小さな違和感。
彼女の目の奥にそれが生まれたことに、気づかないはずがなかった。

今日、ガナッシュを渡したとき。
いつもと同じように"ありがとう"と笑った彼女の声が、
ほんのわずかに硬かった。

（あ〜ぁ……気づいちゃったかな？）

でも、落胆はなかった。
むしろ──ほっとしていた。

"ここ"まで来て、ようやく彼女の中に何かが芽生えた。

警戒心。
それは"拒絶"じゃない。

むしろ、俺の存在が彼女の中で"異物"として認識され始めたってこと。

異物として認識されれば、そこに意識が向く。
意識されれば、存在は固定される。

そこから先は、"安心"と"親しみ"を使って、異物を"自分の一部"に変えていく──それだけ。

（彼女は怖がってる。俺のことを、少しだけ）

"優しすぎる人って、怖い"──
たぶんそんなふうに思ったんだろう。

でもそれは、俺の言葉や態度に“悪意”がなかったからこそ生まれた迷い。
もし少しでも露骨な好意を出していたら、もっと早く拒絶されたかもしれない。

だから俺は、"優しさ"のふりをしていない。
本当に優しい人間として、彼女の前に立っている。

ただしその優しさは、
『侵食のために研ぎ澄ました刃』だ。

夜。
閉店後の店内で、彼女からの感想メッセージを読み返す。

「おいしかったです。でもちょっと、甘すぎたかも」
「体調のせいかもしれません。ちょっと疲れてたので…」
うんうん。
素直で、いい子だ。

その"疲れてた"の一文に、俺は小さく笑う。

「そっか。ほんとはね、もう少し強めの苦味も混ぜようか迷ったんだ〜」
「でも、君の"疲れてるときでも安心できる味"って言葉が、ずっと頭にあってね」
言っていない"言葉"を、あたかも彼女が過去に話したかのように添える。
それが、次の段階の仕込み。

「そう言ったかな？」と迷わせ、
「言ってたかもしれない」と思わせ、
やがて「じゃあそうだったんだ」と納得させる。

記憶の境界を曖昧にしていくのも、支配の一部。

実際、彼女はまだ"俺の名前を記憶している程度の存在"から抜け出せていない。

過去に接点はない。
高校の同級生。
クラスも違えば、会話もなかった。

でも、今は違う。

俺は彼女に"味"を与え、
"体調を気遣う言葉"を与え、
"好きな時間帯"と"移動ルート"を把握している。

彼女がこの先どんなふうに疲れて、どんな日に甘いものを欲しくなって、
どのくらいの重さの言葉なら受け止められるのか、もうある程度わかる。

でも、まだ足りない。

今、彼女は俺を"心地よいけど、ちょっと怖い存在"として見ている。

この"ちょっと怖い"を、次でどう扱うか。

本音を言えば、もう少し警戒してくれてもよかった。
そのほうが俺は"口実"を得られるから。

だけど、彼女はまだ"逃げていない"。

怖い、でも嫌じゃない。
気になる、でも断れない。
少し近づきすぎた気がしても、それを理由に離れるほどじゃない。

それが、理想的なバランス。

だから、今はまだ"一線"は越えない。

たとえば──
・彼女の職場を特定するような真似も
・無理に連絡を増やすことも
・家の最寄り駅を確認することも

しない。今はまだは。

それよりも、
"優しさ"をもう少しだけ強める。
"理解者"の立場で近づく。
"気が合うね"という偶然を何度か用意する。

そうして、「近い存在」であることを当たり前にしていく。

厨房に戻り、ノートを開いて今日の反応をメモする。

・瞳の奥の違和感：あり（0.5）
・手を引く兆候：なし
・次回接触の間隔：通常通りでOK

その隣に、"誘導予定"と書かれた欄がある。

「次は、"もっと話したい"と思わせる空間を作る」
「チョコをきっかけにした対話、試食、感情共有」
「ゆるやかな招待、立ち入りを自然に許す関係性へ」
ノートを閉じる。
○○ちゃんの笑った顔が、ふと脳裏をよぎった。

彼女はまだ、自分の中に俺が入ってきてることに気づいていない。

違和感はある。
けど、その違和感を"消化できる理由"を、俺が代わりに与えてる。

それが、"人のよさ"の皮を被った支配。

今はまだ、"おいしいチョコをくれる人"でいい。

もう少し経ったら、
"ちゃんとわかってくれる人"になって、
その次に、"誰よりも自分を知っている人"になる。

彼女が"私の中には、もうこの人がいる"と気づいた頃には──

甘さも、苦さも、全部混ぜ込んで。
逃げられない味になってる。