「○○ちゃん、今日の服、ちょっと大人っぽいね〜」

いつもの調子で言っただけ。
声色も、笑い方も、意図的じゃないように。
でも、彼女のまばたきが、一瞬だけ止まった。

その"コンマ一秒の反応"を、俺は見逃さない。

（……やっぱり、名前呼びは刺さってるね）

彼女の反応が変わったのは、ほんの数回前からだ。
苗字って呼んでいた頃は、もっと距離があった。

敬語で会話が始まり、
話題も他愛ないものに限られて、
"チョコの感想"を聞く時間も、まるでインタビューのようだった。

でも、"○○ちゃん"と呼んでから、
彼女の口数が増えた。

視線が、俺のほうに向く時間が少しだけ長くなった。

頬に指がふれる頻度が増えた。
落ち着かない足取りになった。

それら全部を、彼女自身は気づいていない。

名前を呼ぶというのは、距離を詰める行為じゃない。
「今、自分はこの人に呼ばれている」と意識させる手段。

しかも、"ファーストネーム"に"ちゃん"をつけることで、
程よく親密で、でも恋愛に限定されない微妙なラインを狙える。

甘い空気ではなく、逃げ道を残した侵食。
それが一番、彼女みたいな人には効く。

（○○ちゃん、自分が"名前"で呼ばれることに慣れてないんだ）

最初は、ちょっとした観察だった。

会社でもあまり人とつるまない。
友達が多いタイプでもなさそう。
家族とも、あまり頻繁に連絡をとっていないっぽい。

そういう人って、"呼ばれる自分"に対する自意識が強くなる。

名前を呼ばれるたびに、"自分"という輪郭を意識してしまう。
つまり、心の中で"他者との関係性"を意識せずにはいられない。
その不器用さが、俺にとっては最高にわかりやすい。

「ねえ、○○ちゃん」

そう呼んだ瞬間に、彼女の喉が小さく上下する。
口角が引きつって、それを隠すように笑う。
たぶん、自分でも理由がわからないまま、呼ばれるたびに体が反応している。

（バレたくないんだろうな）

俺に対して動揺しているなんて、知られたくない。
自分だけが"意識してしまっている"と知られたくない。

でも、そういう時の顔が一番かわいい。

目が泳いで、手が落ち着かなくて、
言葉を選びすぎて、話すテンポが少しだけ変わる。

（ふふ、かわいい）

それを表に出さないのが、俺の"やさしさ"。

彼女は今、"この関係に名前がない"ことに戸惑ってる。

俺が異性として見ているか、いないか。
特別扱いなのか、たまたまなのか。
何も言われていないからこそ、彼女は答えを持てない。

でも、俺はあえてそこを言葉にしない。
名前を呼ぶだけで、
それ以上のことは何も言わない。

"意識させた"ことに気づかれないように、
でも"気づいたまま"でいてもらうように。

それが、今の段階での最適な支配だから。

俺の中では、彼女の感情はもう読めている。
・特別扱いに慣れてない
・自己肯定感は高くないけど、観察眼はある
・人と一定の距離を取って、飲み込みがち
・でも、言葉にしないと気が済まないお節介な一面もある
こういう人は、"曖昧さ"に最も弱い。

だから──
"名前を呼ぶ"という小さなカードを、
彼女がどれだけ"大きな意味"にしてしまうかを、
俺はじっと、見てる。

「また、○○ちゃんの好きそうなの作ったから〜。味見してくれる？」

そう言えば、またきっと目をそらすだろう。

「わたしなんかに……」って、顔に書きながらも、
断れない理由を心の中で探して、
"自分の意思で選んだこと"にしてしまう。

（それでいい）

名前を呼ばれるたびに揺れる。
なのに、それを止められない。
そして、気づいたら、"名前で呼ばれないと物足りない"になっていく。

そこまで行けば──もう、引き返せない。

次は、"他の誰にも呼ばれていない名前"の呼び方にしようか。

「……○○」
"ちゃん"を取っただけで、
一気に体温が上がるような、そういう呼び方。

その一音で、彼女の顔がどう変わるか。
どんな風に心が動くのか。

俺は、それを見るのが楽しみでしかたない。