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夢小説設定
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店内はほどよく静かだった。
休日の東京は、混雑した通りと静かな裏通りでまるで別の街みたいになる。
俺が店を構えた場所も、そんな裏通りのひとつ。
表通りのカフェやパティスリーが賑わってる時間、うちに来るのは目的を持った人だけ。偶然の通りすがりなんて、ほとんどいない。
なのに。
小さなベルの音と一緒に、見覚えのない女の人がふっと入ってきたとき、俺は厨房の奥からその姿を盗み見て、息を詰めた。
(……なんだ、あれ)
一目惚れ──そんなもの、くだらないって思ってた。
見た目で人を好きになるなんて、滑稽だって。
それでも、その瞬間、体が勝手に前へ動いた。
(知ってる……? いや、知らない。いや、でも……)
たぶん、何度も似た顔を見てきたんだと思う。
高校時代の、曖昧な教室の記憶。
部活にばかり没頭してた俺には、クラスメートの顔なんてほとんど残ってない。
でも、何かが引っかかった。
理屈じゃない。
視界に入ったとき、喉の奥がかすかに痺れるような感覚があった。
ゆっくりとショーケースを見て、チョコを選んで、言葉少なに会計を済ませて。
淡々としているのに、なぜか印象に残る所作。
笑わないのに、引き込まれる気配。
──思い出した。
(俺のこと、知らない顔だ)
それが決定打だった。
テレビで特集されても、SNSで話題になっても。
どこに行っても「見ましたよ」って言われて、それに慣れてきた頃だった。
でも、この人は──俺のことを知らない顔で、チョコを買った。
その"無関心"が、逆に胸の奥をじわじわ焼いた。
もっと見てほしいと思った。
もっと触れてほしいと思った。
(……ねえ、俺を知って)
会計が終わって、袋を持って帰ろうとするその背中に、つい声をかけた。
「ねぇ、もしかして、白鳥沢?」
無理やりだった。でも、構わなかった。
このまま帰られるのが、耐えられなかった。
彼女は振り返って、不思議そうな目を向けた。
間近で見た顔は、記憶以上に綺麗だった。
派手でも華やかでもない。
でも、目が良い。空気が静かに揺れる。心臓が一拍遅れる。
「だよねぇ? 同じ学年だった人、だよね〜?」
軽く笑って、普段通りのトーンで。
でも内心は、やたらと早くなった鼓動を誤魔化すのに必死だった。
彼女は警戒するように、でもちゃんと答えてくれた。
あいまいな言葉と、間合いを測る仕草。
(あ〜、ダメだ、これ……)
おかしい。
こんなの、今までなかった。
別に女に困ってたわけでもないし、店でも客としてたくさんの人と会ってきた。
でも──この人だけは、帰らせたくなかった。
「チョコ、好きなんだ?」
「……ビターなのが」
(甘すぎないのが、好きなんだ)
そんな言葉の端々すら、俺の中にしっかりと沈んでいく。
味の好み、喋り方、雰囲気。全部、逃さず覚えておきたくなる。
彼女が出口へ向かうその瞬間、もう一度言葉をかけた。
「ちょっとだけ、待っててもらっていい?」
咄嗟に口から出た言葉だった。
でも、その瞬間、ひとつの決意が形になった。
(このまま帰らせたら、もう二度と来ない)
そう確信していた。
彼女の表情から、それははっきり読み取れた。
「軽薄な男は苦手」
そんな無言の拒絶が、ちゃんと伝わってきていた。
だから、厨房へ走って、まだ試作段階のチョコを掴んだ。
本当は、方向性も決まってないし、味もまだ詰めきれていない。
でも、そんなのどうでもよかった。
(繋がりが欲しかった。理由が欲しかった)
彼女に"もらってもらう"ことで、再び会う口実ができる。
意見を聞きたい。味見してほしい。それなら、不自然じゃない。
他の誰かじゃだめだった。
そして、チョコを渡して、彼女が開けようとしたその瞬間──
(ダメだ)
急に、全身を冷たいものが走った。
(今ここで食べられたら、俺の知らない顔をするかもしれない)
目の前でその反応を見る準備が、俺にはなかった。
期待して、それ以上に怖かった。
今はまだ、彼女を知らなすぎる。
「やっぱ、それ、今じゃなくていいや。また今度」
彼女が困惑する顔を、内心では冷静に観察していた。
(ごめんね。でも、そう簡単には見たくないんだよ、君の"味覚"も、"表情"も)
その瞬間にしか見られない、ほんとうの顔。
それを"俺だけが見る"っていうのが、
きっと──俺の欲望の形なんだ。
厨房に戻りながら、心の奥で思っていた。
(……次は、ちゃんと“好きにさせる”から)
