さんごの色
【会話する心】
アメリカでのバレンタインデーというと、学校でも行事になっているくらいメジャーだった。小学生の頃から友達とカードやお菓子を交換していた。家族にも日頃の感謝をこめて、バレンタインカードを送るのが普通だった。
それでも、恋人と夫婦が主役なのは間違いないと思う。主に男の人が、女の人に向けて贈り物をしたり、美味しいディナーに招待したりしていた。
ぼくの両親もバレンタインデーになると、お高めのレストランで食事をしていた。父さんは花束とアクセサリーを母さんに贈っていた。
花束を抱えて帰ってきた母さんの嬉しそうな表情を見て、ぼくもいずれは誰かに渡せたらなんて、憧れを抱いていたんだ。
残念ながら、アメリカにいた頃は、ぼくに恋人がいたことがなかった。
だけど今年は恋人がいる。長く想っていた初恋の人。そんな大事な人である草原せんぱいの笑顔が見られたら、嬉しくて泣いちゃうかもしれない。
◆
お昼が終わった食堂の席。相談もかねてバレンタインデーの話を一安くんにしたら、長いため息を吐かれた。一気に嫌な予感がしてきた。
「マノ、この学園にはバレンタインデーなんてものは無いんだ」
頭の中で何度も復唱する。バレンタインデーがない。バレンタインデーが無いなんて、信じられない。
そう思って、正面の席にいた兼定くんの方を見ると、一安くんの言葉に目を伏せてうなずいていた。
「まあ、無いというのは言い過ぎだが、生徒会にはない」
「え、バレンタインデーが無いなんてことあるの?」
「この学園では、生徒会の人たちに贈り物をするのは禁止。その辺は親衛隊が厳しく管理していて、ちょっとでも破ると、血祭りに上げられるらしいよ」
一安くんが鬼気迫る顔で言った。声の音量もすごく絞っていたから、ぼくも思わず息を潜めた。
「じゃあ、ぼくは草原せんぱいに何にも贈り物ができないってこと?」
「そうなるね」
兼定くんと一安くんは揃って、眉を寄せる。ぼくを気の毒に思っているのだろう。まだ事実を飲み込めなくて、どうにかして、抜け穴を探す。
「チョコや花束じゃなくても、ダメ?」
「うん、この日だけは、どんな贈り物も禁止。生徒会も受け取ってはダメなんだ」
「風紀委員は?」
兼定くんも一安くんも人気があるから、気になって聞いてみた。一安くんは「えっと」と言いづらそうにしながら、正面にいた兼定くんに視線を向けた。
「風紀委員は決まっていない。つまり、普通にもらってもいいし、贈ってもいい。風紀委員は、生徒会ほどの人気はないからな」
「そうなんだ」
禁止しなければならないほど、生徒会の人気は桁違いなんだろうなぁと改めて思う。
草原せんぱいと付き合うようになっても、親衛隊の人たちが守ってくれているからなのか、ぼくに実害はほぼない。だとしても、実際は、思った以上によく思わない人もいるのだろう。時々、知らない誰かに強くにらまれていることもあるし。
「だけど、兼定は毎年、いっぱいチョコをもらっているよね。なぜか、みんな抹茶なのが面白いけど」
一安くんはくすくすと笑い出した。確かに兼定くんからは和風な雰囲気を感じる。着物を着て、和室で抹茶をすすっても違和感は無さそうだ。
一安くんと違って、兼定くんは拗ねたようにムスッとした。
「俺とすれば、生徒会みたいに禁止されてもいいんだが……」
「それはダメ!」
一安くんは声を大きくして、立ち上がった。急に大声を出したから、周りの視線までも集めている。顔を真っ赤にした一安くんは、口を何度か開け閉めしたあと、大人しく席に着いた。
「何で、駄目なんだ?」
今度は兼定くんの方が柔らかな表情をしていた。一安くんを見つめる目がとにかく優しい。うつむいている一安くんは、その目に気づいていない。赤い顔を手で隠して、自分のことしか見えていないんだろう。
「だって、俺、兼定からのチョコを、毎年、楽しみにしてるから。俺もあげたいし。べ、別に、ひ、日頃の感謝をこめてだからな!」
恥ずかしさを乗り越えて言葉にするのがどれだけ難しいか、ぼくにもわかる。草原せんぱいを前にすれば、いつだってそうだ。どんなに言葉につっかかっても、せんぱいはさえぎらずに辛抱強く待ってくれる。
ようやく顔を上げた一安くんは、兼定くんを見て固まった。ぼくもあっと思う。あの兼定くんが笑っていた。周りもざわついている。
「そうか」
