう少しちゃんとした服の方が良かっただろうか。
そんなことを考えていたら聞きた慣れた声がかけられた。
「ごめん!」
振り返る。
菅原先輩が小走りでこちらへ向かってきていた。
「待った?」
「いえ。時間通りですよ」
私は笑って答える。
「先輩を待たせちゃいけないと思って少し早めに来ただけです」
すると先輩は呆れたように笑った。
「先輩だからって遅れてきていいわけじゃないべ」
そう言いながら歩き出す。
私もその隣を歩き始めた。
向かう先は駅前にできた激辛ラーメン店。
まだ開店前だったから、それほど並ばずに入れるだろうと思っていた。
でも。
「先輩、場所知らないって言ってませんでした?」
気付けば先輩は迷いなく進んでいる。
「調べた」
即答だった。
思わず吹き出す。
「知らないって言ってたのに」
「行きたい店は調べるタイプなんだよ」
ちょっと気まずそうな顔してた先輩。調べて来たことが気まずかったのかな?
開店と同時に入店し、目当ての激辛ラーメンを注文する。
辛いものは嫌いじゃない。でも『激辛』と名前が付くと少し怖い。恐る恐る食べ始めたけれど、思った以上に美味しかった。
辛い。
でも旨味もある。
なんとか完食すると、向かいの先輩は平然とした顔でスープを飲んでいた。
しかも辛さ増し。
「よく平気ですね……」
「美味いじゃん」
本当に辛いものが好きらしい。
店を出ると、外はまだ寒いはずなのに全然寒くなかった。
むしろ暑い。
ラーメンの効果はすごい。
「まだ時間ある?」先輩が聞く。
「はい!」即答すると「体育会系の返事だなぁ」と笑われた。
そのまま身体を動かしたいと言う先輩に連れられて、二人でラウンドワンへ向かう。
バッティングセンターでは私の方が打てた。
「部活の成果です」
少しだけ得意げに言う。
「悔しいなぁ」
そう言いながら笑う先輩。
ボウリングでは二人揃ってガーターを出した。あまりにも下手すぎて笑いが止まらない。
クレーンゲームにも挑戦したけれど、狙っていたぬいぐるみは取れなかった。
お金だけが消えていく。
「絶対取れそうだったのに」
「それ言うの何回目ですか?無理だったじゃないですか。」
そんなことを言いながら笑っているうちに、気付けば外は暗くなっていた。
街灯が灯り始めている。
思っていたより長く遊んでいたらしい。
帰り道も他愛のない話をしながら駅へ向かう。
けれど駅が近付くにつれて、先輩の歩く速度が少しだけ遅くなった。
疲れたのかな。
そう思って私も自然と歩調を合わせる。
改札の少し手前。
先輩が立ち止まった。
「今日は楽しかった」
そう言って笑う。
「私もです」
答えると、先輩は少しだけ視線を落とした。
それから続ける。
「今日だけじゃなくてさ」
いつもと違う声だった。
自然と息を飲む。
「受験は自分のためにやってたけど、ずっと一人で勉強してると結構しんどくて」
先輩は少し照れたように笑う。
「でも苗字ちゃんとのメールがあったから頑張れたんだよね」
その言葉が嬉しくて、私は素直に答えた。
「邪魔してなくて良かったです。少しでも役に立てたなら嬉しいです」
すると先輩は小さく首を横に振る。
何か言いにくそうにしている。
「たぶん苗字ちゃんが思ってる感じとは違うんだけど」
その言葉に胸がざわついた。
なんだろう。
急に空気が変わった気がする。
先輩を見る。
先輩も真っ直ぐこちらを見ていた。
その表情を見た瞬間。
なんとなく分かってしまった。
心臓がうるさい。
でも何も言えない。
ただ見つめ返すことしかできなかった。
「好き」
はっきりと告げられた言葉に息が止まる。
先輩は目を逸らさなかった。
「後輩としてじゃなくて。恋愛感情として」
少しだけ困ったように笑う。
「気付いてなかったかな」
そして。
「好きなんだ」
ごまかしも冗談もない。
だからこそ。
私も答えを出さなければいけないと思った。
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