「お仕事、忙しそうだね〜。そろそろ疲れも溜まってない？」

いつの間にか、彼の言葉は"日常"に寄り添うものに変わっていた。

以前はチョコレートの話だけだった。
甘さとか苦さとか、そういう"味"に関することだけ。

でも今は、"体調"とか、"生活リズム"とか、
まるで昔から知っている人のように、何気なく気遣ってくる。

（……あれ、私、いつどこでそんなこと言ったんだっけ）

思い返す。
確かに「疲れていて味がよくわからなかった」とメッセージしたことはあった。

でも、それだけで？
まるで彼は、私の生活リズムを知ってるみたいで、
なんとなく背筋がぞわっとした。

けど、彼の声はいつも通り、優しい。

「よかったら、今度ちょっと贅沢なガナッシュ、作ってみたんだけど〜」

そう言って笑う彼の姿を、
"親切な人だな"って、普通なら思うはずなのに──

（……境界線って、どこにあるんだろう）

ふと、そう思ってしまった。

気づけば、私はもう"ただの客"ではなくなっていた。

最初は、ただの訪問者。
店をふらっと覗いて、チョコを買って帰るだけの存在だった。

でも今は、特別扱いを受けている。
まだ店頭に出ていない試作品をもらって、感想を求められて
時には手紙の返事みたいなメッセージが届いて──

（いつから、こんなふうになったんだろう）

嫌じゃない。
どこか、うれしかった部分も確かにあった。

でも、うれしさの隣にある小さな違和感が、
日に日に大きくなっていくのを、私は見て見ぬふりをしていた。

それはある休日の午後だった。
「疲れてると思うから、これだけでも食べてみて」と、紙袋を渡された。
受け取ったあと、彼は当たり前のように言った。

「そういえば、今日△△線って混んでなかった？　最近帰宅ラッシュすごいよね〜」

……え？　って思った。

私がその路線を使ってること、どうして知ってるの？

言ったこと──あったかな。
でも、はっきりとは覚えてない。

「あれくらいの時間帯って、混みやすいんだよね〜、あの路線」

笑いながら言う彼の言葉に、理由はある。
全部"自然"だ。偶然といえば偶然に聞こえる。

でも、私の中にある違和感は、
そういう小さな「偶然」が積み重なって膨らんでいた。

その日の夜。
彼のくれたガナッシュを、無言でひとつ食べた。

甘さがじゅわっと広がって、
そのあとに苦味とスパイスの香りが追いかけてきた。

美味しい。
美味しいけど……ちょっと、苦しかった。

この甘さの奥に、彼の気配がある気がした。

（私の生活に、味に、距離に、気分に──彼は全部入ってきてる）

そして、私がそれを"拒否できていない"ことが、
いちばん怖かった。

アプリを開くと、メッセージが届いていた。

「今日もありがとう。君の味、少しずつ見えてきた気がするよ」
その一文に、ぞっとした。

"味"じゃない。
"私そのもの"を、少しずつ“把握されている”気がしたから。

（優しすぎる人って、怖いのかもしれない）

そう思ったときには、
私の中のどこかに、彼のための"領域"ができあがっていることに気づいていた。