「そ、そうだよ」
ふたりのやり取りを見ていて、羨ましいのと同時に、微笑ましかった。
バレンタインデーではこういう恋人未満の人たちのきっかけにもなるんだろうか。好きだと想いを伝えるきっかけになって、恋が成就したら、こんな素敵なことはない。
父さんや母さんみたいに、日頃の愛情を確かめることができたら。
改めてアメリカ式のバレンタインデーを考えたところで「あ!」と声が思わず出てしまった。
「マノ、ごめん、忘れてた」
「ううん、大丈夫。そうだ、その手があったんだ」
「え、マノ、どうしたの?」
「ごめん、ちょっと、用事を思い出した!」
今度はぼくが席を立つ番だった。こうしてはいられない。ぼくはスマホを取り出して、ある人に連絡を入れた。
◆
チョコや花束といった贈り物はダメだと聞いた。だけど、ぼくはバレンタインデーを諦める気はない。そのために連絡したのは、
「小沢くん、呼び出したりして、何の用かな?」
青士せんぱいだった。相変わらず、シャツのボタンを上まで止めないで、鎖骨を見せてくる。しかも、息がかかるほど、顔が近い。冷蔵庫が背中に付くくらい詰め寄られた。
「あの、少し離れてもらっても?」
「せっかくふたりきりなのに」
そう言ってすくい上げるようにぼくの顎に手を添える。
「お話がしたいんですけど」
「いいよ、ここでして」
今更、青士せんぱいに相談しようと考えたことを後悔している。だけど、この計画を思いついたとき、真っ先に浮かんだのが青士せんぱいだった。
「青士せんぱいは料理がお上手ですよね」
「まあ、年下の男を手懐けには、一番いいからね」
「手懐けるって」
「小沢くんには効果ないみたいだけど」
「は、はは」
青士せんぱいの言葉が本気なのか冗談なのか、今でも見分けられない。ぼくの微妙なリアクションでも、青士せんぱいは楽しそうに笑う。
「それは冗談だけど、で、僕に何の用?」
「あの、料理を教えてほしいんです。できれば、チョコを使った料理で」
反応が気になって、顔色をうかがうと、青士せんぱいは、途端に表情を無にした。眼鏡の奥の目がまったく笑っていない。さっきまであんなに笑っていたのに。
「きみは本当に清々しいほどに草原が好きだな」
「え、あ、まあ」
誰かに指摘されるのは恥ずかしいけど、自分でも草原せんぱいが好き過ぎて困る。
「僕が歓迎会のときに迫ったことも忘れているみたいだし、振られたといっても眼中にないのが寂しいな」
「ご、ごめんなさい!」
そういえば、歓迎会の時に色々あったことをすっかり忘れていた。一切、警戒せずに部屋に上げて、ふたりきりになっている。間抜けなぼくを見て、青士せんぱいは苦笑していた。謝られるともっと複雑な気分になるよ、と言った。
「話を戻すと、チョコレートを使った料理を作りたいということだね」
「そうです」
青士せんぱいはスマホを取り出すと、ネットでレシピを調べているみたいだった。
「チョコレートパスタはどう? このチョコレートが練り込まれたペンネをさ、カルボナーラみたいにすると美味しくなるらしい」
「美味しそう!」
チョコの色に染まったペンネ。チーズ、クリームとベーコンを合わせる。これなら、材料があれば、ぼくでも作れそうだ。またまた警戒せずに青士せんぱいに近づいたら、頭を撫でられた。
「うわっ」
「きみは本当に可愛い」
綺麗な顔に笑われると、好意が無くてもドキドキしちゃう。こんな光景を関さんに見られたら……。そういうときに限って、
「お前ら、何してんだ?」
帰ってきてしまうのが、関さんの間の悪いところだと思う。
◆
バレンタインデー当日、ぼくは草原せんぱいを部屋に招待した。テーブルクロスを引いて、奮発したシャンペン。お花なんかをテーブルに飾ったりして、音楽は邪魔にならないような静かなBGM。
「気合い入ってんな」
「だって、バレンタインデーですよ。アメリカではこうやってディナーに招待したり、ダンスパーティしたり、結構、盛大にやるんですからね」
「そうなのか」
去年までのバレンタインデーを振り返る。
「ビルともカードを交換したり、お菓子をあげあったり」
「男同士なのに?」
「え? 友達にもカードやお菓子をあげたりしますけど」
「そういうことか」
「他にどんな意味があるんですか?」
日本にも義理チョコとか、友チョコの文化があると聞いた。