俺を知らなかったその顔を、
これから、知ってる顔に変えていく。
じわじわと、気づかないうちに。
もう、逃げられないように。
休日の東京は、混雑した通りと静かな裏通りでまるで別の街みたいになる。
俺が店を構えた場所も、そんな裏通りのひとつ。
表通りのカフェやパティスリーが賑わってる時間、うちに来るのは目的を持った人だけ。偶然の通りすがりなんて、ほとんどいない。
なのに。
小さなベルの音と一緒に、見覚えのない女の人がふっと入ってきたとき、俺は厨房の奥からその姿を盗み見て、息を詰めた。
(……なんだ、あれ)
一目惚れ──そんなもの、くだらないって思ってた。
見た目で人を好きになるなんて、滑稽だって。
それでも、その瞬間、体が勝手に前へ動いた。
(知ってる……? いや、知らない。いや、でも……)
たぶん、何度も似た顔を見てきたんだと思う。
高校時代の、曖昧な教室の記憶。
部活にばかり没頭してた俺には、クラスメートの顔なんてほとんど残ってない。
でも、何かが引っかかった。
理屈じゃない。
視界に入ったとき、喉の奥がかすかに痺れるような感覚があった。
ゆっくりとショーケースを見て、チョコを選んで、言葉少なに会計を済ませて。
淡々としているのに、なぜか印象に残る所作。
笑わないのに、引き込まれる気配。
──思い出した。
(俺のこと、知らない顔だ)
それが決定打だった。
テレビで特集されても、SNSで話題になっても。
どこに行っても「見ましたよ」って言われて、それに慣れてきた頃だった。
でも、この人は──俺のことを知らない顔で、チョコを買った。
その"無関心"が、逆に胸の奥をじわじわ焼いた。
もっと見てほしいと思った。
もっと触れてほしいと思った。
(……ねえ、俺を知って)
会計が終わって、袋を持って帰ろうとするその背中に、つい声をかけた。
「ねぇ、もしかして、白鳥沢?」
無理やりだった。でも、構わなかった。
このまま帰られるのが、耐えられなかった。
彼女は振り返って、不思議そうな目を向けた。
間近で見た顔は、記憶以上に綺麗だった。
派手でも華やかでもない。
でも、目が良い。空気が静かに揺れる。心臓が一拍遅れる。
「だよねぇ? 同じ学年だった人、だよね〜?」
軽く笑って、普段通りのトーンで。
でも内心は、やたらと早くなった鼓動を誤魔化すのに必死だった。
彼女は警戒するように、でもちゃんと答えてくれた。
あいまいな言葉と、間合いを測る仕草。
(あ〜、ダメだ、これ……)
おかしい。
こんなの、今までなかった。
別に女に困ってたわけでもないし、店でも客としてたくさんの人と会ってきた。
でも──この人だけは、帰らせたくなかった。
「チョコ、好きなんだ?」
「……ビターなのが」
(甘すぎないのが、好きなんだ)
そんな言葉の端々すら、俺の中にしっかりと沈んでいく。
味の好み、喋り方、雰囲気。全部、逃さず覚えておきたくなる。
彼女が出口へ向かうその瞬間、もう一度言葉をかけた。
「ちょっとだけ、待っててもらっていい?」
咄嗟に口から出た言葉だった。
でも、その瞬間、ひとつの決意が形になった。
(このまま帰らせたら、もう二度と来ない)
そう確信していた。
彼女の表情から、それははっきり読み取れた。
「軽薄な男は苦手」
そんな無言の拒絶が、ちゃんと伝わってきていた。
だから、厨房へ走って、まだ試作段階のチョコを掴んだ。
本当は、方向性も決まってないし、味もまだ詰めきれていない。
でも、そんなのどうでもよかった。
(繋がりが欲しかった。理由が欲しかった)
彼女に"もらってもらう"ことで、再び会う口実ができる。
意見を聞きたい。味見してほしい。それなら、不自然じゃない。
他の誰かじゃだめだった。
そして、チョコを渡して、彼女が開けようとしたその瞬間──
(ダメだ)
急に、全身を冷たいものが走った。
(今ここで食べられたら、俺の知らない顔をするかもしれない)
目の前でその反応を見る準備が、俺にはなかった。
期待して、それ以上に怖かった。
今はまだ、彼女を知らなすぎる。
「やっぱ、それ、今じゃなくていいや。また今度」
彼女が困惑する顔を、内心では冷静に観察していた。
(ごめんね。でも、そう簡単には見たくないんだよ、君の"味覚"も、"表情"も)
その瞬間にしか見られない、ほんとうの顔。
それを"俺だけが見る"っていうのが、
きっと──俺の欲望の形なんだ。
厨房に戻りながら、心の奥で思っていた。
(……次は、ちゃんと“好きにさせる”から)
俺を知らなかったその顔を、
これから、知ってる顔に変えていく。
じわじわと、気づかないうちに。
もう、逃げられないように。
