店を出て、夜の街を歩きながら、私は何度も天童さんの言葉を思い返していた。

「俺、恋人とか……いないよ？」
たったそれだけ。
本当に、それだけだったのに──

どうしてこんなに、心の奥を揺らすのだろう。

"いない"と知ったところで、私には関係ないはずだ。

試作品を渡されて、それに対して感想を返して、
それだけの関係。

「美味しかったです」
「今日は少し苦めですね」
そんなやり取りを繰り返すだけで、
恋人でもなければ、友人ですらない。

それなのに、どうして──
"あなたのことを意識してるよ"
そう告げるような言葉を、あの人はさらりと渡してくるんだろう。

他のお客さんにも、あの人は優しい。

冗談も言うし、軽口も叩く。
写真撮影にも応じてるし、時々名前で呼んでいることすらある。

「あ、それならこっちの方が似合いそう〜」
そんな軽い調子で、チョコを勧める声。
自分にもかつて向けられたはずの言葉だった。

でも──
「今日は厨房じゃなくて、俺が出たんだよ」
そう言ってくれたのは、私にだけだった。

他の人には見せないような顔を、
他の誰にも聞かれない声のトーンで、
私にだけ向けてくれる。

それが、確かに"特別"だと思ってしまうのが、悔しい。

もしも彼が誰にでも同じことをしているのなら。
それはただの「人気店のオーナーとしての対応」でしかない。
でも、私にだけ、少し違う。

「意識してるよ」なんて言わない。
「君が特別だ」とも言わない。

でも、あの人の視線やタイミング、会話の呼吸──
"わたしが選ばれている"と錯覚するのに、十分だった。

「……そういうのが一番、ずるいんだよ」

つぶやいた言葉は、風に消えた。

誰にでも好かれる人って、ずるい。
誰にでも優しくできる人って、こわい。
そして、その中で"私だけに優しいように見える人"って、もっとこわい。

私は、付き合うって言葉がないと、
その関係に名前がつかないと、
不安になる人間だった。

ちゃんと「付き合おう」と言われて、
「恋人」になって、はじめて安心できる。

だから今の関係は──どこにも落とし所がない。

どこかに落ちてしまいそうで、でもまだ足は浮いている。

「……私、期待してるのかな」

誰に言うでもなく、自分に聞いたその言葉。
歩きながら、バッグの中で小さな箱の存在を確認する。

今日もらった、試作品。
帰ってもすぐには開けない。
味を見るのは、もう少しだけ気持ちが落ち着いてから。

だって、このチョコレートを食べる瞬間──
私はたぶん、彼を考えるから。

（他の誰かじゃない、"私"にだけ渡す味）

それが、何を意味してるのか。
私がどう思ってしまうのか。

あの人は、全部わかってる。