首を傾げて聞いてみるけど、草原せんぱいは言葉を濁すだけだ。
「そんなことより、食おう。何か黒いな」
「これ、チョコなんです」
「マジか? 甘いのか」
「チョコパスタ自体には味がないはずですよ」
「そっか」
はじめは疑っていた草原せんぱいも一口二口、食べるに連れて、「うまい」と言ってくれた。サラダもチョコ。バレンタインチョコがダメなら、料理で食べてもらおうと考えた。草原せんぱいの口にチョコのペンネが運ばれるたびに、嬉しくてたまらなかった。
「嬉しそうだな」
「すごく嬉しいです」
好きな人とこうしてバレンタインデーを過ごせること。自分が作った料理を食べてもらえること。うまいと言ってもらえること。それをしてくれるのが、草原せんぱいで、漏れなく全部嬉しい。
だから、笑いっぱなしになっちゃうんだ。
「これ食え」
「えっ?」
草原せんぱいは真っ赤なハート型のボックスをテーブルの上に置いた。ぼくのクロスの上に置く。
「生徒会の方にはバレンタインデーが無いって聞いたんですけど」
「マノ。ここに親衛隊がいるのか? 風紀委員もいないだろ?」
「いないです」
「ふたりきりなんだから、チョコを渡そうがもらおうが誰にもわからねえだろ」
「そうですけど」
何か、呆気にとられていた。あんなに悩んでいたのに、簡単に答えを出されて、戸惑った。
「これ、開けてもいいですか?」
「ああ、開けろ」
ボックスの蓋を開けると、お菓子がいっぱい詰まっていた。見覚えのあるお菓子に思わず声が出た。
「あっ」
「アメリカじゃ、カンバセーションハートって言うらしいな」
カンバセーションハートというのは、アメリカではメジャーなハート型のラムネのお菓子だ。表面に短い文字が描かれている。そして、ちょうどぼくが手に取ったお菓子には『Marry me』と書いてあった。
「これ、どうぞ」
ぼくはそのお菓子を草原せんぱいに渡した。この意味を知っていたら、動揺する姿が見られるかもしれない。そんな小さなぼくの意地悪。
「Marry me? どういう意味だ?」
「わからないならいいです。ぼくはこっち」
ラムネを一つ摘んだ。そこには『I love you』。かなりストレートな言葉だった。
草原せんぱいはラムネの裏表を見てから、
「確か結婚してください……だっけ?」
とあっさり聞いてきた。知っていたのに、ぼくに聞いてきたんだ。『Marry me』は結婚してくださいという意味だけど、ぼくの口から恥ずかしくて言いたくなかった。でも、面と向かって言われたほうが恥ずかしいのだと、今このときに気づいた。
「知りません!」
ちゃんと答えられないぼくを面白がっているのか、草原せんぱいは隣の席まで来た。
「なあ、マノ」
目を合わせたくなくて、頑なに別の方向を見るのだけど、草原せんぱいはぼくの頬に手を添えた。
「マノ、こっちを見て」
抵抗をやめて、せんぱいの目を見ると、唇にそっと口付けられた。優しくて、チョコの味がほんの少しする。体が一瞬で熱くなってくる。
「ありがとな。おれのために色々、考えてくれて」
「いえ、せんぱいこそ、ありがとうございます。このラムネのお菓子。本当に懐かしかったです」
「そりゃあよかった。ホワイトデーはおれがうまいもん食わしてやる」
草原せんぱいは当たり前のように言ったけど、ぼくには引っかかった。日本には大分慣れてきたけど、まだ知らないことがあった。
「あの、ホワイトデーってなんですか?」
「えっ?」
「アメリカにはホワイトデーが無かったので」
「ホワイトデーっていうのはな……」
そこではじめて知った。男の人がバレンタインデーのお返しをする日らしい。しかも、バレンタインデーの倍返しをしないといけないとか。ぼくは首を横に振った。
「お返しはいらないです。これ、もらったし。すごく嬉しい」
言葉にすると、自分の感情を実感してしまう。そっか、こんなに嬉しい。涙がこぼれる。
「な、泣くなよ」
笑いながら泣いているのに、草原せんぱいは戸惑ったようにぼくの頬を撫でてくれる。
「ほら、マノ、口を開けろ」
『Marry me』のラムネがぼくの口に入れられた。懐かしいラムネの味。
草原せんぱいは口を開けて待っていたから、ぼくが取ったラムネをあげた。
〈おわり〉
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