きみの家と、その周辺の話

8 【その時】


 その時が来るのは、思っていたよりも早かった。

「寛人、ちょっといい?」

 朝起きて、洗面所で顔を洗っていたところを声をかけられた。

 タオルで顔の水気を拭いてから、後ろを振り返れば、すでに着替えを済ませた母さんが立っていた。作業服には、職場で着替えるのだろう。ポロシャツとカーゴパンツというラフなスタイルだった。

 仕事柄、動きやすいように短くした髪、少しつり上がった目。笑うときはいつも豪快に口を開く。

 今は薄化粧をほどこした母さんの顔が真剣に見えた。離婚の話を切り出したときも、緊張感は漂っていたが、その時よりも顔色はいい。頬もふっくらしている。外見から見る限りは、幸せなのだろう。

「今週の日曜日、予定を開けておいてくれる?」
「何で?」
「寛人に会わせたい人がいるの」

 ついに来たかと思った。

 うなずく前に、母さんは「よろしくね」と言い残して洗面所から去っていく。

 よろしくと言われても、母さんの交際相手と何を話せばいいのか見当もつかない。スマホで検索したら、対処法でも出るだろうか。せめて、相手の特徴を聞きたかった。

 先が思いやられて、ため息をついた。

 まだ月曜日で、今週ははじまったばかりだ。日曜日まで無事に乗り切れるのか、自信がなかった。



 『公園で待ってる』とメッセージを送ったのは、渓太とふたりきりで話がしたかったからだ。家に帰らず、夕飯の残りも持ってきていない。今日は渓太の家にお邪魔するというよりかは、ただ会話がしたかった。

 部活の後になるから大分遅れると言ったが、渓太は断らなかった。

 俺はベンチに腰をかけて、スマホゲームを始めた。指でなぞるだけの簡単なパズルは、深く考えなくても進められた。

 日が傾くに連れて、スマホの画面が眩しく感じられる。街灯が点き始めた頃に、渓太は公園内に現れた。俺を見つけたようで、駆け寄ってきた。

「ごめん、遅れた」

 渓太は真新しい紺のブレザーを着ていた。紺のブレザーと灰色のブレザーとを眺めて、お互い別の学校を選んだのだと改めて思う。

 渓太はネクタイの結び目に指を入れて緩ませてから、俺の左隣に座った。話す姿勢を作るために、スマホをブレザーのポケットにしまった。

「いや、俺の方こそ、突然、待ってるなんて送っちゃって。ごめん」
「謝るな。大事な話なんだろ?」
「うん、俺にとっては」

 渓太に母さんとのやり取りを話して聞かせた。相談というよりかは愚痴に近かった。

 愚痴で終わらせるのは後味が悪かったから、朝っぱら言わなくてもいいのにね、と笑っておいた。おかげで今日一日、何をやっても身が入らなかったことも。

 渓太は表情を崩さなかった。眉間にシワを寄せて口をきつく結んでいるのは、怒っているわけではない。考え事をしている仕草だ。物事を真面目に捉えて、答えを出そうとしてくれる時の渓太だった。

「俺は、その人がどんな人なのかわからないけど、寛人は自分の気持ちを正直に言ったらいいと思う。ほら、この前、言っていただろ?」

 真っ直ぐな目でこちらを見てくる。

「うん、全部、伝えるつもりではいるよ。どんな結果になっても」

 結論は出ているのに、渓太を頼るのは背中を押してほしいからだ。その大きな手に押されれば、前に進める気がするからだ。

「最悪、同居することになったら、うちに来ればいい」

 渓太は決して冗談を言わないような顔で、そんな言葉を吐く。

「それは、さすがに悪いよ」
「悪くない。反対されたとしても、俺が父さんを説得する」
「何で、そこまでしてくれるの?」

 反対の立場だとして、渓太を家に住まわせるのには、ためらいがある。母さんも反対するだろうし、説得するにも「友達だから」では、理由として弱い気がする。

「わからない」
「わからないって」
「お互いひとり親ってこともあるだろうし、俺もいつか、寛人みたいに誰かを紹介されるかもしれない。それを恐れて、他人事だと思えないんだと思う。寛人を助けられれば、俺も助かるような気がするし。何より……寛人といると……楽しい」

 すぐいいことを言って照れる渓太は、やはりというべきか、目を逸らしていた。俺も渓太の想いが嬉しくて、柄にもなく照れる。

「なんだ。好きって言われるのかと思った」

 照れを誤魔化すように言った。友達同士ではあり得ない、あえて遠く離れた感情を口にした。冗談で済むかと思いきや、渓太は真剣に受け取り、本人なりに答えを出したようだ。

「俺には、好きがよくわからない」

 小さな声で呟いた。

「同じクラスに可愛い子がいる。でも、小動物を見ているような可愛さで、好きとは違う」

 言われてみると、俺も同じようなものだった。周りには可愛い子、明るい子、いい子はたくさんいる。キス、それから先のことも、するのは悪くはない。男の本能みたいなもので、想像すれば下半身もうずく。

 だが、そこに想いはない。「好き」とは違う気がする。

「俺もわからないな」

 高校生になっても恋を知らないなんて、言葉にしてますます情けなくなった。

「寛人も、か」
「うん、だって、無理矢理には好きにならないんだし、仕方ないよ」

 焦って誰かと付き合ったとしても、長続きするとは思えなかった。

 ちゃんと恋愛しても別れるときは別れるのだと、知っている。愛だの恋だのだけでは、家族を続けられないことも知っている。好き合っていても突然の病や事故で離れることもある。

 そうだとしても、母さんのように新しく相手を見つけられるかもしれない。

 頭を使ったら、勝手に腹が鳴った。渓太の耳にも届いたらしい。小さく笑われた。

「とりあえず、飯食いに行くか」
「うん」

 やはり渓太と話すと、心が軽くなる。朝の自信のなさが嘘のように、どうにかなるかもしれないと考えが落ち着いた。
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