「俺、次の新作、○○ちゃんの"これ好き"って言葉から決めたんだ〜」

そう言われたとき、思考が止まった。

いつも通りの笑顔で、冗談とも本気ともとれるような口調。
"軽く言っただけ"みたいに、さらりと口から出てくる言葉。

でも、私はうまく笑えなかった。

チョコの感想を言ったのは事実だ。
たしかに、「この後味、すきかも」と、
ぽつんとこぼした覚えがある。

だけど、それってほんの一言で、
どうこうするほどのことじゃない。

"新作のヒントになった"なんて──
それを本気で言ってるとしたら、ちょっと重たいし。
冗談だとしても、それを笑えない自分が、正直めんどくさい。

（……私、ただのお客なんだけどな）

どれだけ彼が有名で、
どれだけテレビにも出てて、
どれだけショコラティエとして成功していても──

私はその世界とは無関係な、
ただの会社勤めの一般人でしかないのに。

"あなたの一言が新作を決めた"なんて、まるで特別な存在みたいで…
少し気持ち悪いって思ってしまった。

でも、言葉にはしなかった。

だって、それをそのまま返してしまったら──
なぜか自分の中で、なにかを壊す気がしたから。

彼の口調はいつもと変わらない。
笑っていて、軽やかで、優しい。
それ以上でも以下でもない、
ちゃんと「常に等距離」でいる感じ。

けれど、いつからだろう。

彼がふと、私を"○○ちゃん"と呼ぶようになっていたことに気づいたのは。

最初は、"お客さん"って呼ばれていたはずだ。

次は苗字にさん付け
いつの間にか"○○ちゃん"。

気づいた瞬間、胸の奥がぞわりとした。

嬉しい、とか、特別に感じた、とかじゃない。
もっと、ずっと……
言いようのない違和感と、恥ずかしさだった。

（もしかして、私のこと、女としては見てない？）

その可能性が一番こわかった。

だから、笑って聞き流すしかなかった。

「○○ちゃん、ほんと感覚するどいね〜」
「味覚に芯があるっていうか、方向性がはっきりしてる」

そんな風に言われるたびに、
感想を言うのが少し怖くなっていく。

"この言葉、どうとられるんだろう"
"この反応、意識してると思われたら恥ずかしい"

そうやって、だんだん、
自分の感情の置き場がわからなくなっていった。

（私、何してるんだろ）
ふと、帰り道の電車で思った。
彼に会うたびに、自分の中で感情が波打つ。
ただお客として見てほしいわけでもないのに、
特別扱いされすぎるのも怖い。

この間までは、"試作品を食べて感想を伝える"という
明確な"用事"があったから、彼に会いに行けていた。

でも最近は、彼の言葉が少しずつ変わってきて──

「○○ちゃん、いないとさ、ちょっと物足りないんだよね〜」
「君の反応が一番リアルで助かるんだ」

そんな風に言われるたびに、
心のどこかがざわざわして、落ち着かない。

（……異性として、意識してしまっている）

それを認めるのが、一番苦しかった。
だって彼は、
私をそんな風に見てるようには思えないから。

あくまで、無邪気で、仕事熱心で、
人懐っこい天童覚のまま。

きっと、"特別に思っている"という演出が自然すぎて、
それが仕事の延長線なのか、
私個人に向けられた好意なのか、
その境界が見えない。

（だから、たぶん私は混乱してる）

ただの一人の客に、新作を渡す。
たまたま散歩先で"偶然"会う。
"○○ちゃん"と名前で呼ぶ。

些細な積み重ねが、
彼のことを"ただの店主"ではいられなくしている。

でも、彼の中で私は──
どういう存在なんだろう。

たぶん──
この関係には"名前"がつかない。

友達でもないし、仕事仲間でもないし、
もちろん、恋人でもない。

それでも、彼にとって私は"他の誰でもない誰か"に見えている気がする。

（でも、それは私の思い込みかもしれない）

この不確かさが、怖い。
でも、ちょっとだけ嬉しい。

だから私は、「今日も店に行こうか、やめようか」と悩んで、
結局また、店の近くまで足を運んでしまう。

「○○ちゃん、今日の服、ちょっと大人っぽいね〜」
さらりと、軽く笑って。
きっと深い意味なんてないんだろう。
でも、どうしてだろう。

心の奥が、少しだけ揺れた気がした。